2015/NOV/5 「うそつきエディと怠慢グリーク」

ギリシャではメテオラだけは立ち寄ろうと決めていた。10年以上前にギリシャを旅したときにいけなかった場所だ。メテオラに行くにはイオアニナでバスを乗り換える必要があるようだった。エディはイオアニナはキレイな町だぞとすすめるので、そこで1泊してからメテオラに向かうことにした。イオアニナ行きバスは朝の630だ。前日にチケットオフィスで「明日乗るよー」と伝えてバスの座席表に名前を書き込んでおいた。ガラガラなのでチケットは当日買うことにした。

チケット代以外の余ったレクを使いきり、宿に戻りエディと酒を飲み始めた。エディは海の向こうに見える明かりを指差してコルフ島だと言った。コルフ島はギリシャだがかなり近いようだ。エディはサランダからも船が出てて、毎日9時と13時にあるという。コルフ島で1泊しても、8日の夜までにはアテネに着けるだろう。「本当に船はその時間なんだな?」と聞くと、エディは「間違いないから宿の心配をしろ」と言う。コルフ島をググルと島の中心地のケルキラはベネチア時代の街並みが世界遺産にもなっていてキレイだった。折角だし行ってみるかと腕時計のアラームを5時半から7時半にセットしなおした。

8時に起きてエディに別れを告げ、宿を後にした。港は海岸の一番端にあった。チケットはすぐ近くの代理店で買えと言われたので行ってみると、船は13時のみだと言う。9時はコルフ島からサランダに来る船らしい。宿に戻って寝ているエディーの鼻を塞ごうかと思ったが、ターミナルのカフェでコーヒーを頼んでテラスの席に座った。暖かな陽気でとても気持ちよく、宿の10倍は早いWifiがあったのでしばらくまったりしていると、うそつきエディもだんだん許せてきた。

出国手続きはターミナル内で行い、船は時間通りに出発した。なぜかパスポートに入国記録がなく、少し揉めたが、「まーいいよ」と言うことで出国させてくれた。税関もバックパックの口をあけたら、日本人だしね的な感じで「もういいよ」と終わった。良い国だ。

船はたったの45分でコルフ島のケルキラに着いた。これで19ユーロは高すぎる。サランダの宿3泊分以上だ。

宿を決めずに来てしまったので、バックパックを背負ったまま旧市街を歩いてまわる。町は細い路地が入り組んで、白い建物に緑の窓とベランダがベネチアのようだ。オシャレなカフェも多くなかなか良いところだ。少し行った所に海にせり出した要塞があり、その中のカフェに荷物を置かせてもらうことにした。ついでにWifiで宿を探した。ケルキラの町にはホテルしかなく、最低でも30ユーロだった。島で唯一のホステルは15Kmほど離れた町でそれでも16ユーロもした。

日が暮れるまでケルキラを見て回り、バスでホステルのある町に向かった。海岸沿いでバスを降りると辺りは真っ暗だった。通りにはレストランやカフェらしき建物が並んでいたが、殆ど閉まっていて、人も見当たらない。完全にシーズンオフだ。近くのスーパーで宿の場所を聞いてひたすら歩く。しばらくするとネットの写真で見た建物があった。だが、窓はすべて雨戸が閉まっている。裏へまわると側面のバルコニーのひとつに2人の欧米人が見えた。裏の入り口から通路に入ったが1階には誰もいない。2階も誰もいないようなので、さっきの欧米人の部屋をノックすると、1人が出てきた。彼は「ここのレセプションは殆どいなくて、たまに現れるがかなりインフォーマルでまだ子供だ」と教えてくれた。彼らも来たときに誰もいなくて、鍵の開いている部屋を勝手に使ったと言う。他の部屋の扉を押してまわり、開いていた部屋を指して「とりあえずここにしたら?」と言うのでその部屋に泊ることにした。


