2015/OCT/21 「コトルのムール貝」

全く見所のないポドゴリツァを出て、コトルに行くことにした。モンテネグロで一番有名な観光地で誰に聞いてもコトルはお勧めと言う。

バスターミナルへ行き10:00発のバスに乗った。途中の景色は良く、モンテネグロが山が多いのが良くわかった。だかそんなに高い山はなくどらも頂上まで緑に覆われていた。

一時間もするとアドリア海が見えてきた。眼下にはオレンジの屋根が広がり、海に突き出た旧市街が見えた。。ブドヴァだ。バスはここで一度止まって半分くらいの人を下ろした。そこからは海岸線を走りさらに一時間でコトルに着いた。

久しぶりに天気も良く、青空の下のコトルの旧市街は本当に素晴らしかった。城壁に囲まれた石積の建物達の間を細い石畳の通路が迷路のように入り組んでいる。裏の岩山の砦跡に登ると山に囲まれたアドリア海の入江の淵に広がる町全体が眺められた。

ベオグラードで会った日本人の男の子からこの海辺でムール貝が取れると聞いていたので、探しに行く。彼はここで毎日ムール貝料理を自炊してたらしい。

海のなかを眺めながら、ずっと歩いて北上したが、それらしきものは見つからない。釣りしてるおじさんたちに聞くと水深2~3mくらいだよと言われる。潜るのはなーとまた歩いて探す。
結局暗くなり始めて切り上げた。今日は無念の収穫ゼロだ。

その日は自炊だったが、ムール貝が取れなかったので野菜だけになってしまった。漁が上手くいかなければ、肉は無しという漁師と同じ心構えだ。

明日はもっと奥まで探してみよう。










2015/OCT/20 「ホグロフス?」

ボドゴリツァは特に見所もないのでトレッキングパンツの修復を試みることにした。まず、市場へいき、2階の服飾類の店の端にある洋服の修繕屋に行った。2軒あったが、両方ともやっても無駄と断られた。物価は安いのでショボい服屋を安いズボンがないか見てわった。最安はジャージの下で6ユーロくらいからあるが、それでは体育の先生になってしまうので辞めた。現地人はやたらとジャージの下をはいてる人を見掛けたが、ここではあれが一番安いからだと理解した。

一度、ホステルに戻って、生地屋の場所を聞いて見に行ってみた。太ったおばさんにトレッキングパンツを見せると「これで塞ぎなさい」と太いリボン見せてきた。やってみるかとリボン40cmとホックを買った。ホックはポケットのマジックテープが弱くて止まらないので代わりに着けようと考えた。

夕飯を食べてから作業に入り、3時間くらいしてようやく穴は塞がった。我ながらなかなかの出来だ。長期の旅人は裁縫道具を持っていくことをお勧めする。

縫い目はちょうどアルファベットのHの形になり、スウェーデンの高級アウトドアブランドのホグロフスのようだ。コロンビアの安物が急に高級感に溢れて見えた。






2015/OCT/19 「セルビアの列車」

今日はモンテネグロのポドゴリツァに移動なので、朝7時半に起きて、朝食をとり、電車の中で食べる用にサンドイッチを作った。10時間と聞いていたので、リンゴや菓子パンと白ワインも一本買っておいた。荷物を纏めていると、日本人達も起きて来て、別れを惜しんだ。宿を出て歩いて駅に向かうときに二人は窓から手を振って見送ってくれた。

途中、駅のすぐ脇のバスターミナルで大勢の人がバスに詰めかけているのが見えた。シリア難民だ。オーストリアの国境が通過人数制限をしているので、彼らはここからクロアチアを目指すのだろう。頑張ってくれ。

町ではシリア難民は見かけなかったが、泊まったホステルはすこし前シリア難民でいっぱいだったらしい。6人ドミに11人詰め込んで、しかも一人あたり通常の数倍の金額を取ったと宿主はウハウだ。セルビア人は容赦ない。

