2016/APR/9 「タンザニアのコーヒー」

ブルンジを諦めてタンザニアへ抜けることにしたが、次の目的地は広大なタンザニアの中央より東に位置するアルーシャ。距離にして1100キロくらい。キガリを朝イチのバスで出ても一泊二日はかかる。しかもバスに忘れたテントが戻ってくるのを午後まで待たないといけないので、多分国境でもう一泊することになりそうだ。

Volcano express
のオフィスに言われていた2時半に行くと、無事テントが戻ってきた。さすがルワンダ。直ぐに他のバス会社へ行き、タンザニア国境行きのバスを探すと運よく3時発のバスに乗れた。

国境までは四時間。着くとバイクタクシーと両替屋に囲まれる。イミグレはちょっと遠いのでバイクタクシーに500フランで乗り、残りはタンザニアシリングに両替した。

イミグレの建物はルワンダ、タンザニア両国の入出国審査が入っていて便利。しかも、これは日本のODA。外観はまー特徴ないけど、障害者トイレがあったり、ランドスケープに砕石が使われてるのも日本の設計事務所らしい。アフリカで砕石敷きなんて見たことないし。でも、折角のトイレも水が流れなくて汚物が溢れて完全にアフリカ化している。

国境をわたりタンザニアに入ったが、やはりバスはなく今夜はここで一泊するしかない。イミグレ出たとこに安宿が3軒くらい並んでいて、多分どこも同じ値段、同じクオリティなので一番手前にした。ここにはATMが無かったので、イミグレに戻って、うろついてる両替屋にドルから変えてもらって、宿代と明日のバスチケットを購入した。

翌朝8時に宿の前の空き地からバスが出るというのでいくと、すでに人が集まっていた。バスの横にはコーヒー屋がいて、タンザニア人がベンチに座ってコーヒーをすすっている。小さなカップに異常に濃いコーヒーが注がれる。スーダン、エチオピアのローカルコーヒーそっくりだ。しかも1杯5円くらいと異常に安い。ただし、アフリカの飲み物はなんでも砂糖たっぷりなのに、タンザニアコーヒーは驚くことにブラックだった。チャイ、コーヒー文化は何処にいってもあるものだ。ローカルの社交場ともいえるこの場所はその国の人間を観察するには最高の場所だ。あたらしい国ではまずコーヒー屋台でその国の人を見てみるのもいいだろう。






2016/APR/8 「ブルンジVISA」

フイエからブジュンブラ行きのバスに乗った。五時間くらいの移動だ。ブルンジは1ヶ月の観光ヴィザが90ドルと見所がないのにべらぼうな値段だ。そこでほとんどのツーリストはトランジットヴィザを取り、23日で抜けるというのが、定番になっていた。ブルンジ国内で10ドルで5日間延長できるらしいが、延長した人の話を聞かないのは、やはりブルンジには見所がないということだろう。

国境に着いて、ルワンダのイミグレで出国スタンプを貰う。そして、300mほど離れたブルンジのイミグレへ行って、トランジットヴィザを買おうとすると、スタッフ が何やら上司らしき人に相談を始めた。そして、その上司が窓口にやって来て「システムが変わって、国境でのヴィザ発給はしなくなった。キガリのブルンジ大使館でとれ」と話した。二ヶ月前くらいに国境でヴィザをとった人を知っていたので、それを話すと「スゴく最近に決まったことだ」という。「たった3日間の滞在だし、なんとかいれてくれないかな?ヴィザ代はポケットに入れればいいじゃん」と頼んでも、「キガリでとれ」の一点張りだ。

バスの運ちゃんに話すと運ちゃんはバックパックを道路に下ろして、ブジュンブラへ向かって走り去っていってしまった。面倒な事になったなーと思ったが、ナイロビで買ったテントをバスの中に忘れている事に気付き、更に面倒な事になったことに気がついた。

ルワンダイミグレは出国スタンプを取り消してくれたので、もう一度ルワンダヴィザを買わないで済んだ。しかも、ブジュンブラからキガリ行きのバスにタダで乗せてもらえた。
翌朝、キガリのブルンジ大使館に行くとヴィザ発給には2週間かかると言われた。もう1週間以上キガリにいたので、さすがにさらに2週間はシンドイ。2週間待ってもブルンジ滞在は3日。なんかおかしい。良いところだが、ここにいると結構お金を使ってしまうので危険だ。しょうがないタンザニアへ抜けよう。


