2015/JUL/6 「近くて遠い200m」

ポートモレスビーの夜は思ったよりも涼しく、夜は快適に寝れた。朝インドネシアで買った最後のコーヒーをいれ、荷物をつめた。朝食がなかったので近くの商店へ行こうとすると宿のスタッフに止められた。商店は200mしか離れてなく宿のゲートから目視できたが、危険だからタクシーを使えと言われた。宿の男性スタッフは出てしまってるらしく、エスコートできる人がいないらしい。入り口の柵の間から商店のほうを指差して「そこだよ?」と言うが「ダメだ」と言われる。朝食はあきらめた。
空港から来たときのTaxiの運ちゃんに10時に迎えに来るように頼んでいたが現れる気配はなかった。宿のオーナーは見かねて空港まで送ってくれるといい、ランクルのトラックを中庭から出してきた。お礼を言って乗り込んだ。

空港の国際線ターミナルに着き、オーナーにお礼を言ってランクルを降りた。ガス代を払うと申し出たが「またPNGに来るときはたずねて来てくれ」と笑顔で言い、オーナーは去っていった。最初から最後までホントに気持ちがいい国民だ。

国際線ターミナルはできたばかりのようにきれいだった。搭乗ゲートで搭乗開始を待っていると、この2週間は毎日が刺激的だったなーとPNGで起こったことを思い出して笑えてきた。こんな旅をしたのは久しぶりのような気がした。また機会があればBougainvilleにも行ってみたいと思う。そこには黒いパプア人がブカ(ブラック)と呼ぶ、さらに真っ黒な人達が住んでいるとレイのミッショナリーのおじさんが教えてくれた。

Air Niuginiのブリスベン行きは予定通りにブリスベンに着いた。荷物をピックアップした後に税関のところでかなり怪しまれて、バックパックをくまなくチェックされたが、先進国に着いた安心感からどんどん調べてくれーと気持ちは軽かった。

空港の到着ロビーに出て、サインを頼りに直結する電車の駅へ行き、チケットを買ってホームへ降りた。これがPNGならすでに何人もの人に話しかけられてるだろうなとすこし寂しい気持ちになった。空はすでに薄暗く肌寒かった。南半球にはすでに冬がおとずれているようだ。




2015/JUL/5 「首都ポートモレスビー」

朝起きて、顔を洗って下に降りると、昨日のパプア人のおじさんがいて挨拶をした。おじさんはもう3ヶ月以上ここに住んでいるらしい。「ミッショナリーなの?」と聞くと「そうだ」と答えるがあまり宗教に興味があるようには見えない。

もう手持ちの食料はなかったから宿のスタッフにお湯をもらってコーヒーを入れた。おじさんはまとまった金があるのでレイで土地を買おうと思うと言う。レイは都会だから土地の値段もすぐに上がると言う。あと修理中だが車を持っているのでそれで何か仕事をしたいらしい。おじさんは「どう思う?」と聞いてきたが「布教はしなくていいの?」と聞くと神妙な顔になり「いいんだ」と答えた。なんとなく気づいていたがパプア人のミッショナリーというのはファッション的な要素が強い。ミッショナリーというと周りから尊敬されるのでミッショナリーになるが実際にはたぶん布教活動はしていない。パスターになるための学校もたくさんあり、多くの人が通ってパスターになろうとするが社会的地位に惹かれてという感じだ。

「おじさんに空港までの行き方を聞くとバスを二回乗り換えて1時間以上かかると言われた。おじさんは危ないので最後の乗り換えるところまで送っていくと言い、10時になったら出発しようということになった。

後から起きてきたパプア人の女の子が朝食を作ってくれた。卵とジャムが入ったサンドイッチだった。奇妙な味だったが食料のない身分でなにも言えないので笑顔で食べきった。彼女は就職活動でレイに来てるといい、会社からの返事待ちらしい。給料は20003000キナくらいだという。途上国の中ではダントツで高いが、ここの物価では楽な暮らしではない額だ。

水を補充しようと冷蔵庫を開けると水の容器は凍っていた。それを見たおじさんは「ちょっと待ってろ」と言い、水道の水を上から足して容器をぐるぐる回し始めた。どうやら冷蔵庫の水は水道の水を冷やしただけで昨日がぶ飲みしたのを深く後悔した。PNGの水道の水はたいてい雨水をタンクに貯めたもので屋根の雨どいは大きなFRPのタンクにつながっていて、そこから水道に引いていた。