駅に着くと、電車は既にホームに留まっていたのですぐに乗り込んだ。セルビアの電車は一面にスプレーの落書きがされていて、どの車輌もヒップホップだ。

9:10
に電車はベオグラードを出発した。景色が有名な列車らしいがあいにくの雨で、何処がいいのか分からないので、ワインを飲み始めた。コップを出すのが面倒でラッパ飲みで飲んだが、他の乗客の視線がすこし痛かった。

昼過ぎに電車は駅でもないのに止まってしまった。みんな空気を吸いに外に出た。他の乗客がエンジンが壊れたのだと教えてくれた。ポドゴリツァから新しいエンジン車輌が向かってるらしい。

30
分くらいして、新しいエンジン車輌が来たようで出発した。だがスピードは全く上がらず、道を走るトラックにバンバン抜かされていく。景色を見る限り30kmも出てなさそうだ。
そのまま走り続けたが、夕方に小さな駅で停車して動かなくなった。さっきの乗客が新しいエンジンも壊れたと教えてくれた。本来ならあと一時間で着くはずだが、まだセルビア国境にさえ至ってない。セルビアの鉄道は脆弱だ。

どうすることも出来ないので、新しいエンジンが来るのを待つ。セルビアの列車は整備が本当に悪い。車輌のトイレは酷く、どのトイレも詰まっていた。トイレから戻った外国人達からは決まって「ディスカスティング!」という声が聞こえた。

一時間以上も待ったが、結局このまま国境を越えて、モンテネグロ側でエンジン車輌を変えることになった。夜の8時半に入出国検査があり、9時にモンテネグロの最初の町に着いた。そこで待機していたエンジン車輌を繋げて、再出発した。列車は嘘のようにスピードをあげ、道行く乗用車をバンバン抜かした。ガタンガタンという線路の音も聞き覚えのあるリズムに戻った。安心感のあるいい音だ。

11
時をすこし回ったくらいに沿ドニエステル共和国に匹敵するくらいショボい駅に着いた。モンテネグロ首都のポドゴリツァだ。白ワインはまだあと2センチくらい残っていた。








2015/OCT/18 「NATO空爆の痕」

ベオグラードは朝霧に包まれていた。駅は一国の首都の駅にしては、線路が草ボウボウで驚いた。ベオグラードにも10年以上前に来たことがあったが、町の記憶はあまりなかった。このまま、モンテネグロ行きの列車に乗る予定だったが、ベオグラードを思い出すために1泊することにした。

駅から真っ直ぐ伸びる道をすこし進むと、NATOに空爆されて崩壊したビルが見えてきた。それは十数年前も全く同じ姿だったのを思い出した。セルビア国防省ビルだ。
このまま広島の原爆ドームのように保存されるのだろうか?

確かにベオグラードの観光名所と言えば、NATOに空爆された建物たちだ。中でも誤爆?された中国大使館は有名で、誤爆は意図的に行われたと議論を生んだが指揮官が謝罪し、古い地図を使っていたと釈明したらしい。そんな話で納得する人がいたのだろう。

Wifi
のあるカフェで急遽探したCapital Hostelは快適で、日本人が二人もいた。一人は日本を出て4年経つという女の子で、もう一人はベオグラードで彼女が出来たので、もう1ヶ月もベオグラードにいるという男の子だった。男の子はやることも無いので、5回も宿を替えて気分転換を図っていると言い、ここが一番いい宿だと教えてくれた。1泊5ユーロはウクライナを除けば東ヨーロッパでは最安値だ。

宿ですこし休んでから、町を歩きに出た。10数年前に来たときはあまり雰囲気が良くなかったが、今は街並みは綺麗になり、通りは人で溢れていて西側の国のような雰囲気だった。ほんの20年前まで内紛をしていたとは思えないくらい人々からは笑顔が見える。まるでようやく訪れた平和を満喫しているかのように。