Valcano express
のオフィスでテントが戻ってくるか聞くと明日の便でブジュンブラから戻ってくるのでキガリを出発するのは、早くとも明日の午後になりそうだ。

やることも無いので日本大使館へ行って、キガリの情報を聞いてみた。ゴリラトレッキングやサファリにこちらが全く興味を示さない事に気がついた大使館員は、最近できた日本人オーナーのレストランを教えてくれた。その名もジャパンダ。そんなに高くないらしい。さらに近くのShokolaというオシャレカフェも教えてくれた。

早速昼飯を食いにジャパンダへ向かう。開店が12時だったので表で30分も待たされた。そして、ようやく中に入れてもらえて、メニューを見るとメニュー少ない!幕の内弁当6500フラン、チキン照り焼き丼4500フラン、唐揚げ丼4500フラン、豆腐ステーキ丼4500フランのみ。幕の内弁当は凹凸のある銀のトレーに盛り付けてあるので、インドの安定食みたいだ。夜のメニューもツマミしかない。このレストランには絶対日本人以外来ないだろう。ふと、さっき大使館でルワンダの在留邦人は108人って書いてあったのを思い出した。ものすごく対象客の少ないレストランだ。

丼物はスープと漬け物無しだと3800フランだったので、チキン照り焼き丼をスープ無しでオーダー。味はチキンが炭で焼かれて香ばしかったが、マヨネーズが縦横無尽にかかっていて、純日本食としては疑問を感じた。でも味はなかなかいけた。

今度はジャパンダから歩いて大使館員イチオシのShokolaへ。アメリカ大使館の目の前の国立図書館の最上階にあり、テラスからはアメリカ大使館が一望できる、が、写真でも撮ろうものなら兵士がすっ飛んでくるので気軽のシャッターに指は置けない。


最上階にあるのにエレベーターが壊れてて、カフェに上がるのは一苦労だった。歳いった客はカフェに入ってくるなり肩で息していて、水をもらっていた。

内装はキガリのカフェでは一番オシャレだと思った。ただし、アイスコーヒーは薄く、ガムシロップが無いのか角砂糖が出てきたが、案の定、全く溶けない。まーでも、きっとホットドリンクは普通なのだろう。ちゃんとしたエスプレッソマシンが置いてあったし、ルワンダのコーヒー豆は美味しい。ブルボン種という古い豆種を育てるのにルワンダの気候が最適らしく、ここでしか栽培がされてないらしい。

ウガンダ、ルワンダ、ブルンジは何処もコーヒー生産が盛んで有名だ。特にブルンジは就業人口の9割がコーヒー産業に関わってるらしい。ちょっとコーヒーに頼りすぎな気もするが。







2016/APR/6 「ムランビ虐殺記念館」

ルワンダには各地に虐殺の現場を保存した虐殺記念館がある。あまり気分のいいものでもないので、1ヵ所だけ行こうと思っていた。キガリの南にも有名な虐殺現場になった教会が保存されている。ただこのあとブルンジに抜けるのであれば、南部のフイエへ移動し、その近くにあるムランビ虐殺記念館を見るのがいいように思えた。ムランビは教会ではなく、学校だった所で、この丘にたつ建物にフランス軍が守っているから安全と言われたツチ族が避難し、そこを襲撃されたという。一度に45,000人が殺されたという大虐殺の現場だ。

フイエからニャンマガベへバスで行き、そこからバイクタクシーで10分。見晴らしのいい丘の上に建てられた学校の建物が見えてきた。今日は珍しく天気が良いので、青空に浮かぶ雲と回りの丘陵がとてものどかだ。

ゲートの所で外国人のオジサンとすれ違ったが、他にはツーリストはいないようだ。建物のなかの展示を見て、そのあとはスタッフが付いて、集団墓地、技術学校の教室を案内してくれた。教室にはここで殺された人のミイラが台の上に無造作に並べられていた。2つの棟の部屋全てにミイラが置かれていて、他の棟には頭蓋骨や、大腿骨がケースに入っていた。ミイラは皆、石灰が塗られているので、真っ白だが、石灰から飛び出た髪の毛だけが黒かった。頭蓋骨が、割られていたり、足がなかったりと殺された状況が想像できるものも多く、何より部屋のなかは異臭がして、長居する事が出来なかった。