水はあきらめ、荷物をつめて10時に宿をでた。バスを乗りついで中心部へ出たが、レイの町は今まで見たどの町より魅力のない町で、どの町よりもはるかに治安が悪そうだった。歩道橋を登ろうとするとおじさんはそこは逃げ場がないから良くないと歩道橋の下を歩いて渡った。スーパーに入るとかなりきれいで驚いたが値段も他の町よりも高かった。相変わらず輸入品ばかりで日本のスーパーよりも高い。これでよくやっていけるなーと思う。

空港行きのバスに乗りこんで、おじさんにお礼をいうとバスはちょうど走り始めた。45分くらいで何もないところに建つ小さな空港に着いた。空港の周りには牛が歩いていたが、フェンスで囲まれただけのヴァニモやゴロカの空港よりは空港らしく見えた。

前回のヴァニモ発のTravel Airは突然キャンセルされたので安全をみて今回はPNGのナショナルフラッグのAir Niuginiにした。カルカル島のパウロが「Travel Airは以前ある空港で唯一のオーストラリア人スタッフが1週間の休暇を取ったとき、その1週間はその空港から1度も飛行機が飛ばなかったことがあった」と教えてくれたのを思い出し、Air Niuginiにして良かったと心から思った。飛行機はLCCのような感じだったが、1時間くらいでポートモレスビーに着いた。空港のBaggage claimのベルトはひとつしかなくすべての便の荷物がそこから送りだされてきた。その部屋には大きな看板が2つだけ壁に掛けてあり、ひとつはサバ缶の看板でもうひとつはツナ缶だった。

空港の建物から出て、タクシーレーンに行き、レイのおじさんの教えてくれたたゲストハウスの名前を告げると「いくらだ?」と聞かれたので「10キナだ」と答えるとそんなの無理に決まってるじゃーんという感じの反応だった。タクシーは20台くらい並んでたので片っ端から聞いてまわると後ろのほうのタクシーが「それでいい」と言い、乗せてくれた。だが行った先は違うホテルで1150キナだと言われた。どうやらタクシーの運ちゃんはその宿を知らないようで、そこのホテルのスタッフに場所を聞いて、また出発した。着いた宿は聞いてた名前とはニアミスだったが、とりあえず値段を聞くと150キナだった。宿のオーナーは150以下はポートモレスビーにはないよと言う。100で泊めてくれというとはじめは渋ったがOKが出た。日本人だというと急に対応がよくなり、部屋もAC付きの250キナもする部屋に移してくれた。ここでもJAICAの活動は有名なようだ。

とりあえずスーパーに行きたいというとアンクルと呼ばれるおじさんがエスコートすると言って一緒にスーパーへ歩いていった。宿の近くには他にも商店があったが、アンクルはスーパーのほうがいいぞと言い、大きなスーパーに連れて行ってくれた。スーパーは大きくてきれいだったが、カイバー*は地方よりも高かった。お腹は減ってなかったのでコーラだけ買い、アンクルにも買ってあげた。

宿は空港の近くなので首都というのはピンとこなかった。宿のオーナーに中心部を見たいと言うと今からでは遅いから無理だという。明日の飛行機でブリスベンに行くのでなんとか見ることはできないかと言うとアンクルがオーナーになにやら話をしはじめた。ところどころでコーラという単語が聞こえたので、たぶんさっき買ってあげたコーラの話が出てるっぽい。

オーナーはすこし機嫌悪そうに「ガソリン代を払うなら車を出してやる」と言った。オーナーにお礼を言って、町に出る準備をいそいでした。車には何故かアンクル含め5人も乗り込んだ。みんなかなりテンションが高く不安になったが、宿を出るといろいろと町の説明してくれた。ポートモレスビーもかなり広範囲な町で港がある中心部までは30分くらいかかった。港は立派で、すぐ後ろの丘の斜面には外国人が暮らす高級住宅が密集していた。高台にはホテルが建ち並び、そこからの景色はなかなかのものだった。港とは逆側には長いビーチがあり、エラビーチだとアンクルが教えてくれた。ビーチの前の道には高そうなホテルがあり、斜面にはたくさんのコンドミニアムが建ち並んでいた。エラビーチは歩くと残念なことにごみでいっぱいだった。パプア人はゴミ箱の観念はないので人が集まる場所にはごみの山ができる。今までの町も道にはゴミが溢れていた。

そこからすこし行くと銀行やアメリカ大使館がある中心街的な通りがあった。基本的にエラビーチ以外は外を歩いてる人はいない。中心なのにどこも閑散とした雰囲気だ。どちらかとういとここに来る前に通ったWaiganiのほうが市民のなかでは中心のようだった。

そこから国会議事堂を見に行き、途中大きなランダーバードに建つ建物を日本大使館だと教えてくれた。それはそう言われればそうかもという程度に日本っぽい建物だったが、他の国にある日本大使館に比べるとかなり貧相に見えた。