ギリシャの破産危機のニュースをしょっちゅう見るが、ここの人々を見るかぎり全く危機感は感じられない。町には日中カフェでボーっとしてる人が山ほどいるし、働いている人も座っているのが仕事だと思っている。観光名所は1500には閉まるし、お店も11時から14時まで休みというところが殆どだ。そして、この宿はレセプションさえいない。観光が一番の産業ならもう少し頑張れば良いが、それもない。EUからの救済金を貰えば、きっとそれに甘え、何も改善はなく、また半年後にお金と言うだろう。一度破産してもらうのも長い目で見れば悪くないと思える。








2015/NOV/4 「ホステル・ベニ 」

今日で3泊目のホステル・ベニは東ヨーロッパのホステルで一番のホスピタリティだ。2日前にチェックインしてからずっと客はなく、ベッドもリビングも独占状態だ。ただし、エディという居候のようなオーナーの友達のおっさんが管理人としてドミに住んでいた。チェックインするとエディはワインを出してくれ、宿の説明をしてくれた。ドイツで働いていたというエディは流暢な汚い英語を話し、一応客対応のようだがとてもむいてるとは思えなかった。4階建ての建物は2階にベニの家族が住んでいる以外はすべて客室だが、客がいないので3階の1室以外は閉めているようだった。ベランダにはソファがありアドリア海が眺められ、気候も良くとても気持ちよかった。オーナーのベニは後から3L のワインボトルを持って現れ、3人で乾杯した。「好きなだけどんどん飲め」と言う。しばらくして夕飯に行こうとすると、「何処行くんだ?飯はあるから心配するな」と言い、夕食を持って来てくれた。朝食付き5.7ユーロの宿は実質ワイン飲み放題で夕食も着いているようだ。さらに昨日は昼間宿にいるとバーベキューをしてくれた。これもすべてタダだ。完全に赤字だろうがまったく気にしていない。意味不明な宿だ。

サランダは古い町並みがあるわけではなく、民主化以降、住民たちがこぞって家やホテルを建て始めたのでコンクリートの無秩序な建物が並ぶ残念な街並みだ。皆お金がないのでできるところまで作って、あとはお金が貯まるまで放置という状況だ。丘の斜面に広がる建物群は鉄筋コンクリートの躯体だけがいくつも建っていて夕日を浴びてとてもシュールだ。アドリア海に面したリゾートではあるが、まだ外国人観光客が少なくどこかやり切れてない感じが良かった。

夕方にベニは今日は地酒を飲もうと言って、俺とエディから100レキずつ集めた。30分ほどするとベニは料理と無色の酒をもって戻ってきた。アルベニアのジンだというが薬草っぽい匂いがした。料理は肉なし肉じゃがとグリークサラダだった。もちろんタダだ。


3
人で乾杯して飲み始めると、ベニは日本のいろいろなことを聞いてきた。ベニはアルバニアから出たことがなく、日本のことは第二次世界大戦で原爆を落とされたこととトヨタとソニーくらいしか知らなかった。なにより原爆を落とされたのだから日本人はアメリカが大嫌いだと思っていた。ドイツで働いていたアンディはどこかそういうベニを馬鹿にしたところがあり、ベニの話にいつも横槍を入れた。ベニは日本が2年位前まで世界で2番目の経済規模だったことを知り驚き、「何故世界に影響力がそんなにないのか?」と聞いた。「基本的にアメリカの言うとおりに行動してきたから、独自の意見がほとんど発信できてなかったからかな」と言い、「今は中国がすごい影響力を持ったね」と言うと、アンディは「ノーウェイ!」と叫び、「中国はただの工場だ。安い労働力だけで、自分たちのブランドや技術は無い。世界中からもただの安い工場としか見られてない」と言いきった。かなり時代後れの考えだ。いまやヨーロッパの各国首相が中国との会談を懇願する状況だ。「ここにも中国人がやってきて、中国人のツーリストだらけになるよ」と言うと、ベニは「それはない。アルバニアには中国人観光客はいない」という。「アルバニアは開国して20年でろくな観光キャンペーンもしてないし、LCCもアルバニアには飛んでない。でも東ヨーロッパの地方都市がそうだったように、いづれここにもLCCが飛んで西側から大量のホリデーツーリストが来る。金持ちの中国人たちがある程度旅行した後にアルバニアにも来るようになるだろう」というとベニは納得とまではいかない顔でそうなって欲しいと言った。3人でアルバニアにもう一度乾杯をした。