敷地のなかを一通り案内されて、最後に虐殺のときに遺体が捨てられた穴を見せてもらい、終了となった。

この平和なルワンダでほんの20年前にそんなことが起きたとはとても想像できない。今はツチ族、フツ族と分けること自体タブーになっているが、隣国ブルンジではいまだに多数派フツ族と少数派ツチ族で別れている。虐殺に関わったフツ族は報復を恐れ、ルワンダ国外に逃げて、ゲリラと化したままだ。ひょっとしたら、ルワンダに見る平和はまだ、ちょっとしたきっかけで崩れてしまう危険をはらんでいるのかもしれない。












2016/APR/5 「憩いの町」

昨日は退院して、夕方宿に戻った。聖ファミリア教会に付属するこの宿はキレイだしWifiもあり、施設の中にはスーパーとカフェまで付いてて、とても便利だった。なによりこの教会は1994年の虐殺のときツチ族をかくまったという由緒ある場所だ。夕飯に退院祝いで中華料理のレストランへ行ってみることにした。このレストランは着たときから気になっていたが、病院食から解放されて、とにかく旨いものが食べたいのでベストなタイミングだ。

中華系のデパートの5階にあるBAMBOOという中華料理屋で、建物の屋上に屋根をかけてレストランにしてるので、大部分が半外部だが、ここからの夜景は素晴らしかった。値段は高いけど味はちゃんとした中華。茄子の味噌炒めはご飯がどんどん進む。やっぱり、中華は外れがない。アフリカで食べる中華は、まるで日本食を食べてるような安心感がある。大満足の夕食だった。

そして、今日はキガリで虐殺記念館、映画「ホテルルワンダ」の舞台になったホテルを見て、あとは町をブラブラ。キガリ中心部にはキレイなビルがいくつも建っていて、ここで働くNGOUNの職員達が主に買い物するきれいなスーパーやレストランが入っている。「brioche」というカフェは日本でも全然やっていけそうなクオリティだった。ベルギー系らしく、ケーキが素晴らしい。こんなクオリティのものがルワンダで食べられるの
が驚きだ。アデァスアベバもカフェが山ほどあり、何処でも美味しいマキアートが飲めたが、やはりすこしズレた感じがあった。だがここのカフェは洗練度が完全にアフリカではないレベルだ。ただし、値段も完全にアフリカではない。

こういうのはルワンダがベルギーの植民地だったのが大きいのかも知れない。ケニヤやウガンダの飯が不味いのはイギリスの植民地だったことと絶対関係あると思う。大した料理のないイギリスの支配を受けたケニヤやウガンダは、焼いたり、揚げたりと原始的な調理法の物しかない。かろうじて調理していると言えるシチューも全然旨くない。あとは基本ウガリやマトケ、キャッサバなど原住民の食べ物だけ。

キガリはカンパラやナイロビのように人ゴミで通りが歩きづらいということもなく、道にはゴミひとつ落ちてない。回りには緑の丘に住宅地が続くのどかな景色がひろがる。そして、少しお金を出せば、中華やオシャレカフェがある。なにより人が皆親切だ。キガリは旅に疲れた旅人が、美味しい物でも食べてゆっくりできる東アフリカの憩いの場のような町だ。












2016/APR/4 「退院」

入院4日目。昨日、肝機能のテストのためにまた採血をした。これで異常が見られなければ退院できるらしい。二日前の夜から入院以来、1日4本うっていた点滴を止めたので、のどが渇く。病院には売店がないので、飲み水が無くなり水分を取ることができなくなった。何度水がほしいと言っても、たらい回しにあうし、分かったと返事した看護師は皆、戻ってはこなかった。このままでは脱水症状で、また点滴が必要になってしまう。

医者の判断では肝炎だが、どのタイプかは特定できてないという。B型とC型ではないということがテストで分かったが、この病院では何故かA型のテストができないので、外部に依託したので時間がかかると言う。もう4日もたつのに原因が判明できないのは、この病院のの限界を感じさせる。

