2016/FEB/23 「モンバサ」

モンバサ行きの夜行バスは信じられないくらい揺れた。首都から第二の都市への道がほとんど未舗装というのも信じられなかった。その上、いたるところにスピードブレーカーがあり、そのたびに天井に頭をぶつけそうになり、そのうち何度かは実際にぶつけた。モヤレからナイロビのバスをみんな酷いというが、こっちのほうがぜんぜん酷かった。

7時くらいにモンバサに着いた。町の何処にいるかわからなかったが、バス会社のオフィスに荷物を預けて、宿を探しに行くことにした。とりあえず、大きな通りを町の中心へ向かって歩いていくと、マーケットを見つけた。なかなかの活気で、たくさんの野菜と香辛料が売られている。町はイスラムの雰囲気が漂い、ナイロビとはかなり違う。市場の周りには商店街が広がり、買い物客で賑わっていた。この商店を見て回るうちに気がついたことは、インド系の顔が多いことだ。インド人やパキスタン人の店がたくさんあり、どこかなつかしい感じがする。話を聞くと100年以上も前に彼らの祖先が、貿易のためにアフリカまできて、そのまま残ったという。命も顧みず帆船でインド洋を渡ってきた勇敢な人たちだ。

世界遺産になっている旧市街は、思った以上に普通の汚い町で、それほど雰囲気があるとは思えなかった。海沿いには有名な要塞があり、オマーン統治時代にそこから奴隷をザンジバル島の奴隷マーケットへ送り出していたらしい。地下の牢獄から海へと直接つながる階段が今も残されていて、奴隷が送られるのが想像できた。要塞の砲撃台からは周りの海が眺められたが、海はそれほど綺麗ではなさそうだった。

モンバサのビーチは町から少し離れたところに幾つかあり、モンバサに滞在すると不便に感じた。街も一通り見たので、ビーチの近くに滞在したほうがいいなーと思い。30キロほど南にある、このあたりでは一番というウクンダのビーチへ移動することにした。

モンバサの旧市街の南端の船着場へ行き、対岸へ渡り、そこからマタツでウクンダにたどり着いた。ウクンダの町からビーチへは少し距離があり、ビーチ沿いにはリゾートホテルが建ち並んでいた。海沿いのホテルは当然高いが、ビーチから通りを1本挟めば、そこまで高くない値段で比較的いい宿に泊ることができた。キッチン付きの長期滞在用ヴィラを交渉して借りた。部屋にはWifi、ホットシャワー、エアコンが付いていて、敷地内にはプールまであった。宿泊客は何故か、年配のヨーロピアンで現地の女の人を連れたおじさんか、年配のヨーロピアンで現地の男を連れたおばさんだった。別に現地で若い男、女を買っているとは限らないが、ついついそういう考えが浮かんでしまう。今までにもそういう場所を何度も見てきたが、よく考えると日本人のおじさんも海外でさんざん女を買っているので、どちらもほめられたものではないなーと、なにも言えなくなる。そうこういってるうちに自分もおじさんになりつつある。気をつけよう。











2016/FEB/22 「旅で役立つ職業」

今日、ナイロビに戻ることにすると話すと、エンブの町へ買い物にいく時にマタツ乗り場まで車で送ってくれるということになった。

朝、仁朗くんが朝食に呼びに来てくれて、永江くん、ユウジロウさん、カロさん、塩尻さんと朝食を食べた。ユウジロウさんはヨーグルトとマンゴーのシェイクをミキサーで作ってくれた。アルジャーラという舌に刺激のあるケニアのヨーグルトと甘いマンゴーの組合せは抜群に旨かった。ユウジロウさんも仁朗くんと同じ、天理教の宣教師で実家が教会なので跡取りだという。すでに10年連続でこの施設に来ていて、スワヒリ語もぺらぺらだった。

塩尻さんは朝食のあと、自身で施設の案内をしてくれ、オフィスでも色々と話をしてくれた。オフィスの階段からはうっすらとケニア山が見れた。頂上には飛び出た岩のような山頂があり、登頂には登攀技術が必要らしく、普通の人はその下で登頂とするらしい。いつかあそこまで登ってみたいなーと思った。

エンブのマタツ乗り場まで送ってもらうと、ユウジロウさんが運ちゃんに値段交渉してくれた。マタツは人が集まると、その場を離れた。もう少し、ここにいてもいいかなと思っていたが、日本から来ているボランティアは施設にお金を払っていると聞いて、タダで長居させてもらうのはまずいと思って、早く出ることにした。なにかしてあげられることがあればと思ったが、ここには建築士は必要とされていなかった。