2015/OCT/17 「シリア難民」

ポプラドの駅でポプラドコシツェ、コシツェブダペストのチケットを購入。コシツェブダペストのチケットは何故か片道27ユーロで往復だと20ユーロだった。よっぽどスロヴァキアに戻って来てほしいか計算が弱い人達のどちらかだ。

コシツェへの列車は13分遅れてポプラドにやって来た。コシツェでの乗り換えは16分しかなく焦ったが、日本のように遅れを挽回する努力はなく、13分遅れのままコシツェ着。3分で猛ダッシュでブダペスト行きに乗り込んだ。

列車はブダペストに21:30に到着した。今話題のシリア難民が駅に溢れているのかと思ったが、全く見当たらない。駅の周りも探したがそんな気配はない。シリア難民は駅から出してもらえないとか、警官隊と衝突してるとか散々ニュースで聞いていたが、駅はいたって平穏で電車待ちの乗客達が優雅にビールを飲んでいる。みんなもうミュンヘンへ発ったのだろうか。ハンガリーからオーストリアには抜けられなくなり、セルビアからクロアチア、スロヴェニアへ殺到してるとも聞いた。どちらにせよ東ヨーロッパは難民に厳しい姿勢を崩していない。

ブダペストは昔来たことがあるので、そのまま夜行に乗ってベオグラードへ行く。駅前はは10年前に比べて整備され、明るくなっていた。席が空いてるか心配だったが、チケットは難なく買えた。ポプラドでこのチケットも手配しようとしたときは41ユーロと言われたが、ここでは15ユーロだった。チケットは現地で買おう。

ブダペストまでの電車もそうだが、車輌クオリティはイマイチだった。デザインは古くないがメンテがされてなく、トイレは壊れていたり、照明が取れていたりした。座席もリクライニングゼロでキレイとは言えなかった。ロシアやウクライナは車輌は古いがメンテがよく、不自由は感じなかったが、これはその逆パターンだ。

 
夜中の1時半に国境で警察がパスポートチェックに回ってきた。通路を挟んだ隣の席のインド人っぽい二人組はパスポートは無いと言い、一枚のレターを取り出した。渡航目的と身元証明のようだった。警察はそれに目を通した後、何処から来たか尋ねると「イラン」と答えた。「父親がセルビアにいる」と説明するが警察はハイハイという感じで列車を降りるように指示した。二人は警察と一緒に暗闇の中へ降りていった。彼らが話題のシリア難民だったのだろうか。

彼らはアフガニスタンなどの難民とは違って、わりとキレイな格好をしていた。この辺りにはジプシーもいるし、いろいろな国の観光客がいるので、白人でなくても違和感はない。ホステルに泊まったり、電車のチケットを買うお金もあるので片間ってなければ、そんなに目立たない。難民=お金が無いというのではなく、単に住む場所が無いという印象だ。




2015/OCT/16 「ポーランド入国」

一昨日Tourist Informationは今日は少し天気が回復すると言っていたが、外は雨っぽい。
やめよーかなと考えたが、昨日わざわざ軽アイゼンまで買ってしまったので、起きて準備をする。軽アイゼンはかなり悩んだが、ヒアリングしたところ、上の方は雪があるからあったほうが良いと言われて買った。海外の登山はどれくらいの難易度か?コースがどれくらい整備されているか?など不明点が多くかなりびびっていた。450gくらい。今後使うことがないのにアフリカまで一緒に旅をすることになる。オーストラリアで買った蚊帳はまだ一度も使ってない。

ここタトラ山脈に来てから天気はさっぱりダメだ。ネットで調べたときはかなりの絶景で興奮したが、毎日雨でフォギーだからなにも見えない。2日前にトレッキングした時も、景色はゼロだった。

リシィ山はポーランドとスロヴァキアの国境を作っている山でポーランドでは2499mで最高峰だ。スロヴァキア側には2650mくらいまであるが、山頂まで登山道がある山ではリシィが最高峰だ。