売店もなく、TVも設置されてない病院ではやることもなく、隣の患者は喉から管をだしていて世間話どころではないのでやることがない。ただただ時間が過ぎるのを待つ日が続いていたが、昨日看護師が病院の事務室のスタッフ用Wifiのパスワードをこっそり教えてくれたお陰でネットが使えるようになった。ただし、病棟の外のベランダでないと入らないので雨が降ると濡れるのを覚悟しなければならなかった。

肝機能の数値はまだ標準値とはかけ離れていたが、最初の検査のときの数値の半分くらいまで改善していた。医者は退院の許可をくれ、「引き続き食べ物に気を付けて、安静に旅を続けてくれ」と言った。肝機能が低下して脂肪分の高いものを食べられない患者に毎食500mmリットルの牛乳を出す病院が食べ物の心配をしてくれるのには驚いたが、それ以上に安静に旅を続けるほうが無理難題に聞こえた。


メディカルレポートには結局、「病名はmost probably hepatitis A」と表記された。つまり、原因を突き止めるには至らなかったということだ。

朝に退院許可が出てからは、退院までにまた不毛な時間を過ごさなければならず、最後までアフリカの病院の手際の悪さを見せつけられた。看護師は「昼御飯も食べていけばいいじゃない」と呑気だった。初日の夕飯で頼んで除いてもらったマトケ(甘くないバナナ)は、その後復活をとげ、毎食、皿の三分の一を占めていた。毎回意思表示のためにマトケだけ残していたが、その後取り除かれることはなかった。


病気になるならご飯の美味しい国がいい。





2016/MAR/31 「入院」

朝なんとか糞便検査用の便を回収し、朝飯を食ってから病院へ向かった。

直接ラボへ行き、便を届け、昨日の血液検査の結果を聞きに緊急外来へ行った。診察室の外で一時間待たされてから中に入ると、昨日とは違う医者で、また一から説明させられる。「そーゆーのカルテに書いてないの?」って言うと、そもそもカルテ自体が無いようだった。カセセのクリニックもそうだったが、医者はかなりランダムに働いているようで、別の日に行くと別の医者がいて、情報の共有がなされていないので何度も同じ説明をすることになる。前の医者が何を処方したかさえも分かっていない。

血液検査の結果をプリントアウトしてくれ、異常値のある箇所をマークしてくれた。心配していた通り、肝機能が異常な数値を示している。彼は「普通はこれくらいで貴方のは15倍くらいの数値だ。他にも検査が必要だから何日か入院してもらう。別の内科医が来るから待っててくれ」と言って出ていった。

「入院か。。。」と気が重くなったが、この病院は入院食が出るので食事のほうが気になった。外来のベッドに通されて、入院手続きをしたが、会計が昨日と違う人のため、また保険の確認をするために一時間を要した。そのあとはひたすら待機。アフリカの病院はなんの説明もなく、待たされることが多すぎる。ナースに腹が減ったというと食事を持ってきてくれた。豆、フライドポテト、マトケ(甘くないバナナ)、羊の肉を煮たものが1つの皿に盛られていた。羊は固く、全体にかけられたグレイビーソースのようなものがフライドポテトをシナシナにしていた。これからずっとこの食事なのかーと思うと一気に気が重くなった。

外来のナースがどんな症状か聞いてきた。簡単に説明すると何やらファイルに書いてはいるようだった。今度はようやく内科医がやって来た。同じように症状を聞く。さっきのナースへの説明は何だったんだ。「この病院で説明するのは4回目なんだけど、これで最後かな?」と聞くと、その内科医はニッコリと歯を見せて最後だと答えた。

その若い女医は「病棟のベッドが準備でき次第移ってもらうので、それまでここで待っているように。その間、採血します」と言って何処かへ行ってしまった。

しばらくすると別の制服のナースが3人やって来た。若い二人は同じ制服で一人は違う。すると、若いナースは自分はナースになるための学生で研修中だと言った。つまり若い二人は学生だった。一人の学生が採血するとのことだ。一気に不安になる。監視役のナースは「彼女は優秀だ。問題ない」というが、患者の前で不安になるようなことを言うはずもないし、そもそも学生が患者の採血をしていいこと自体驚きだ。