旅をしていると、何か自分ができることはないかと思うことが結構あるが、設計という仕事はそれほど役に立つことはない。構造や設備ならまだあるかもしれないが、意匠設計は先進国以外で役に立つことの少ない能力なのかもしれない。アフリカではまず、建てられるということ(構造)、それが使えるということ(設備)が優先で、意匠についてはどうでもいい感じだ。強いて言えば建物の色くらい。つまり塗装。まーナイロビのような都会の立派なビルやホテルなら意匠という考えも出てくるだろうが、旅でそういう関係者には会うことはない。会うのはごく普通の人達だけだ。じゃーどんな職業が役立つのか?やはり医者だろう。医者はどこでも大歓迎。でも意外といいなと思うのはパン屋とかケーキ屋だと思う。アフリカは何処もパンが不味いし、ケーキは、もはや異次元の食べ物だ。ちょっとオシャレなカフェがあっても、ケーキが酷いということが多々あった。彼らに美味しいパンやケーキの作り方を教えて旅すれば、アフリカのパンのクオリティーは格段に上がるはずだ。何より建築のような莫大な投資が必要なわけではないので、みんな実行するだろう。

マタツ乗り場から歩いて、ニューケニアロッジに戻ると宿には大勢の日本人で溢れていた。ナイロビはアフリカ縦断の南下組も北上組も必ず通る要所で、日本人は皆、ニューケニアロッジに泊まるので、ここには日本人が次々とやってくる。ここは周辺国のどこの都市より快適なのでついつい長居してしまうのだろう。まだ、ドミのベッドは空いていたが、今日はこのまま夜行バスでモンバサへ向かってもいいかなーと思った。








2016/FEB/21 「バオバブの木登り」

朝起きて、永江君とダイニングへ行ったが、誰もいなかった。週末なので皆、まだ寝ているのだろうと、オフィスへ行ってみることにした。オフィスには塩尻さんがいて、挨拶をすると施設のカフェで朝食でも食べようという事になり、朝食をご馳走になった。「よくここで朝食をご馳走になるの?」と永江君に聞くと、「いや、初めてです」と答えた。

塩尻さんは「今日は何をするんですか?」と聞いてきたが、こっちが聞きたいくらいだったので「わかりません」と答えると、「今日、何人かマキマの孤児院に行くから、一緒にいったらいい」と言い、なにやら携帯で指示をだした。たしか昨日、永江君がそれに行きたがっていたが、車に乗れる人数のせいで、行けないようなことを話していた。

実は少し前にそのマキマの孤児院は日本のTVで紹介されたらしい。ケニアのエイズ孤児のための施設でかなり反響があったらしく、それを見て、ボランティアに応募する人が、かなり増えたらしい。サファリに来ていたアリサちゃんという女の子もその孤児院で働くためにきたという。

塩尻さんはかなりのワンマンで思いつきでどんどんプラン変更する。たぶんかなり混乱を招いているはずだが、この施設では絶対的な立場なので、皆、塩尻さんの言動には常に注意を払っていて、中には媚を売っているような態度のスタッフもいる。永江君のように若くて、来たばっかりの人は、他のボランティアにも気をつかい、運営に関わっているスタッフにも気をつかうので、かなり大変そうだ。彼から見れば塩尻さんは神だ。

その神が指示を出したので、あっさりとマキマ行きの車の座席は確保できた。永江くんもいけることになり、喜んでいた。

いける人が増えるということは当然行けない人も出る。昨日、行くと言っていたスタッフは何故か行かないと言い、何とか1台の車に6人納まった。マキマまでは来るまで2時間ほどで、行く途中にバオバブの木がある場所へ寄ってもらえることになった。

ケニアのバオバブは、写真でよく見るマダガスカルのものとは違った見た目をしていて、大きい木ではあるが、マダガスカルのほど胴長ではない。木には蜂蜜を集めるために樽が上げられていて、その樽を上げるための木の杭が幹に何本も刺さっていた。その杭をつたって、木の上まで登ることができ、これがなかなか楽しかった。もうずいぶんクライミングをしてなかったが、このバオバブの木登りはクライミングを思い出させるには十分なスリルがあった。まだ現地に住んでる人にしか知られていないが、観光客に知られれば、一気に人が押し寄せるポテンシャルがあるなーと思った。