最後に連れて行ってもらった新しいスーパーはクアラルンプールにある大きなショッピングモールと比べても遜色ない立派なものだった。ガラスを多用した外部やLEDを使った看板など今までに見ることのなかったヴォキャブラリーだ。彼らはショッピングモールというものを知らないのでデラックスなスーパーと考えているようだった。たぶんこれはこの国で一番デラックスなスーパーだろう。





2015/JUL/4 「ゴロカの市場」

朝起きて、ベーカリーでパンを買って、コーヒーをいれてダイニングで朝食を食べた。ここにはパプア人家族3人とリサーチに来ているアメリカ人の女の子しか泊ってないようだった。

食べ終わると町を歩きに出た。RuanRuan劇場という有名な建物があり、それを見た後市場へ向かった。市場はマウントハーケンやレイに向かうバス乗り場の前ということもあり、すごいたくさんの人が集まっていた。ゆで卵を買って食べていると近くの男が「エスコートしようか?」言ってきた。他の国でこう言われればかなり怪しいがこの国ではかなり頻繁に言われるのでもう慣れてきた。市場とダウンタウンを見たいと言うと、ついてこいと言い市場の人ごみへ先導してくれた。


ゴロカの市場は今までのPNGのどの町の市場よりも活気があり、人も多かった。何よりも沿岸部では作れない色とりどりの野菜やフルーツがここでは豊富で、安かった。ラム肉を3cm角くらいに切ったものが鉄板で焼かれていてひとつ70トヤで食べれた。他の町では産業がまったく想像できなかったがここでははっきりとそれが認識でき、働いている人の割合も多そうでうれしくなった。歩いていると周りの人が興味しんしんに見てきて、「ホワイトマン!ホワイトマン!」という声が聞こえてきた。これまでの旅で十二分に焼けた肌はここではまだ白すぎるようだ。市場のあとにダウンタウンを見て周り、ビルンというPNGの人が常に肩からかけているバックをストリートマーケットで買った。ビルンはその地域により作りが違うのでゴロカ地方の網のように編んであるビルンを2つ買った。ブッシュロープと呼ばれる木から作る紐でできたビルンは中に大量の芋を入れて運んだりできるほど丈夫だった。大きなものは赤ん坊を入れて木から吊るしているのをカルカル島で見た。


そろそろ宿に戻ると言うとエスコートしてくれた男は「宿からバス停までバックパックを運ぶのを手伝おう」と言い出したので、「さすがにそこまではいいよ」とお礼を言って別れた。ゴロカは歩いていても危険を感じるような場所はなさそうだった。

宿に戻るとパプア人家族が昼ごはんを作っていた。チェックアウトしてバス乗り場へ行くと言うと車で乗せていってくれるとといい、荷物を車に積んでくれた。その男はマウント・ハーゲンのコーヒー農園で働いていると言い、ハイランドのコーヒーは有名だと誇らしげだった。男はハイランドではJAICAの活動が盛んで、日本人の印象はとてもよいと教えてくれた。

バス乗り場に着くと、レイ行きのバスはなかなか見つからなかったがバスが通るたびに男は車から降りて聞きに行ってくれた。実にきめ細やかなサービスだ。30分くらいでようやく1人分の空きのあるバスが見つかった。男は「レイまでは30キナだぞ」と念をおしてから帰っていった。バスは峠道をガンガン飛ばして下っていき、来たときよりもかなり早くマダンとの分岐につき、またすごいスピードでレイへの道路を走った。レイには暗くなる前に着いたが、レイはかなり広範囲な町のようで中心部までは1時間くらいかかった。パプア人たちはみんなポートモレスビーとレイは都市だと言っていたがレイは都市というよりは地方の町といった雰囲気だった。高い建物があるわけでもなく、大きな建物は他の町同様スーパーくらいだ。他の町よりスーパーが多く、密集してるのと今まで見かけなかった歩道橋が町の中心部にひとつだけあった。

ドライバーに安い宿に連れて行ってくれと頼んで3件ほどまわったが最安値は120キナだった。ドライバーはレイは都市だから宿も高いんだと言うがまったく納得できなかった。最後にルートランゲストハウスに行ってもらった。値段は130キナと言われて120の宿へ戻ろうとおもったが、同じ敷地内にミッショナリー用の宿泊施設があって、そこは50キナだという。助かったと思い、そこに泊めてもらうように頼んだ。ここのルートランゲストはPNGのルートラン教会の拠点にあるようで、広大な敷地の中にゲストハウス以外にもいろいろな施設が建てられていた。