その子は上手く針を指したが、何本か採血の容器を変えるうちに血がボトボトと出てきてしまった。それでも止めるわけにいかないので手と床は血だらけになっている。監視役のナースが脱脂綿で腕の血を拭き取るが、また直ぐに血がこぼれて汚す。別の学生も必死に床をふき取る。3人フル可動の採血だ。

夕方、ようやく四人部屋の病室に通されて、ベッドに横になった。そんなにたいしたことをしてないのに、相変わらずすごい時間がかかる。いったい何日ここにいることになるのだろう。

夕飯は茹でたジャガイモ、紫の芋、豆とスパゲッティの麺、羊肉だった。昼飯とそんなに代わり映えしない。遠くから見たらほぼ同じ物に見えることだろう。ただ、マトケは要らないと強く伝えたのでマトケはのっていなかった。そういうのは対応してくれるようだ。


あー 旨いものが食いたい。







2016/MAR/30 「King Faisal Hospital」

昨夜、なんとかルワンダの首都、キガリに移動した。体調はまだ悪かったが、カセセの病院はあまりに酷く、こんな奴らに殺されてたまるかと最期の気力を振り絞って移動した。

キガリに着いてまずやることはこの国一番の病院に行くこと。一応首都だからカセセよりはマシな病院があるはずだ。

熱は下がったが、腹の違和感重い、膨脹感、ガスッぽいが酷く、オシッコも血尿と見間違えるほど濃いのが出続けていた。何より心配なのは、少し前から黄疸が出始めていた。最近読んだ漫画「ブラックジャックによろしく」に出てきた黄疸のでたおばちゃんは、その後すい臓ガンで死んでいた。

延長したばかりの保険屋に電話して、キャッシュレスの病院を紹介してもらい、保険から払われるであろうタクシーに飛び乗った。

保険屋に紹介されたKing Faisal病院は、まーこんな程度かという感じだった。これでも外務省の海外医療機関情報のページではキガリで一番上に載っているので、多分この国で一番の病院なのだろう。ただし、同じページには「ルワンダには信頼のおける病院はないので、緊急時には欧州か南アフリカに飛べ」とも書いてあった。

とりあえず、受付に行き、保険会社の紹介で来たと告げる。するとカスタマーケアに行けと言われた。そっちで同じことを言うと、会計の部署に行けと言われる。そこに行くと列が出来ていて、ひたすら待ってからようやく話をし、旅行保険で全ての支払いがされることが確認できた。多分ここまで一時間くらい。病気になって来院して、医者に会う前に支払いの方法の確認をさせられるのはアフリカ式だ。このあとも診断を受ける前に診断料を払い、その領収書を医者に持っていって診断してもらい、医者が検査が必要というので、今度は検査のお金を払い、その領収書を持っていって採血してもらい、採血は自分でラボまで届けないといけない。毎回支払いの度に長蛇の列に並ぶ必要があり、診断、採血、ラボに届けるだけで夜の7時までかかった。検査結果がでないと何も出来ないということで、その日は宿に帰った。糞便の検査もするから明日持ってこいとケースをもらったが、ここのところ連日の下痢で回収は困難に思えた。

帰りに昔、日本のTVに出たというルワンダ唯一の日本料理屋に立ち寄った。かなり高かったが、残念なことに味はイマイチだった。よく考えれば交通網の発達してない、内陸地のルワンダで寿司を出すこと事態無理がある。なんでそこまでして日本料理屋を作ったか不明だ。そもそもオーナーも韓国人なんだから、韓国料理を出せばいいのに。


あー 何か旨いものが食いたい。






2016/MAR/27 「カセセの医療事情」

スタンリー山から戻った翌日、また高熱が出た。疲れからかなと思ったが病院に行くと登山前の細菌感染がまだ残っているといわれた。また抗生物質をもらい二日ほど飲んだがよくなる気配はない。しかも今回は嘔吐を繰り返し、熱も下がらない。

再度病院へ行くと今度は別の抗生物質を点滴で投与した。八時間に一回投与する必要があるので、そのまま病院に一泊し、翌日の夕方にホテルへ戻ったが、その翌日にまた病院へいき同じ抗生物質を再度投与した。