2015/NOV/2 「アンジェロ キャッスル」

石の町と呼ばれるジオカストルの町はイマイチで、丘の上のほうの旧市街も昔の姿をとどめている部分は限定的で統一感に欠ける街並みだった。ベラト同様ここも旧市街の一番上には城がそびえていた。

ホステルだと思って予約した最安値の宿は古い旧市街のホテルで客は誰もいなかった。レセプションのおじさんは隣のカフェの唯一のスタッフなので、ほとんど宿には居なく、宿の中は電気もついてないので静まり返っていた。おじさんはシングルルームに通してくれたが、電気が壊れてつかなかったので隣のダブルルームを使わせてくれた。荷物を置き扉を閉めると今度はドアノブが抜けてしまった。予約するときにはWifi有りとあったが、実際には裏のレストランのWifiを使えということらしく、おじさんはレストランへ行ってそこのスタッフからパスワードを聞きだした。かなり強引に。ただし、さすがに距離があり部屋ではベランダに出ないと使えなかった。夜はベラト同様に寒く、寝袋に毛布をかけて寝た。秋から冬に東ヨーロッパを旅するなら寝袋は持っていったほうがいい。

翌日、とりあえずお城を見に行くことにする。広い石畳の折り返し道を登り城の入り口に着いた。ジロカストル城は石造りの建物がだいぶ残っていて、入り口からの石のアーチの連なる内部空間が迷路のようでカッコよい。鎖国時代の大砲や撃墜させたアメリカの戦闘機が展示してあった。城のテラスからは旧市街の石の屋根が良く見えて、石の町と呼ばれているのがまー理解できたが、新しい建物も入り交ざっているのでもったいない感じがした。

城を後にして、旧市街を歩いて回った。町は観光客もなくのどかだ。子供達が道で遊んで、おじいさんがカフェでビールを飲んでいる。旧市街の中心に石畳の5差路があり、石の屋根の建物が集まっていてなかなか良かった。たぶんここが旧市街の一番の見所だろう。ここには2泊してからサランダに行こうと思っていたが、宿がイマイチなので夕方にサランダに向かうことにした。サランダはギリシャとの国境に近いアドリア海沿いの町なのでもっと暖かいはずだ。

新市街の街道でサランダ行きのバスを拾った。バスで隣に座っていたおじいさんは日本人だというとどんどん話しかけてきた。ジロカストロの名前の由来は200年くらい前のアンジェロというお姫様の名前からだと教えてくれた。アンジェロ キャッスルがなまってジロカストルというわけだ。ジロカストルが少し良い町に思えてきた。









2015/OCT/31 「千の窓の町」

ベラトまでは思っていたより時間がかかり、着いたのは夕方4時くらいだった。バスの運ちゃんは旧市街の橋で降ろしてくれたので宿へは歩いてすぐに着いた。あまり期待してなかった旧市街は石畳と石積みの壁の路地が入り組みでとてもいい雰囲気だ。日が沈み始めそうなので荷物を置いてすぐに町を歩きに出た。

宿のすぐ近くに教会があり中を覗いてみた。教会の建物には鍵がかかっていたが、境内で掃除をしていたおじさんが開けてくれた。照度の低い、教会の中はとても良い雰囲気でかなり古そうなイコノシタシスもあった。