宿の中の宿泊客のおじさんに「水がもうないから欲しいんだけど」と聞くと冷蔵庫の中から水の入った容器を出して「これは宿泊客用だから飲んでもいいよ」と教えてくれた。ただで冷えた水が手に入るのは助かると思いコップで2杯飲んで、さらにペットボトルに補充した。施設の周りには何もないので夕食はインドネシアで買った最後のカップ麺を食べてすませた。







2015/JUL/3 「短気なハイランダー」

7時半に島に着いたときのビーチへ歩いていくと、ボートが2台と数人の人が待っていた。運ちゃんはすぐに荷物をボートに運んでくれた。マダンへのボートはやはり水を何度もかぶった。途中飛魚がボートの中に飛んできて乗客の女の子は喜んで拾い上げた。市場なら3キナくらいはする大きさだ。

Kubuganからまたバスでマダンに戻り、そのままゴロカ行きのバスに乗った。バスはすでに乗客がたくさん乗っていて、そこまで待たずにマダンを出発できた。以前ここでバスの乗客が集まるのを5時間待ったツーリストの話を聞いていたので安心した。バスに乗っていたほとんどの乗客はどうやらマダンの専門学校の生徒のようで休みにゴロカへ帰る生徒たちだった。パプア人は年齢が見分けずらく、言われなければ学生には到底見えなかった。

マダンからゴロカへの道路はそれまでの道とは比べ物にならないくらい整備されていて、しばらくすると見渡す限りのサトウキビ畑が見え、内陸側には山が見えてきた。マダンからレイに行く道の分岐がありバスはゴロカ方面へ曲がった。そこからは登り道だった。運ちゃんの横に座っていた若い二人はどうやらお酒を持ち込んでコーラに混ぜて飲んでいたようで、かなり騒ぎ始めた。二人は良くわからないスピーチをはじめ窓を開けて、周りの人にも大声で話しかけ始めた。だいぶ標高が上がり、気温が下がってきた。隣の女の子があと1時間くらいでゴロカだと教えてくれた。

酔ったうちの一人が窓から乗り出して叫んでいたが、しばらくすると運転手は商店が集まったところで車を止めた。すると何人かの男が寄ってきて助手席の窓越しに酔った男に話しかけた。男はなにやら答えていたが次の瞬間、外に集まった男は酔った助手席の男に殴りかかっていた。何人かが男の顔にパンチを食らわせて、あわてて他の乗客は窓を閉めて、運転手に早く出せと怒鳴った。車は何とかそこを出たが今度は殴られた男が怒って車を止めろと言って、バスを降りて走ってさっきの場所へ向かっていった。男は殴った連中のほうへ罵声を投げていたが、すぐに30人くらいに囲まれて見えなくなった。乗客は運転手に連れ帰るように言い。運転手がバスから歩いて群衆の中に入っていった。人の輪の中でぼこぼこにされた酔った男は運転手の連れられて帰ってくるとTシャツが引き千切られて口からも血を流し無残な姿だった。とりあえずバスの中に入れて窓を閉めたが、周りの群集は興奮していて車体や窓を殴り始めた。運転手は席に戻るとすぐに車を出してそこを抜け出した。酔った男は怒ったまままた戻ると言って興奮していたが、誰も話を聞かなかった。


すでに日は沈んであたりは暗くなっていた。建物の数が徐々に増えてきて空港の滑走路らしきものが見えてきた。その奥が町の中心部らしい。乗客は降りたいところで徐々にバスを降りていった。運転手は「何処に行くんだ?」と聞いてきて、「とりあえずルートランゲストハウスへ行ってくれ」と頼んだ。ルートランゲストハウスはかなり中心部だったが値段が130キナで高かった。マダンのときのようにミッショナリー用の値段で泊めてくれと頼んだが断られた。そこのスタッフに安いゲストハウスを聞くとすこし上がったところに1件あるという。ゴロカは高原の小さな町という感じで夜は暗かった。運転手は道に詳しくないようでそこからは乗客の一人が運転を代わった。彼はその場所を知ってるようで建物の前に着くと降りてスタッフに値段を聞いてきてくれた。「180キナだ。それでも高いならうちに泊るか、運転手の家に泊れ」という。一瞬考えたが、カルカル島で宿代は浮いていたので80キナでもいいかと「ここで問題ない」と伝えてバスを降りた。みんな良かったーという笑みを浮かべていた。

宿はResearch & Conservation Instituteという団体の職員用宿舎だった。4人部屋だが、宿泊者がほとんどいないので1部屋を使わせてくれた。この団体はEUの支援でできているようで建物も北欧のユースホステル並みにきれいでホットシャワーも使えた。ただし管理人が電気料金を払ってないので電気が止められていた。