マキマの孤児院に着いたのは昼過ぎだったが、施設に着くと、エイズ孤児達が歓迎のダンスを見せてくれた。これはかなり練習を積んでいるようで、すばらしかったが、最後にひとりひとり将来の夢を語るという涙をさそう演出があった。すべての孤児がエイズに感染していて、「みんな夢が叶うまで生きられないのかなー」と泣きそうになったが、今は毎日薬を飲めば発症を押さえることができると後で教えてもらった。

広大な敷地の孤児院は国立公園と隣接していて、丘からは公園を眺められた。ここからは公園の中の川に水を飲みに来るゾウが見られるらしい。さすがケニア、スケールが大きい。
この辺りは乾燥していて、水の確保が大変らしく、あたりに住むケニア人は皆、離れた川まで毎日水を汲みに来ていた。この川では、水を汲む以外にも、洗濯する人、魚をつかまえる人がいたが、腰まで深さがあるのに、対岸から川を渡ってくる人もいた。

エンブに戻るとすでに、薄暗くなっていた。お堂の前を通ると、小学生を集めて塩尻さんが話をしていた。このNGOは元々、天理教が母体だった。数年前に天理教は手を引いたが、塩尻さんを始め、長くボランティアに来ている人は天理教の人が多い。なので施設にも天理教のお堂があり、朝と夕方には勤行があるし、いたるところに天理教のマークがある。この施設の運営する小学校も夕方に天理教の半被を着た塩尻さんが話を聞かせるのが日課だった。

塩尻さんはこっちに気がつくと、お堂の中に入るように言った。壇上に呼ばれて、何かと思ったら、子供達に話をきかせてくれと言いだした。スワヒリ語は話せないと言うと、英語で大丈夫だというので、子供達に今回の旅の話をした。20分ほど話をして、その後、質疑応答の時間まであった。かなりの進学率を誇る、NGOの小学校だけあって、優秀な子供達はどんどん質問をしてきた。いかにも子供らしい質問だったが、旅の予算などお金に関する質問が無かったのは、かなり空気の読める子供達だと思った。旅の話は子供達には新鮮だったようで最後には満場の拍手で見送られた。

その夜、部屋にいると塩尻さんからダイニングに呼ばれ、永江くんと一緒に行くと、お酒でも一緒に飲もうと飾ってあったワインとウイスキーを出してくれた。塩尻さんは旅の話のお礼をいい、かなり上機嫌に見えた。塩尻さんは旅のことをいろいろ質問し、その後、今すすめているダチョウファームや消防士学校の話をしてくれた。きっと、ここには旅人が来ることはないのだろう。永江君はまた「こんなこと初めてです!」と部屋に帰ってから言った。短い期間だったが、ずいぶん塩尻さんと仲良くなった気がして、うれしかった。













2016/FEB/20 「エンブのNGO」

マサイマラのサファリからナイロビに戻ると、宿にNGOの人たちの迎えがきた。3日間のサファリでわかった事は、自分はあまり動物が好きではないということだった。

サファリのキャンプサイトで一緒だった若者達と仲良くなって話を聞くと、彼らは皆、アセフというNGOの人達で、短期のボランティアでケニアに来ていると教えてくれた。折角なので休みをもらってマサイマラのサファリに来ていたそうだ。ちょっとNGOの施設を見させてもらえないかと聞くと、一番年上の仁朗くんが、その場でNGOのボスに電話してくれて了承をとってくれた。ちなみにこの仁朗くんは天理教の宣教師で、キャンプサイトにいる時にマサイ選抜とのサッカーで疲弊した足を天理教に伝わる、‘おさずけ’というお祈りで治してくれたマジカルな青年だ。

宿から彼らの車で、そのNGOの本部のあるエンブという町へ走り出した。エンブはケニア山の南東に位置する小さな町だ。これといった観光地もない。エンブに行く途中、車からは一面の田んぼが見え、助手席のスタッフが「ここはJICA20年ほどかけて、田植えを教えて、拓いた田園だ」と教えてくれた。今では、ここの米はブランド米になるほど有名だという。JICAは本当にいろいろな土地でいろいろなことをしている。アフリカでもいろいろな場所でJICAのプロジェクトを見たり、聞いたりしてきた。当然それらすべてが成功を収めているわけではなく、お金と時間を費やしても、ほとんど成果を挙げられてないプロジェクトの話もきいた。ここは数少ない大きな成果を残したプロジェクトなのかもしれない。

エンブの施設に着くと、部屋に荷物を置いて直ぐに車でレストランへ向かった。今日はちょうど数人のボランティアの送別会だったようで、それにそのまま参加することになった。