川を挟んで宿のある旧市街とは別に建物が山の斜面に積みかさなったような、もうひとつの旧市街があった。これが有名な千の窓の町かーと興奮していろいろな角度から眺める。かなり急な斜面にランダムに建てられた建物たちはまるでゲーリーの建築のようだ。橋の上のここだという角度で手すりに寄りかかりしばらく眺める。観光客らしき外人が後ろを通り過ぎてゆく。ベラトは西ヨーロッパではそこそこ知られた場所なのかも知れない。

しばらくすると暗くなり始め、千の窓の町には照明がつき始めた。積み重なった建物たちは立体感を増して浮かび上がる。まるで全部でひとつの建築のように見えた。


宿に戻ると客は他にはいないようで、ドミトリーの好きなベッドを選べた。オフリド同様、夜はかなり冷え込みそうなので窓からなるべく離れた内壁のそばのベッドにした。この宿は宿のオヤジが築400年以上と胸を張るだけあり、扉の気密がかなり甘く外気がつうつうだ。夜が来るのが恐ろしい。寝袋を出し、その上に毛布をかけて中に入ってみる。まだ厳しそうだ。今夜はダウンを着たまま寝袋に入ったほうがよさそうだ。








2015/OCT/30 「はじめての設計料」

昨夜は毛布を三枚かけたが、夜中に寒さで何度も起きた。寝袋を使うべきだったなーと後悔した。

オデッサで会った本田さんにメールして、イスラエル行きの船に乗れることになったか聞く。すぐに返事がきて、どうやら明日発の船に乗れるとのこと。「今から行けばまだ乗れるか?」聞くと「多分いけるんじゃ」と返信がきた。今からアテネに向かって、果たして明日までにたどり着くのか?宿のおやじに聞くと、ここからストゥルガという町に行けばアルバニアのティラナまで行くバスが9:3012:30にあるという。所要8時間くらいだとして、ティラナには夜に着ける。アテネまでの夜行があれば、昼前にはなんとか着くんじゃないかと思った。すでに10:00なので12:30のバスに乗るにはもうすぐ出ないと間に合わない。

ヨーグルトとクロワッサンを食べながらしばし考える。結局せっかくバルカンにいるんだし、もう少しいろいろ回ってアテネを目指すことにした。次の船は11/9にあるらしいからそれを目指そう。旅をしてて、思うのはまたくればいいと思う所にはだいたいもう行かない。人生で旅に使える時間は、経済的に考えてもそんなに長くない。自分の行きたい場所に生きてる間に全て行く気なら、何処でも満足するまでいて、次に行くようにしたほうが後戻りがなくて、結果効率的だ。これは前回の旅で時間やお金を気にして、南極やイースター島に行かなかったことからの教訓だ。あそこに戻るには大変なお金と時間が必要だ。

下に降りて、おやじに「今日もここの泊まるよ」と言うと喜んだ。なにせ客は他にはいない。おやじは「コーヒー飲むか?」1階のダイニングにいれてくれた。「ラキアも飲むか?」と聞かれたので、何だかわからなかったが貰うことにした。濃厚なトルココーヒーと一緒に出てきたのは、ウォッカのようなお酒だった。とりあえずショットグラスでおやじと乾杯。

おやじはいろいろな質問をしてきたが、職業を聞かれて、建築家と答えると目を輝かせた。おやじは「裏の古い建物を改装してホステルにするんだ」と話し、知り合いの建築家に頼んだという平面図を引っ張り出してきた。かなりシンプルな平面図で既存の壁と柱に壁を足して、客室を6室と中央にラウンジがあった。柱形も出てしまっていて、シャワーやシンクもユニットを置けるところに置いた感じでセンスの欠片も見られなかった。なによりラウンジには採光さえ無さそうだ。