Tatranska Lomnica6:20
発の山岳鉄道にのり、登り口があるPopradske Plesoで降りた。無人駅で降りた人は他にはいない。まわりには何もなくかなり淋しい感じだ。はたして今日リシィに登る人はいるのだろうか?不安になる。地図を見て、北へどんどん歩く。ここは舗装路で全く登山っぽくない。

40
分くらいで湖に着いた。脇にあるレストランでガーリックスープを頼んで、持ってきたパンとリンゴを食べて朝食にした。天気は一向によくならないが、とりあえず出ることにした。そこからは登山道で、霧で殆ど景色は分からなかったがどんどん進む。途中アイルランドの二人組に会い、少し話をした。多分お互いに余りに登山者がいなくて不安だったのだろう。

しばらく行くと、岩場っぽくなり鎖場があった。この辺がこのルートの核心部なのだろう。雨で岩がすべるので鎖を使うことにした。そこから30分で山小屋に着いた。

山小屋は日本のよりもキレイで暖炉もあり、生ビールやワインもあった。なにより山の上にしては安かった。ここに泊まるのも悪くないなと思ったが、山頂はここから45分で昼前にはここに戻って来れるので、泊まる必要は無さそうだった。

ここまでを見る限り、登山道は歩きやすく雪もなかった。このままではせっかく買ったアイゼンもただの重りになる。ここから雪が出てこないかなーと思ったが、山頂へは難なく着いてしまった。山頂という表記が無かったので一度登ってからポーランド側へ少し下って、ポーランド側から登ってきた登山者に会って、そこが山頂だったと気がついた。また山頂に戻り、ポーランド側からきた登山者と写真を撮り合う。ここから北側がポーランドで南側がスロヴァキアだ。しばらくすると途中で会ったアイルランド人たちも来た。

山頂は雨と強風でとても快適とは言いがたかった。ポーランド側からきた登山者達はスロヴァキア側に降りるらしい。なかなか面白い登山だ。

下山は一気に湖まで下り、そこで一休みした。ほんの少しの間、青空が見えた。山に囲まれた湖の脇にはスイスにありそうなホテルがあり、それらは水面に写りこんでとても良い景色を創った。天気が良ければここは素晴らしい場所なのだろう。










2015/OCT/12 「図々しい乗客」

リヴィウからの列車は国境の町ウジホロドに早朝に着いた。駅の目の前のバスターミナルでコシツェ行きのバスを聞くと20分後だという。値段は165フリヴニャだったが手持ちが微妙に足りないのでカードで払い、残った現金を近くのお店で使いきることに。赤ワイン、サラミ、チーズ、ロールケーキ、トマトジュースを買って、さらにバスターミナルの売店でサンドイッチとコーヒーを買って、ちょうど消化できた。これでも6ドル程度だ。ウクライナはやはり安い。

バスに乗り込むとほとんどの座席には荷物が置いてあった。空いてる席に座って出発を待っていると、そのままバスは発車した。待たないでいいのかなーと不思議がっていると、すぐ近くのバス停に止まり、そこでたくさんの乗客が乗り込んできて、荷物の置いてあった席に着いた。彼らはバスターミナルでチケットを買わず、車掌に直接お金を渡している。そのお金は車掌のポケットに行くようで、値段は当然バスターミナルで買うよりも安い。両者とも得をするシステムだ。出発したときに席が荷物で埋まっていたのは、彼らが途中乗車で席がなくなるのを心配して、バスターミナルであらかじめ自分の荷物を座席に置いて確保したためだ。なんて図々しい連中だ。

町を出てしばらくすると出入国検査があった。EUになるのでバスから降りて、しっかりした税関の検査を受けた。バスの乗客たちは大量のウォッカを持っていて、入国ゲートに近づくと騒がしくなり、どうやってみんなで手分けして持ち込むかという相談をはじめた。