この病院は宿泊しても食事もでないので自分で調達しなければならない。小さな町でレストランは限られているが、何処も酷い味だ。医者の勧める町一番レストランへも行ってみたが、メニューの半分は材料がなく作れないと言う有様だ。メニューにはピザやパスタもあるが、パスタは何故か中華料理の欄にある。ちなみに中華料理の欄にはパスタしかないのだが。結局作れるのはローカルの羊や牛のシチューやフライドチキンやポテトだけだった。この町のローカル料理は、すべて味付けが濃すぎてかえって体調が悪化しそうだ。

この病院では毎回違う医者が出てきて、今までの経緯を毎回説明する必要があった。患者の情報の引き継ぎがまったくない。投与した薬の種類も患者に聞かないと分からない始末だ。しかも、しょっちゅう病院からいなくなり、たいしたことのない処置に何時間もかかる。病院に医者が一人もいないという状態がよく起こる。早く大きな町の大きな病院に移らないとャバそうだ。

カセセの病院のベッドには蚊帳が着いている。病院のベッドに蚊帳が付いているのは始めてみたが、よく考えると、ここはマラリア汚染地帯で、現地人も警戒するほどマラリア多発地帯だ。体力の低下している今刺されればイチコロだろう。早くここから脱出したいが、今の体調ではとても移動できそうにない。病院も医者も酷いし、まともな飯を食うところさえないが、移動もできないので、しばらくここでマラリアに怯えながら頑張るしかない。いやな悪循環にはまり込んでしまった気分だ。

少しでも良くなった、無理してでもルワンダへ抜けよう。

2016/MAR/19 「過酷な山頂アタック」

山頂アタックは標高4541mにあるエレナ小屋からだ。昨日、ブジュク小屋から5時間かけてエレナ小屋に到着した。ブジュク小屋からの登りでは、湖と渓谷が眺められる素晴らしいビューポイントがあった。急な峠を越えるとエレナ小屋があり、目の前のMt.Bakerの逆側には下山ルートの渓谷が広がっていた。この山域は本当に広い。ここまで来ると、さすがにもう樹木はなく。岩と苔だけだった。小屋からはマルガリータ峰は見えなかったが、他の山の頂にも氷河があるのが見え、テンションがあがる。やはり岩山はかっこいい。

朝の4時に簡単な朝食を食べてからエレナ小屋を出発した。夜中に雪が降ったようで、岩肌の上に薄い雪が被さり、それが凍りついて、危険極まりなかった。滑るのでゆっくりとしか進めず、氷河に着くまでの登りにかなりの時間を要してしまった。氷河の手前でアイゼンを装着して、ピッケルを握り、氷河に飛び乗った。氷河は二つあり、最初の氷河は比較的平らなので、ロープは必要ない。氷河を歩いているうちに、あたりがうっすらと明るくなり始めた。霧がかっているので周りがすべて赤く染まって、不思議な感じだ。まるで赤い空気の中を歩いているようだ。

氷河を渡りきると、また岩場が待っていたが、ここも昨夜の雪があり、アイゼンを着けたまま歩くと、雪が薄く、岩にアイゼンの刃があたり歩きづらかった。しばらく進むと少し下りがあり、そこを降りると、そこには雲海が広がっていた。太陽が上がり始め、雲の隙間から光を出して、あたりを照らしだした。雲の下に広がる谷には、湖が雲を反射しているのがみえる。すばらしい景色だ。後ろを振り返ると、マルガリータ峰と2つ目の氷河が見えた。かなりの斜度だ。いったいどこから氷河に取り付くのだろうか。