「ホステルじゃないの?ドミトリーは?」と聞くと「欲しい」という。「何処にすればいいと思う?」と聞いてくるので「ここじゃない」と言うと新しい紙に平面図を書けと仕草する。ラキアを注いで飲んでくれと言う。仕方ないなーと壁と柱を元の図面からトレースして、その上にドミトリーのレイアウトを書く。「ダイニングやラウンジも必要だよ」と言うと、「何処に置けばいいんだ?」といい、結局全てのレイアウトを書いてあげる。個室は3つ残して、ドミトリーにはベッドが8個入った。図面にドミトリー8ユーロ/bed, 個室25ユーロと書くと、「そんなにとれるのか?」と大喜びしてラキアをドンドン注いでくる。それはあなた次第だ。ドミトリーは2段ベッドにすれば倍になると言うとおやじの喜びは頂点に達した。おやじは平面図を理解出来ないので、「ここはどうなってる?」といろいろ知りたがり、英語もイマイチなので、スケッチでパースを書いて説明してあげた。結局殆どの部屋のパースを書き、ランドスケープまで提案させられた。

気がつくと昼を過ぎていたので、「そろそろ観光してくるよ」といって立ち上がると、お礼にとバナナとミカンをくれた。もと隈事務所パートナーにしては随分安い代金だが、はじめての設計料としては悪くないなと思った。

オフリドは湖に佇むたくさんの古い教会を持つ美しい町だと聞いたラキアを5杯も飲まされたのでオフリド湖に落ちなければよいが。








2015/OCT/28 「リトルチャイナ」

プリシュティナからスコピエに向かう。ここからはマケドニアだ。また通貨が変わり面倒だなーと考えているうちにスコピエに着いた

予約しておいた宿はネットで見たよりはるかに小さく、客は殆ど中国人だった。通りから扉を開けるとテラスで中国人が8人くらいで中華料理のテイクアウェイを食べていて驚いたが、中にはもっとたくさんの中国人がいた。彼らは旅行客には見えず、背広を着た人や作業着をきた人が多かった。宿の人に聞くと随分長くいると言う。作業着にはCSR 中国南車と書かれていた。

ネットでググると“マケドニアで中国発のヨーロッパでの鉄道事業”というのが出てきた。間違いない。彼らだ。会社名も同じだ。
さすがチャイナ、出張もドミトリーなのだ。他に客はいないし、そもそも殆どの部屋を彼らが占拠している。宿のなかは中国語が飛び交い、かなり賑やかだ。今夜はリトルチャイナだなと諦めてベッドに荷物を解いた。

夕方になりかけていたので、町を見て歩いた。中心部はどこも工事をしていて不思議な町だ。やたら豪華な噴水や、真新しいネオクラシック建築など、つい最近に出来たのだろうと分かるものが多い。なにより異常に銅像が多く照明で煌々と照らされていた。まるでディズニーランドのような町づくりは、最後の大詰めのような状況のようだ。はたしてこれを目指して来る人がいるのかだろうか。ちなみにスコピエの都市計画は日本の丹下健三によるものだ。

夕飯を食べて宿に戻ると、テラスの中国人たちは賭けトランプをしていた。テープルの上には高額紙幣が撒かれていた。













2015/OCT/27 「建国の父クリントン」

すこし遅めにプリズレンを出たので、プリシュティナには午後2時くらいに着いた。首都というにはかなり小さな町に見えた。予約した宿まで町を見ながら歩く。バスターミナルからの大きな通りを歩いて行くと、交差点に銅像が建っていた。独立運動のリーダーがなにかかなーと注意せずに通りすぎようとしたが、像の下にビルクリントンと書いてあるのに気がついた。立ち止まってまわりを見ると、今歩いて来た大通りもビルクリントン ブルバードと書いてある。

首都の一番の通りがビルクリントン通りだ。トルコでいうアタチュルク、インドならガンジー、パキスタンなら、、ちょっと忘れたが、つまり建国の父のポジションだ。コソボ紛争でベオグラードを空爆したのは殆どアメリカのようなものだから、当時の大統領クリントンがコソボでは英雄というわけだ。