バスは昼過ぎにコシツェに着いた。雨が降っていたが、全身ゴアなのでそのまま宿まであるいた。ゴア大活躍だ。

宿は悪くなかったが、13ユーロとウクライナの4倍以上の値段でがっかりした。コシツェの町はきれいな古い町並みだったが、ウクライナの町と比べるときれい過ぎて、特に興味はわかなかった。ウクライナの町は荒廃感が良かったなーと急いだことを少し後悔した。





2015/OCT/11 「ハリークリシュナ!」

リヴィウの町は他のウクライナの町よりもさらに哀愁漂う町だ。こういった崩壊感は旧ソ連の町に多く見られるが、リヴィウのように町が古い建物でいっぱいだとホントに百年くらい前なんじゃと錯覚するほどだ。鉄板を繋げて作ったようなトラムは日本なら博物館に飾られてるだろう。

リヴィウの町はかなり気に入ったので、少し長居をしようかとも思ったが、スロヴァキアのタトラ山脈で雪が降り始める前に登山をしたかったので早く進むことにした。

町を歩いていると妙な衣装で音楽を奏でながら踊っている集団を見かけた。よく聞くと「ハリークリシュナ、ハリークリシュナ」と謳っていた。これはヒンドゥーのクリシュナ信仰だ!と思って、昔リシュケシュで1週間ヨガを習ったときのことを思い出した。ヨガの前に必ず「ハリークリシュナ!」と復唱させられた。そのヨガのクラスは他にはイスラエル人しかおらず、彼らはユダヤ教なので神様はヤハウェのみでクリシュナは認められないので、先生が「ハリークリシュナ!」と言っても誰も復唱しなかった。結局、毎回先生と二人で「ハリークリシュナ!」と言い合った。まさかウクライナでハリークリシュナを聞くとは思いもしなった。ただし、音楽はわりとヨーロッパ的で踊ってるのもウクライナ人なのであまりインドっぽさは感じられない。

昨日、駅でリヴィウからスロヴァキアのコシツェまでの列車の値段を聞くと758フリヴニャと信じられない値段が返ってきた。しかもバスは無いという。

今朝、再度駅へ行き国境の町までの値段を聞くと116フリヴニャだった。位置的には中間だが、値段は七分の一だ。ここは刻んでいこうと決めた。駅から出ると外の温度計は4度だった。昼過ぎでこの気温はやばい。今日からはスノボの時にはいているメリノウールのスパッツにレインパンツ。上はベースレイヤー+化繊中厚長袖+ダウン+ゴアジャケットとほぼフル装備にした。マーケットではおばちゃん達が編んだ、ウールの靴下や腹巻があり買うか悩んだが、ニット帽だけの補強にとどめた。

夜行列車の時間までホテルのリビングでビールを飲んでいると、ホテルのスタッフはなにやら外を見てからこっちへ来て「雪だ!今年初だよ」と嬉しそうに言った。何故うれしいのまったく理解できないニュースだった。ここに来て完全に冬に追いつかれた。今夜は零時58分発の列車で移動だ。外はさぞかし寒いことだろう。






2015/OCT/9 「旅は若いうちに」

オデッサからリヴィウへの夜行列車のチケットは21:30発が売り切れで仕方なく16:30を買った。到着は朝4:30だ。

朝の3時半に車掌に足を叩かれて起きた。まだ一時間も前の筈だがと、外を見るが真っ暗でなにも見えない。戻ってきた車掌は「ここがリヴィウだ!急げ」と急かす。急いで荷物を詰めて、靴を履いて列車を降りた。

外はこの旅始まって以来の寒さで駅の掲示板には気温2度と表示されていた。外は真っ暗で寒すぎたし、駅が町のどこにあるかも分からなかったので、駅で明るくなるのを待つことにした。こんな時間なのに駅は人で溢れて、椅子取りゲーム状態だ。

7
時過ぎにようやく明るくなり、駅の近くのバスターミナルで市内までの行き方を聞くが、全く英語が通じない。周りの人に一人ずつ聞いてゆくと、一人の女の子が町の中心へ行くトラム乗り場へ連れていってくれた。