無性にビールが飲みたくなり、宿のセキュリティー同行で近くの酒屋でPNGのビールを買ってきた。5キナもする斬新すぎるデザインのビールはどこの国のビールより不味かった。本当におかしな国だ。




2015/JUL/2 「カルカル島の病院」

6時くらいに教会から歌い声が聞こえて目が覚めた。電気事情もありパプアの人は早起きだ。6時に起きて10時には寝るという暮らしだ。この国の日本との時差はパプアが1時間早い。これまでの国はすべて日本より遅かったが、この国は日本より早く朝を迎える数少ない国だ。実は今まで腕時計の時刻は日本の時間のままでその国との時差を差し引いて時刻を計算していた。日本は日付変更線からそう遠くないのでほとんどの国は日本の時刻に数時間を足すわけだが、ここでは1時間差し引く。なにか新鮮だ。

まだ電気が使えないので近くの市場へ行ってみた。持っている食料は丸いパン×1、魚の缶詰(小)×1、クッキー×1パック、ゆで卵×3、カップ麺×1とコーヒー、紅茶で、できればもう少し足したかった。市場は小さく20人程度売り手がいる程度で、売ってるものは洗剤、ビートルナッツ、芋、塩、砂糖、古着、魚燻製、揚げパン程度だった。魚はすごく古そうで値段も12キナと馬鹿げていたので揚げパンを2つ買って帰った。電気が使えるようになってから電気ポットでお湯を沸かし、コーヒーをいれてパンとゆで卵を2つ食べた。

近くの村にでも歩いて行ってみるかと外に出るとちょうどパウロに会い、これから工事してるバスケットコートへ行くというので見に行くことにした。パウロは病院の施設の改善に取り組んでいて、その一環でバスケットコートを作っているそうだ。3人のパプア人が働いていたが、パウロ含め知識のある人間はいなさそうだった。アドバイスを頼まれて水勾配をつけること、コンクリート床に誘発目地を入れたほうがいいと伝えたがそれ以前に道具や資材に限界があり、それなりにしかできないだろうと思った。建築設計をしていたと聞くとパウロは自分の仕事を見せたいようで病院を案内するといって、病院の中を見せてくれた。彼の行っていることは基本的には修繕で掃除して塗装や壊れた棚を直したりと言った感じだだったが、手を入れてない箇所はあまりにひどく彼の仕事で大幅に改善されたことがよくわかった。どうやらパプア人はメンテナンスを一切しないようで病院にも掃除をするスタッフはいないし、清掃用具もなかった。コンスタンは病院に頼んだが相手にされなかったらしい。病院には医者、看護婦、洗濯スタッフしかいなく、スタッフ詰所は看護婦が掃除するが他の場所は患者家族がしない限り掃除されないそうだ。面白いことに患者は入院すると必ず家族や親戚の一人が一緒にきて身の回りの世話をする。その親族はベッドの下の床で寝泊りし、病院にある共用のキッチンで入院中の食事も作るという。ある親族は病院に小さな子供も連れてきて子供の面倒も見たりと、病院には入院患者以上に親族がたくさんいた。

一通り見終わると、パウロは「今日はドイツのルートラン教会がパプアに来て125年で村でセレモニーをしていて、ドイツの教会から顔を出すように言われているから後で行くけど一緒に来るか?」というので見てみたいと返事をしていったん家に戻った。腹がへっったので朝買った揚げパンと魚の缶詰、ゆで卵で昼食にした。


セレモニーは車で30分ほどいった丘の上の125年前にやってきたドイツルートラン教会のミッショナリーのお墓のある場所で行われていた。着くとパプア人のパスター*が丁寧に案内してくれた。すごくたくさんの人が集まり、想像以上にちゃんと準備されていて驚いた。コンスタンは「彼らは自分たちがやりたいと思うことだけは努力するんだよ。」と皮肉を言った。確かに病院運営と比べるとすごい組織力だ。

その日もパウロたちは夕食に招待してくれて、野菜やチーズ、ツナを入れたベトナム生春巻きを手巻き寿司のように自分たちで巻いて食べた。PNGにきてこんなものをこんな食べ方で食べるとは思わなかった。次の日にマダンに帰るのでその夜は発電機が止まった後も2人と遅くまで話をした。