店に着くと15人くらいがテーブルを囲んでいた。老若男女様々な人がいる。最年少は大学生で最年長は好意的に見ても65はいってそうだ。皆、この人誰?という視線を投げかけてくる。まー、確かにそう思うだろう。自分でも、送別会には参加しなくていいのではと食事中ずっと思っていた。

NGO
を運営しているダイレクターの塩尻さんが最初に挨拶して、ボランティア全員から帰国するボランティアへそれぞれスピーチがあった。なぜかこっちにも順番がまわってきたが、帰国する人達も初対面だし、話すこともないので自己紹介をしてみたものの、皆、旅人には興味薄だ。。。

NGOなので質素なのかなと思っていたが、割りと豪華な食事が出て、ビールもじゃんじゃん注がれた。結果的に訪問のタイミングとしてはベストだったと思った。

その日は施設に戻ってから、みんなで地元のクラブへ繰り出し、戻ったのは朝の4時だった。踊りの苦手な日本人のなかで、ダンス経験者の仁朗くんは黒人に混ざり見事な踊りを披露した。おとなしそうな仁朗くんは、実は踊る宣教師だった。施設の部屋は二人部屋でサファリに来ていた永江くんの部屋の空いてるベッドを使わせてもらった。永江くんもボランティアに来て、まだ間もないのでそんなに施設のことは分からないらしいが、簡単に施設やボランティア達のことを教えてくれた。

明日は何をするのかも分からないが、まー流れに任せよう。




2016/FEB/19 「マサイ選抜」

7時出発と言われたが、ガイドは7時半にやってきた。まったく悪びれた感じもなく。元々7時半発を6時半にしたいといい、7時で折り合いがついたが、彼は元々の時刻より早く来るきは無かったようだ。

今日も同じゲートからマサイマラ国立公園に入る。昨日同様マサイ族のおばさん達が車に群がり、ナイロビのマーケットで見たものと全く同じおみやげ物類を売り付けてくる。相変わらず、欲しいものはゼロ。今日は車内に腕を突っ込んでこないようにすぐに窓を閉めてロック。

入口から暫く走るといきなりライオンの群れに遭遇した。メスが三頭に子供が三頭。車のすぐ近くを歩いてゆく。昨日も見たのにライオンに遭遇すると緊張感がある。そのあとは昨日同様にバッファロー、トムソンガゼル、アンテロープ、ヌーが道の両脇に所々に見られた。昼前にチーターが二匹、草むらで身を低くしていた。アンテロープを狩るのではと、すごいたくさんのサファリカーが集まってきた。これでは狩れるものも狩れない。結局30以上待っても動きはなく、その場を離れることにした。公園内にはたしかに動物はたくさんいるが、ネットで見たサファリの写真ほどは動物の数はいないように思えた。やはり、ニューケニアロッジの人が言っていた通り、動物達はタンザニアに移動したのだろうか。ただ、これ以上見たいかというと、十分な気がした。

ロッジに戻るとコーヒーだけ飲んで、歩いてマサイ族の村へ行くことになった。マサイ族の村は遠いのかと思っていたが、公園入口付近のロッジがある集落の中だった。徒歩5分。え!ここ!という感じ。周りにも同じようなマサイの村がたくさんある。作り自体は本物だが、マサイの村がこんなに密集しているのは、不自然だ。マサイマラはアフリカ一有名なサファリでたくさんのツーリストが訪れる。なのでこんなにたくさん、マサイの村ができてしまったのだろう。つまりこれらはツーリスト用だ。

マサイの村と言っても、マサイは基本的にひとつの家族でひとつの集落をつくるので、この数軒の建物が集まって木の柵で囲まれたものが、ひとつの家族ということだ。ただし、家族といっても、何人でも妻を取れるマサイの家族はそれなりの人数になる。集落の中はそれほど活気はなく、しばらくして、男達が有名な垂直飛びを見せてくれたり、踊りを披露したりして、その後、住居の中を見学して終わりという感じ。となりの集落でも他のツーリスト相手にまったく同じことをしていることだろう。

一緒のツアーの大学生達はサッカーボールを持って来ていて、マサイ族とサッカーをしようということになった。マサイだし、サッカーなんてやったことないだろと思っていたが、ぜんぜん上手い。さすが、観光用マサイ族はチャンピオンズリーグも見るし、日ごろからサッカーをして遊んでいる。しかも、上手いヤツを集落を越えて集めてきたので、あきらかにこちらより動きがいい。始める前に負けたほうが、何かプレゼントをするというマサイの提案をうけたことを後悔した。