朝日を浴びるリヴィウの町はまるで映画のセットのようだった。中心部で降りて、予約した宿を探すが、ここでもホステルの看板はなく、ホステルの入り口があるコートヤードへのドアを開ける暗証番号が分からないのでホステルの扉までもたどり着けない。ウクライナの安宿はこんなのばっかだ。仕方ないので出てくる人を待って、扉が開いたときに中へ入った。

その日は疲れで午後まで寝てしまい、夕方にスーパーに買い出しにいって休んだ。最近は夜行明けはこんな感じが多い。疲れがなかなか抜けない。旅は若いうちにしたほうがいい。








2015/OCT/7  「オデッサ作戦」

もはやキシニョウの町でやることはなく、昨日は公園で筋トレに励んだ。

次はウクライナのリヴィウまで行こうと思ったが、バスは14時間もかかるというので、オデッサへ行き、そこから夜行列車でリヴィウへ行くことにした。オデッサまでは5時間でバスは頻発していた。また沿ドニエステル共和国を通ることになるのかと思ったら、折角なので沿ドニエステル共和国の首都ティラスポリを見てみたくなった。

ティラスポリまではバスで1時間半。また沿ドニエステル共和国の国境ゲートがあり、今度はその横のイミグレの建物へ行き、パスポートを見せて、名前やパスポート番号の書かれた紙を貰った。それを出国までもっていなくてはいけないようだ。自称独立国家なのに相変わらず面倒なやつらだ。案の定、モルドヴァ出国スタンプはもらえなかったが、入国スタンプもないので、これで辻褄が合うなと思った。ルーマニアへ抜けるか空路で出国ならどうなるのだろう?

ティラスポリは「ここが町のメインストリートですか?」と何度も聞かないとわからないくらいの町で、2時間で切り上げて、オデッサ行きのバスへ向かった。ティラスポリの見所を挙げるなら、ロシアでも見なくなったレーニン像とよくわからない戦車の置物だろうか。町の繁栄をみるかぎり、別に独立することもなかろうにと思えたが、彼らには彼らの主張があるのだろう。しかし、自国通貨を持っていたことには驚いた。その名も沿ドニエルテル・ルーブル。少しだけ両替したが、結局余ってしまったのでまたワインを買った。キシニョウでは見かけなかったワインなので沿ドニエステル共和国のワインかもしれない。楽しみだ。

オデッサには夕方に着いた。町はキエフ同様に古く崩壊感があり、良い感じだ。
宿に着いてから、すぐに外を歩きに出た。薄暗くなる空を見ながら港へ行き、そこからオペラハウスと一番栄えているデリパスカ通りを見て帰ってきた。この町はリゾート地だけあって、観光客用のレストランがおおく、中心部の通りはとてもキレイに整備されていた。物価も弱冠高めだ。

宿に帰ると部屋に日本人客がいた。話しかけると、長期旅行者だった。22年間のサラリーマン生活を辞めて、東南アジアに1ヶ月旅行に行ったら、それが半年になり、その後日本から再出発して陸路と船でアフリカを目指すことになったという突発的な旅だ。バックパックが妙に新しいのが始めての旅を物語っていた。
久しぶりに日本人の旅人に会ったので、沿ドニエステル共和国で買ったワインを空けた。どうやら貴腐ワインだったようで甘かったが、そこそこいけた。

先にビールを空けていたので、だいぶ酔いがまわってきた。ノートパソコンを持ってラウンジへ行き、機動戦士ガンダムの「オデッサ作戦」をネットで探して観始めた。オデッサと言えば多分これだろうという満足感がこみ上げてきた。