旅をすると中国に負けず劣らずアメリカが世界で嫌われていることに気がつくが、ここではアメリカLOVEだ。多分世界でこんなにアメリカを好きなのはコソボだけだろう。

コソボは国民の9割が、アルバニア人だ。なのでアルバニアでみかけたショッカーのお店がここにもたくさんある。相変わらず悪い組織にしか見えない。

宿は9ユーロと安くはなかったが、改装中でなかなか良いラウンジエリアが出来上がりつつあり、完成してから来ればよかったなーという感じだった。宿の半分は使えない状態だったが客は案外入っていた。

プリズレンではあまりの寒さで寝袋に入って寝たが、ここでも夜は寒さがきつく、改装中のホステルの中はほとんど外気温とかわらなかった。












2015/OCT/26 「プリズレンの子供たち」

コソボ最初の町、プリズレンには夕方に着いた。中心に川が流れ、その周りにはカフェやレストランがあり、なかなか良い所に思えた。コソボはロシアや中国に独立が承認されていないが、アメリカやEUの後押しでどんどん国の機能ができてきている。国連治安維持軍が常駐していて、まだ危ないのかなと思ったがそんな事は全く無さそうだ。

始めに行った宿はイマイチだったので、もう少し歩いて、City Hostelという宿に落ち着いた。

翌日町を歩いて回った。小さな町で23時間もあれば一通り見れたが、古い教会やハマムなどの遺構はすべて閉じられていて、オープンするにはかなりの改修が必要そうに見えた。旧市街を見下ろす丘の上には砦があり、町が見渡すことができた。この町は子供たちが元気で何度も写真を撮ってくれと頼まれた。その後は決まってFaceBookで写真を送ってくれと言って、FaceBookInvitationを送ってくる。宿に戻り承認したとたん「私の写真はまだか?」と催促のメッセージが送られてきた。それも友達を承認したすべての子供から。なんだこの遠慮のない子供達は!と思ったが、すぐにみんなに写真を送ってあげた。しかもフォトショまでして。


コソボもアルバニア同様ケバブとハンバーガー、ピザくらいしかないので自炊しようとスーパーに行ってみた。野菜や果物、それ以外の食料品もおおよそ安かった。中でも鶏肉がダントツに安く、冷凍の500gくらいの骨付きを買うと0.44ユーロだった。よく見るとラベルに0.80/Kgと書いてある。いったいどうやったらこの値段で売ることができるのだろう。今まで見たどの国よりも圧倒的に安い。謎だ。






2015/OCT/24 「ショッカーの国」

コトルから7:38発のバスでアルバニアに向かう。アドリア海沿いを走るなかなか景色の良いルートだ。途中海岸から細い道で繋がった島にたくさんの建物が密集しているのが見えた。アマンだ。島まるごとリゾートとは豪華だが、石造りの建物達はキレイ過ぎて雰囲気に欠けるように思えた。アマンはわりとそういうリゾートが多く、ガッカリすることがある。

二度バスを乗りかえて、午後2時にアルバニア首都ティラナに着いた。アルバニアは1990年まで鎖国していた、東ヨーロッパの中でも特殊な国だ。元々社会主義で、開国と共に市場経済を導入したが、その後、長らくヨーロッパ最貧国と言われてきた。

バスを降りると、日差しが強く暑いくらいだった。アルバニアの南はもうギリシャだ。空を見上げて、しばし、日射しを浴び、だいぶ南下したなーと実感した。

小さな町でホテルは近いので歩いて探す。おみやげ屋にはアルバニア国旗やアルバニアグッズがたくさんあったが、残念ながらどう見ても悪者の国にしか見えない国旗だ。赤地に黒の双頭鷲はまるでショッカーのマークだ。大きなビルの屋上にも国旗がなびいているが悪の総本部にしか見えない。申し訳ないが汚職や腐敗が蔓延っているように見える。