ガイドのデニスを先頭に、急な岩の斜面を登り、氷河の端にたどり着いた。ここでデニスがハーネスにロープを結びつけ、全員をつないだ。まず彼が、目の前の氷河を上り始めた。かなり角度があり、なおかつ大きなクレパスの横を登らなければならず、危険極まりない。ガイドが登りきり、ロープを張ってから後を追う。ピッケルを刺しながらアイゼンの前爪で一歩一歩登る。これはもう普通の旅行者が気軽にこられる山ではない。全員がロープが垂れない用に距離を置いて、氷河を登り続けた。先頭のデニスは、雪で隠れたクレパスの場所にXマークを書いて進むので、そこは踏まないように登る。ガイド達のハーネスはあまりにぼろぼろで、壊れた部分を紐でつないでいる。これで誰か落っこちたら、彼らのハーネスはもたないだろう。しかも、デニスのアイゼンは旧式で何度も紐が解けて、そのたびに立ち止まり結びなおした。よくこんな装備でこんな山を登るなーと思ったが、ウガンダではアウトドアの装備を購入できる店はないので、あるものを使うしかないのかもしれない。

氷河を登りきると、大きな氷柱があり、そこはまるで雲海の上に浮いているかのようだった。その氷柱の横を通り、裏側の雪の斜面をトラバースすると、あとは頂上まで急な岩場になった。標高は5000mを超え、ここが最後の登りだったが、空気の薄さで息切れが激しく、苦戦した。30分ほど登ると、岩山の先端にマルガリータと書かれた看板がみえた。ようやく山頂だ。残念ながら、下から上がってきた霧に追い抜かれ、山頂はガスって、何も見えなかった。時間を見ると10時をまわっていた。予想よりもはるかに時間がかかった。こんなに大変だとは思ってなかったが、降りはもっと危険だろうと不安がよぎった。しかも今日はエレナ小屋からさらに先の小屋まで降らないとならない。いったい何時間歩くのだろう。

待っても晴れる気配はないので、15分ほどで山頂を後にした。これまで1日に歩く時間はそれほど長くなかったが、山頂アタックの日だけ信じられない過酷さだ。ただし、この日の景色は前日までとは比べ物にならないほど美しかった。たぶん今までアフリカで見た中で一番の景色だろう。





















2016/MAR/17 「コンゴの国境」

ルウェンゾリはコンゴとの国境をつくる山岳地帯で、昔はコンゴ側からも登山ができたという。内戦が始まり、終結後も武装ゲリラがコンゴ北西部のジャングルに潜伏したため、コンゴ側は、もはや登山どころではない。。

3日目の今日は標高3962mのブジュク小屋まですすむ。道は相変わらず緑が覆い茂っていたが、いくつか開けた湿原があり、晴れていたので景色がとてもよかった。湿原には尾瀬ヶ原のように木の桟橋があり、歩きやすい。森の中に入ると苔だらけだ。さらに進んで渓谷斜面のトラバースを歩いてゆくと、ついにスタンリー山の最高峰マルガリータ峰が見えた。二つの尖った岩山の間には氷河がみえる。ここから見るとあんなところを登るのかーと心配になる。まだかなり距離もある。たしか、マルガリータの山頂アタックは明後日の予定だ。

大きな湖を越えて、1時間ほど進むと今夜の山小屋があった。チャイを作ってもらい、休んだ。ここからはMt.Bakerがよく見える。天気は不安定だが、少したつと晴れ間が見えてきた。この山の真ん中には何故か滝のような白いラインが見える。ガイドに聞くと、それは石灰石だと教えてくれた。

ガイドにあらかじめ、コンゴ国境へ行きたいと伝えておいたので、休憩の後、山小屋から裏側へ登り始めた。急な登りを登りきると、開けた峠のようなところに出た。標高は4300くらいはあるが、まだ妙な形の木が生えている。日本ならとっくに森林限界を超えていて、生えていても這松くらいのはずだ。赤道近くだけあって、生態系も日本の山とはまったく違う。



ガイドは峠が下りはじめるところで立ち止まり、そこがコンゴ国境だと教えてくれた。ここから2日ほど降るとコンゴの最初の村があるらしい。とりあえずコンゴに入ってみようと、少し先のコンゴ側に立ち、ガイドたちと記念写真を撮った。カンパラの宿でオーストリア人からコンゴVISAの取り方を教えてもらっていたが、結構お金がかかるし、国境付近しかいけないので、ここでコンゴに少し踏み入るのとそう変わらない気がした。しかも、ルウェンゾリのコンゴ側の人たちは基本的にここのガイドやポーターと同じ人種で、話す言葉も同じだ。やはり、キンサシャへ行けないのであれば、わざわざVISAを取ってコンゴへ行かなくていいような気がした。












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