2015/OCT/5 「シリアの味」

宿に着くと移動の疲れのため、とりあえずベッドで休むことにした。サンライズホステルのドミトリーは20畳はありそうだったが、ベッドは6個しかなく、今までにない密度の低さだった。ベッドは全て平置きでしっかりしたマットレスが使われていて、明るくどこか病院のようだった。
部屋にはノルウェー人がひとりいるだけで、彼が着いたときはこのホステルに彼ひとりしか客が居なかったと教えてくれた。

昼過ぎに町を歩きに出たが、本当に何もないところだった。町の作りはソ連の地方都市という感じで、歩道や地下道はウクライナよりもさらに荒廃していて、アルメニアを思い出した。

こんなモルドヴァでもワインがとても有名で安いものなら1本1.2ドルくらいで買える。酒屋に行き、店員イチオシのPURCARIの赤を買って帰った。モンドヴァで一番有名なブランドらしい。

帰りに宿の近くのケバブ屋でチキンケバブを頼むと、店のオヤジは英語で「どこからきた?」と聞いてきた。日本人だと答えると「ここで何をしてる?」と言うので、「観光だよ」と言うと「へー」と言って不思議そうな顔をした。
「モルドヴァ人ですか?」と聞くとオヤジは「シリアだ」と答えた。驚いて、「シリア難民?」と聞くと「そうだが、ここに来たのは2年前だ」と言った。何故ここに来たのか聞くと「アサド政権が酷かったから」と答えた。
オヤジは手際よりケバブを袋に包んでこちらに手渡した。「きっと、アサド政権とイスラム国は長くは続かない。いつか平和が来るよ」と言って受けとると「ありがとう」と答えた。

チキンケバブは抜群に旨かった。これがシリアの味なのかは分からなかったが、あのオヤジならここでもやっていけるだろう。









2015/OCT/4  「沿ドニエステル共和国」

キエフはとても気に入ったし、ウクライナはインド並みの物価なので、もう少し長く居ようと思ったが、モルドバへ行くことにした。バスターミナルでキシニョウまでのバスを聞くと、10時間かかるが夜行があるというので夜発にした。(ロシア語なので実際にはかなり苦戦している)
キエフはこの二日間で散々歩き回ったので、今日は遅く起きて、近くの綺麗なカフェで優雅な朝食にした。宿が1泊80フリヴニャなのに朝食は95フリヴニャもかかってしまったが、先進国にもまったく引けをとらないクオリティだった。

宿の客とも仲良くなり(娼婦は除く)、ナイジェリア人から実家の写真を見せられたが、塀で囲まれていて、刑務所のようだった。ナイジェリア人たちは外出する時にはいつも洋服にアイロンをかけてから出かけて行った。几帳面なやつらだ。ナイジェリアは、ほんの数日前にボコ・ハラムによるテロで100人以上の死者を出したばかりで、ウクライナに引けをとらない混乱具合の国だ。彼らはボコ・ハラムよりはロシア軍のほうがまだマシと考えているようだ。

20:00に宿を出て、バスターミナルへ行き、ケバブと飲み物を買ってバスに乗り込んだ。21:45にバスは出発し、すぐに寝ようと思ったが、国境までにいくつかの町に寄り、人が乗り降りしたので寝れなかった。夜の2時くらいにウクライナのイミグレで停まり、職員が乗り込んできた。終わって少し走るとバスはまた停まった。モルドヴァのイミグレかと思ったら、沿ドニエステル共和国だった。

これはモルドヴァのソ連大好きな人達が一方的に独立を宣言した自称独立国家で一丁前に国境ゲートを作って、入国審査もしている。モルドヴァ、ウクライナ国境沿いのドニエステル川周辺なので、ウクライナから入る場合はたいていこの国を通ることになる。

パスポートを預けて、入国カードを記入する。カードは上半分が入国用で、下半分が出国用になっていて、職員は上半分を破って回収した。そのあとバスは自称沿ドニエステル共和国の中をしばらく走り、今度は出国審査で停まった。同じように職員が入ってきて、パスポートをチェックし、出国カードを回収した。ツーリストは別室に連れて行かれてお金をたかられると聞いていたが、何もなかった。ただ、問題はモルドヴァの入国スタンプも無いということだ。あまりの睡魔で深く考えることはできず、難しいことは着いてから考えることにした。