2015/JUL/1 「大きな決断」

昨日は暴動でほとんど宿から出れなかったので、今日は朝から町にでていろいろ調べなければならない。カルカル島への船、マダンからの航空券の値段、あとはインターネットができるところがあるか。PNGに入ってから今まで一度もネット環境はなかった。とりあえず宿を出て、ダウンタウンへ歩いていく途中にカルカル島行き船乗り場の場所を聞く。すると近くのおじさんが「俺のランクルで乗せていくよ」と寄ってきた。PNGでは頼んでないのに外出のほとんどは誰かが車で連れて行ってくれるか、エスコートしてくれる。たぶんこんなに世話焼きな国民はないだろう。治安が良くないのもあり外国人を見るとみんないろいろと心配してくれる。

車で船乗り場へ乗り付けて、船があるか聞くと今日はなく、明日の11時くらい発とのこと。島に行くボートがマダンからすこし行ったKubuganというところからも出ているという。そっちは小さなボートで人が集まり次第出発するらしい。お礼を言って次はエアニューギニのオフィスへ行ってもらった。ちょっと時間がかかりそうなのでランクルのおじさんに「ここまでで大丈夫だ」と伝えて帰ってもらった。

エアニューギニのオフィスは相変わらず空調が効いてて快適だ。国内線と国際線のカウンターが分かれていて、国際線のカウンターはさらにExsective/Foreign guestとその他に分かれていたが、これはまったく機能してなさそうだった。かなり待たされたあとにExsectiveのほうが空いたので航空券の値段を調べてもらった。マダンからヴァニモは530キナと高い。PNGに入りここまで6泊して国境からマダンまできたが、島に行った後また同じ国境へ戻るのはあまりにばかげているように感じた。しかしインドネシアパプアのジャヤプラからスリランカまでのフェリーチケットと3枚の航空券はすでに買ってしまっていた。しかもヴァニモで120キナも払いインドネシア再入国のためのVISAを取得済みだ。これらすべてを捨てれば同じ道を戻らずにオーストラリアへ抜ける道が開ける。


とりあえず、レイからポートモレスビーの航空券とポートモレスビーからブリスベンまでの航空券の値段を聞いた。ポートモレスビーまでは安いときで360キナでブリスベンまでは安くても550キナだった。ただし安い航空券は日にちが合わず、ブリスベン行き最安値航空券に日付を合わせるとモレスビー行きは420キナになった。ヴァニモまでの530キナを考えると安いように感じた。そしてオーストラリアへ抜ける決断をした。5万円くらいをドブに捨てる大きな決断だったが、なぜか晴れ晴れとした気分になった。

スタッフに「ブリスベンからスリランカへのLCC航空券を押さえる必要があるんだけど、どこかこの町でインターネットが使えるところがあるか教えて欲しい」と言うと他のスタッフに聞いて、町で一番のホテルに電話してくれた。だがそこはネットはないと言われた。次に街中のネットカフェの場所を教えてくれたが、そこも行ってみるとネットは無かった。さらにそこのスタッフが教えてくれた場所に行くとようやくネットカフェっぽい内装の店にたどり着いた。PNGではじめてのネット環境だ。驚いたことに白人がカウンターに座っていた。英語で話しかけるとむこうも驚いた感じで、「何処から来たんだ?」と聞いてきた。「日本人でPNGを旅してる」というと「一人でか?」とだいぶおどろいた様子だった。彼はニックというオーストラリア人でマダンに12年住んでるという。昨日の暴動の話になり、アジア人は中国人に間違われて襲われるかもしれないから気をつけろと忠告してくれた。ネットの値段は3010キナと世界一高かったが、はじめの10キナを払うとニックは後はお金を取らず使わせてくれた。ニックは「お金に困ってるならうちに泊っていいよ」と申し出てくれたが「とりあえず用事は済んだから今日カルカル島へ行くよ。ここに戻ってきたら泊めてくれ」とお礼を言って別れた。

宿に戻り、おばさんにカルカル島へ行くと伝えた。そこに泊っていたミッショナリーのアメリカ人老夫婦とすこし話をしてから出る準備をした。その老夫婦は以前マダンのATMでお金をおろした後を襲われて、ブッシュナイフで切りつけられた話をしてくれた。旦那のほうは手首から先を切り落とされたらしい。手は縫いつけてくっついたが、指はすこししか動かせないという。「くれぐれも気をつけて」と心配してくれた。お礼を言ってからバックパックを背負うと宿にいたスタッフ、宿泊客は何年かに一度の珍しい客を見送るようにみんあ笑顔で見送ってくれた。

Kubuganへはバスで1時間以上かかったが、ボートはまだありそうだった。バスの運ちゃんがボートの運ちゃんと話をして荷物を運んでくれた。30分ほどして人が集まりボートに乗ったがすでに4時をまわっていて、波が気になった。案の定、波は高く45分くらいの航海だったが全身ずぶ濡れになった。だがそれよりも沈まなかったことへの安堵のほうがおおきく、濡れたのは気にはならなかった。