ホステルは朝食付で7.9ユーロ。モンテネグロに比べるとはるかに良心的だ。ユーロもかなり流通しているが、通貨はレクといい、細かな買い物はレクで払う必要があった。

町を一通り歩いて回り、夕方に古代の墳墓に行ってみた。墳墓はコンクリートとガラスの屋根で覆われていて、改修中なので見れなかったが、子供たちが屋根に登って遊んでいた。屋根の斜度は30度くらいはあったが、石貼りの剥がれ落ちたコンクリートの躯体はかなりフリクションがあり容易に上まで登ることができた。下からはどんどん子供たちが登ってくる。転げ落ちれば死にかねないなーと登ってくる子供たちをしばし眺めた。夕日は裏側に沈み始め町を低い角度で照らした。気がつくと屋根の上はカップルや子供たちでいっぱいだった。ここは夕焼けを眺めるには一番の場所のようだ。












2015/OCT/23 「ロブション」

コトルの裏には切り立った岩山があり、その先はロブション国立公園があった。公園内にはトレッキングルートがあり、ロブション山にも繋がってるという。昨日ツーリストインフォメーションで聞くと片道四時間だと教えてくれた。

7
時に宿を出て、旧市街の外側の登山口から登り始めた。風が強く、かなり寒かったが天気予報では午後からは快晴のはずだった。かなり急斜面だったが、スイッチバッグの歩道があり一時間ほどで裏山を越えた。そこに一つ標識があり、ロブシェンの文字はなかったが、展望台のあるJezerski Vrhまでは5時間とあった。聞いていた話とかなり違う。ここから5時間なら片道6時間だ。そもそも海抜ゼロから1650mまで登るのに往復で同じ所要時間というのもおかしな話だった。はたしてこのJezerski Vrhがロブシェンなのかもわからないが、ツーリストインフォメーションでもらった地図のルートの終点はJezerski Vrhになっていた。

そこからは森のなかを登り、しばらくいって車道に出た。また森に入り、比較的平らなところを歩き、また道路に出た。トレッキングルートと道路を交差させるのは興ざめするのでやめてほしい。

山頂に建物と展望台がある山が見えた。地図にもその写真があるのでそれがJezerski Vrhだろうと判断してそれに向かってあるく。しばらくすると車道にでた。トレッキングルートは別の方向へ続いているが、それはコトルへ戻ってしまうようにみえたので、車道を山頂へ歩く。40分もすると山頂下のレストランに着いた。殆ど客もいなく、電気さえついてなく室内は寒かったが風がないだけマシだった。身体が冷えきっていたので、コーヒーを飲んで暖まる。一緒に持ってきていたサンドイッチを食べた。

そこから頂上はすぐだ。頂上への階段の途中でカナダ人カップルのジョッシュとマリサに会った。トレッキングの格好をしていたので話しかけると「ここまではクルマで来た」といい、コトルから歩いて来たと言うと二人はとても驚いた。「どれくらいかかった?」と聞かれたので「4時間半」と答えた。二人は「帰りは車に乗っていくか?」と言ってくれたので甘えることにした。彼らはここからすこし行ったところから短いトレッキングをする予定だといい、それにも付き合うことにした。

頂上には廟が建っていて、その奥に展望台があり、コトル湾の素晴らしい景観が楽しめた。南側にはシュコダル湖も見れた。ただ、この頂上はロブションではなく、隣の観測所のような建物が建っているのがロブションだと判明した。ガッカリしたが、もはや隣の山に登る気にはなれなかった。

彼らの車ですこし行ったところにあるレストランに車を止めて、そこから2時間半くらいのルートを3人で話しながら歩いた。西側の崖に出るとそこからはアドリア海に浮かぶ夕日が見えた。右側にはコトル湾も見え、切り立った山に囲まれた入り江は夕日を浴びて素晴らしい絵をつくりだしていた。モンテネグロは美しいところだ。

彼らはアウトドア好きで、このあとネパールでトレッキングや東南アジアでダイビングをするというので、トレッキングルートやダイブスポットを教えてあげた。また後日いろいろ聞きたいからと言い連絡先を交換し合った。彼らはソル・クーンブを見たらきっと驚くだろうなと、すこし楽しみになった。












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