時計を見るともう4時だった。全く寝れなかったので寝むりたかったが、その2時間後にバスはキシニョウの北バスターミナルに着いた。予定よりも2時間も早く。

まだ朝焼けの中、バスを降りたが、ひたすら眠かった。自称沿ドニエステル共和国、本当に迷惑なやつらだ。




2015/OCT/2 「ウクライナの縮図」

ベラルーシ出国審査は夜の2時くらいに電車の中であり、軍服の職員に起こされた。
朝の8時にキエフに着き、電車の中で入国審査があり、終わるとプラットホームに降りた。

駅の中 も外も白タクの勧誘が盛んだ。朝早いのに路上には花や果物を売るおばさんが並んでいる。

予約を入れていたホステルは駅から2キロ程度だったので、町を見ながら歩いて向かった。BOOKING.COMの地図は少し間違っていて、探すのに苦労した。ホステルは通りから奥に入ったコートヤードに面した建物の4階だったが、エレベーターは動かず階段でのぼった。

扉のベルを鳴らしても応答はなく、そのあと扉を数回叩くと中の男が開けてくれた。中は真っ暗で男は全く英語を理解しなかった。男は懐中電灯片手に宿の中を案内してくれたが、客室は臭く、客はウクライナ人とナイジェリア人しかいないようで、モスクワで泊まったホステル同様みんなここで暮らしているようだった。ベッドを選ぶように言われたが、「まず何故真っ暗か教えてくれ」と言うと、停電だと教えてくれた。宿を間違えたと言って、出ようかと思ったが、値段は13.3ユーロとインド並みの値段だったので、とりあえず一晩泊まることにした。

しばらくするとみんな起きてきて、朝食を食べ始めた。出稼ぎがほとんどだが、学生もいるように見える。昼過ぎに女の子が二人起きてきたが、朝食のパンとチーズをビールで掻き込んでいた。たぶん娼婦だろう。

バスルームで洗濯をしてから、街を見に宿をでた。
キエフの街はかなり大きく活気があり、古いクラシックな建物が整然と建ち並ぶ景観はモスクワを連想させた。旧ソ連の都市に共通する、道路を渡るための地下道や、地下のショッピングモールもあったが、スターリンの建てたモスクワの7つの尖塔そっくりの建物まであり驚いた。

夕飯を食べてから宿に戻ると、ダイニングにいたウクライナ人達が話してきた。一人は英語を少し話した。この宿には日本人の旅人が月に一人くらいの頻度で来るようで、皆1年以上旅をしていたと言う。「何故日本人ばかりウクライナに来るんだ?」と聞かれたので、「日本人ばかり来るんでなく、他の国の人はウクライナが 今、ホット過ぎて来れないんだ」と言うと、クリミアの話題になった。若い男はルハンシク出身だといい、まさに親ロ派との紛争地帯だった。もう一人も反ロシアで、ニューヨークの国連総会でのプーチンの動向がTVで映るたびに文句を言った。前日、ウクライナ代表団はプーチンの演説前に紛争で燃やされたウクライナの国旗をかざす抗議のパフォーマンスをしたばかりだ。ここのTVは国連総会とクリミアをめぐる紛争のニュース、軍隊の兵器の紹介番組しかやってない。

少し部屋を出て、戻ると男たちは言い合いになっていて、さっきの二人は怒って出ていってしまった。残った男はハリコフというロシア国境近くの町出身で両親はロシア人らしい。なのでウクライナ人とは全く意見が合わないし、そもそもウクライナ語も話せない。TVにオバマの演説が出ると「ファック オバマ!ファック アメリカ!」と叫んだ。できれば常にTVは消しておきたいと思った。

この宿はまるでウクライナの縮図だ。













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