船は島の南東のTakiaという場所に着いた、そこには病院があり、その病院の隣にゲストハウスがあるはずだった。病院の敷地へ入り、まわりの人にゲストハウスの場所を聞くと連れて行ってくれたが管理人が不在でチェックインできない。するとそこの向かいの家から出てきた白人の男が驚いたようにこっちを見て、挨拶してきた。彼はこの病院で働いていると言う。ミッショナリーかと聞くと「そのようなものだよ」と笑って答えた。彼はここへは何しに来たか?ひとりか?といろいろ聞いてきたが、PNGを旅してるというと「この2年ではじめてのバックパッカーの訪問だ」と驚いていた。管理人が帰ってこないと入れないのでとりあえず病院のゲートで待つことにした。いつの間にかまわりから集まってきた人に周りを囲んだが誰も管理人の居場所を知らなかった。


夕日が沈み始めたころさっきの白人スタッフが車で通りかかり話しかけてきた。彼は「日が沈むとみんな家に帰ってしまうし、外にいるのは危ない。あのゲストハウスの管理者は病院の院長で彼は今6ヶ月のホリデーでいないし、あのゲストハウスには院長の親戚が住んでるから実はゲストハウスとしては機能してない。」と教えてくれた。そして「この病院に以前働いていたドクターの家が空いてるからそこに今夜は泊ったらどうだ?」と提案してくれた。そうさせて欲しいと伝えると彼は助手席のドアを開けてくれ、その空き家まで連れて行ってくれた。簡単に電気や、鍵などの説明してくれ、「食べ物は持ってきたか?」と聞き、「あまりない」と答えるとこの辺で食料は今からだと手に入らないからと夕食に招待してくれた。


とりあえず荷物を解き、シャワーを浴びると驚いたことにホットシャワーだった。ドクターの家だけあって、ベッドルームは4つもあり、キッチンもしっかりしてした。ただし村に電気は来てないので夜7時から10時と朝7時から12時まで病院の発電機がまわっている時だけ電気が利用できるが、あとの時間はソーラーパネルで貯めた電力で各部屋に1灯ずつあるLED照明のみが使えた。ひとりで4LDKは手に余る広さだった。

約束した7時半に彼の家に行くと彼と奥さんが迎え入れてくれた。彼はパウロといい奥さんのコンスタンとともにドイツのルートラン教会からカルカル島の病院にボランティアにいていると言う。コンスタンはドクターでパウロはロジスティックだが、ここでは基本的に何でも屋のような仕事だそうだ。病院には以前コンスタン含め3人のドクターがいたが一人は急に故郷マダガスカルに帰ってしまい2人になってしまったそうだ。まーそのおかげで今夜の宿があるわけだ。もう一人のドクターはパプア人で話しにならないらしい。二人ともPNGの話になると日ごろの不満をぶちまけるように話をした。

今までのところ会う人会う人親切にしてくれたが、働くとなるとまったく違うようだ。この国には医者は300人でそのうちしっかりした医者となると80人程度だという。みんな地方の病院には行きたくないので人口の8割が地方に暮らすPNGで病院の8割は都市にあるという。そして医者も警官もまったく信用できないと言う。コンスタンは「あるときレイプされた女性が警察に行き、警察で警官にさらにレイプされた」と話した。また先日病院で入院してた妊婦がコンスタンが休暇中に出産したが、その女性は夜中、産気づいたが医者も看護婦もだれも見つけられず自力で出産したと言う。コンスタンが看護婦にもう一人のドクターはどうしてた?と聞くと寝ていたという。この国は近代文明に触れてからまだ70年程度しかたってないのに、みんな車やケイタイを持っている。彼らは文明社会での生活の仕方を学ぶ前に物だけ手に入れてしまったとパウロは言った。看護婦やスタッフは理由なく休み、それを理由に解雇するとその看護婦の出身の村から40人くらい男がブッシュナイフを持ってやってくるので病院は誰も首にはしないらしい。最後にコンスタンは「でも、急に患者の体調が悪化したとき、医者がだるいからその日は働きたくないと言っても患者の家族は怒らない。みんなそれで納得するんだ」と言った。「ここはそれが病院でそれ以上のサービスは病院スタッフも仕事が増えて嫌な顔をする。なにかを成し遂げようと大志を抱いて来るとすぐに砕けてしまう」とすこし冷ややかに話した。