いつの間にかたくさんのマサイの子供達がまわりに集まり、一大イベントのようになったが、勝ったのはマサイ選抜だった。しかも、最後はわざと1点差まで追いつかせて、盛り上げらふしさえあった。なんか日本はたいしたことないと思われてしまったようで悔しい。だれかサッカー得意な旅人を集めて、マサイ選抜を倒しにいってほしいものだ。


勝負がつくとマサイ選抜はプレゼントはお金がいいと言い始めた。観光用マサイは言うことも夢がない。みんなあげれるようなものはなにも無いというので、スーダンのスークで商店のオヤジから貰った香水をあげることにした。いらないのにあげると言われて3ヶ月も一緒に旅した香水もここでマサイ族に受け継がれることになった。手渡すと全員でクンクン匂いを嗅いでいた。香水を使うのは初めてかもしれない。次にこの村を訪れるツーリストはこの香りに気がつくのだろうか。



















2016/FEB/18 「サファリ」

ケニアと言えばサファリだろう。そしてケニアのサファリで一番有名なのがマサイマラ国立公園だ。実はサファリにはそれほど惹かれていなかったが、ここまで来てサファリをしないのもどうかと思って、一度行って見ることにした。ニューケニアロッジはマサイマラのサファリをたぶん、ケニアで一番安く手配できるので申し込んだ。ここには次々と旅人が集まってくるのでツアーは待たなくても催行されるので便利だ。

マサイマラ国立公園はケニアの南西に位置する巨大な公園で、国境を挟んでタンザニアのセレンゲティ国立公園と隣接する。雨季にあわせて動物達は二つの公園を行き来するので、今、乾季のケニアにはそれほど動物はいないことになる。しかし、タンザニアのサファリはケニアの1.52倍が相場だ。

ツアーは同じ宿の日本人大学生達とケニア人の女性一人と一緒だった。初日はマサイマラに行く途中の、グランリフトバレーの展望台で休憩し、公園に着いたのは午後だった。グランリフトバレーとは、東アフリカを縦走する渓谷でこの渓谷は地下から大陸が持ち上がってできたもので、今もその活動は続いている。遠い未来、アフリカ大陸は真っ二つになるらしい。

公園のゲートで止まると、物売りのマサイ族のおばさんたちがいっせいに車を囲む。ガイドは写真を撮るとお金を取られるから、写真は撮らないようにと全員に伝えた。かなりアグレッシブで窓から車の中へ腕を入れて、マサイアクセサリーを見せてくる。しかも、少しの隙間から、窓をこじ開け、何人ものおばさんが腕をいれてくる。ほしいと思えるものはまったく無い。だが、短期旅行の大学生はアクセサリーを買い、おばさんがおつりを渡そうと小銭入れをだした。その小銭入れは革でできていて、なかなか渋かった。何よりお土産でなく、マサイの日用品っぽいところが気に入った。おばさんに聞くと売ってくれると言い、中のお金をすべて取り出してくれた。なかなかいい買い物をしたなーと眺めていると、他のおばさんたちも自分達の小銭入れをいっせいに取り出してきた。売れるものならなんでも売るところがすごい。

公園の中に入り、しばらく進むとひらけた草原にでた。まわりには動物達が、草を食っている。ガゼルとかは飛び跳ねてるのかと思ったが、草ばっかり食べて動かない。バッファローの大群も水を飲んでいて、動かない。まー食べたければ食べ、飲みたければ飲めばいいさ。これだけ車が毎日来れば、動物達も見慣れてるにちがいない。

ガイドはライオンを発見し、車を停めた。メスだ。3頭で歩いている。こうやって見るとメスライオンはでっかい猫にみえる。夕日が草原の向こうに落ち始め、景色はドラマチックになってきた。草原の夕日はとても絵になる。サファリカーは屋根が開くので風が心地よい。帰りにオスのライオンも見つけたが、死んでるんじゃというくらい動かなかった。ライオンはメスが狩り、子育てをするので、オスは本当になにもしない。どうしょうもない生き物だ。

公園ゲートのすぐ外にあるキャンプサイトはかなり快適で、ホットシャワーまで出た。他のサファリカーのグループもたくさんいて、なかなかにぎやかだ。明日は朝7時からまたサファリだ。










Recomend Posts

2017/APR/21 「最後の町」

日本へ帰る便は土曜日の昼にマドリッド発だったので、マドリッドには泊まらずトレドで 2 泊して、土曜の朝に直接空港へ向かうことにした。 マドリッド、トレド間は 30 分おきにバスがあり交通の便がよい。 トレドはスペインの有名観光地で、とても綺麗な町だ。スペインには何度も来てい...