夕食はコンスタンがココナッツミルクのカレーを作ってくれ、実に久しぶりのビールもいただいた。久しぶりにちゃんとした料理を食べた気がした。10時に発電機が止まる前に家に戻ることにして、お礼を言って家に戻った。もどってすぐに電気は消えてしまったが、LEDの明かりを頼りに食料を天井のファンから吊るした。ここで数少ない食料をネズミにやるわけにはいかない。それから一番大きなベッドルームのベッドにシーツを敷いて横になった。






2015/JUN/30 「Riot」

深夜ジャングルの中を走り続けたトラックは明るくなってもまだ走り続けていた。9時くらいに道が良くなったと気がつくと、乗客がもうすぐマダンだと教えてくれた。

それから30分くらい走り町の中心らしきところでトラックは止まった。そこでみんな降りて荷物を降ろし、トラックは去っていった。大半の乗客はそこからレイ行きのバスに乗ると言った。すごいバイタリティーだ。一緒に乗ってきた乗客の一人が「どうするんだ?」と聞いてきたので「マダンで宿を探す」と答えると「おれはレイに行くけど兄弟がここに住んでるから、宿まで連れて行ってくれるよう頼んでやるから待て」と言って電話をはじめた。しばらくするとランクルが来て、その中から若い男とおじさんが出てきた。どうやらそのおじさんが兄弟らしく握手をして笑いながら話を始めた。そしてそのおじさんを紹介してくれ「後は大丈夫だ」と言うと、レイ行きのバスへ去っていった。


とりあえず初対面のおじさんと若い男とランクルに乗りこみ走り始めた。若い男はそのおじさんの息子で、英語がうまく走りながら町の案内をしてくれた。マダンもそう大きな町ではないが、ヴァニモやウィウェックに比べればまだ町っぽいように見えた。いくつか立派なホテルもあり、観光客用のお土産屋があるエリアもあった。


おじさんに「安いゲストハウスに行きたい」と言うと、息子がルートラン・ゲストハウスが近いといい、そこに向かった。ルートラン・ゲストハウスは今まで泊った2つのゲストハウスとは比べ物にならないくらい清潔でスタッフが床を掃除してる姿を見て感動した。だが値段を聞くと1130キナだった。ミッショナリーのゲストハウスは安いと聞いていたがそうでもないようだ。おじさんに「ここは高いから無理だ」と言い、立ち去ろうとするとゲストハウスのマネージャーのようなおばさんが「80キナでいいよ。それはミッショナリー用の値段だからそれよりは安くできないよ」と言った。それでも今までで一番高いなーと立ち去ろうとしたが、これまでの疲労とここの清潔さを考えてここに泊ることにした。おじさんにお礼を告げると、電話番号を書いた紙をくれ「何かあれば連絡くれ」と言って去っていった。

荷物を置いて、テーブルの椅子に座るとようやく休めるなーと力が抜けた。とりあえずバックからティーパックを出してお湯をもらいお茶を入れた。するとさっきのオバさんがスタッフに朝食を出してあげなさいと言ってくれてスタッフがパンとジャム、コーヒーを運んできてくれた。パンにこれでもかとジャムをぬり、コーヒーに砂糖をたっぷり入れて飲んだ。パンを6枚食べてようやく空腹が納まったので部屋に行き、荷物をほどいた。シャワーを浴びて、洗濯物を洗おうとスタッフにタライを借りに行くとスタッフが洗ってくれたのですこし横になった。

昼過ぎに起きて、リビングでスタッフと話をしていると外が急にさわがしくなり、外にいた人がダウンタウンで暴動だと教えてくれた。外から戻ってきた男が中華系のスーパーでパプア人が中国人スタッフを襲い、暴動になったという。そしてパプア人が一人撃たれて死んだらしい。警察は混乱を避けるため外出してる人を全員家に帰るように指示して回ってると言う。買い物に行こうと思ったのにまいったなーと思い、その男に食料を買いに行きたいと言うと、付いてきてくれるというので町にでた。通りは殺伐とした空気が流れていて、商店はどれも閉まっていた。警察の指示で村へ帰るパプア人を満載したトラックが走っていく。しばらく歩くと小さなお店が1件だけ開いていたのでそこでパンとツナ缶、クッキーを買って宿に帰った。

宿は暴動の話で持ちきりでこの手の暴動は中国人、フィリピン人がスーパーを経営して儲けていることの妬みからパプア人が中華系、フィリピン系の商店を襲う事件が定期的に起きると話していた。「今回はパプア人が殺されたから中国人をいきなり襲う輩も出るかもしれないのでお前も気をつけたほうがいい。中国人だと思われるかもしれない」と言われた。マダンは到着早々、超危険地帯になってしまった。







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