2016/JUN/22 「ザンビアの友人」

ザンビアには以前一緒にイラン、コーカサスを旅をしたタエちゃんの友人がいると聞いていて、会うことになっていた。その友人はアフリカを旅して、その後、ザンビアに住んで仕事をしているという。昨日からメッセージを送っていたが、今日ようやく返事がかえってきた。昼前に彼がよくwifiを使いに行くというホステルに集合ということになった。


その友人、正樹くんはひょろっとして、浅黒い肌の、少し年下の青年で、事前情報で躁鬱病と聞いていたので、どう接すればいいのかなーと考えていたが、いたって普通だった。彼の旅の話を聞くと、タエちゃんとは五年くらい前にカイロで会ったのだと教えてくれた。彼女は西アフリカをまわってから、カイロへ飛んだと言っていたので、そのときだろう。

正樹くんはそれからずっとアフリカだという。東、西、南アフリカを回り、ザンビアに住み始めて1年半になるという。ユーラシアやアメリカ大陸には目もくれず、五年以上もアフリカにいるという人には始めて会った。「アフリカは何処が良かった?」と聞くと「ケープタウン」と即答した。意外な答えだったが、これだけアフリカを回ったなら、きっといいんだろう。ケープタウンには6ヶ月もいたらしい。「他には東ならエチオピア、西ならナイジェリアかな」と言った。エチオピアには1年半いたらしい。もはや旅してるとは言えないんじゃという滞在時間だ。ザンビアに住んでいるのも、旅の一部なのかも知れない。ちなみに友人のタエちゃんは彼に勧められて、この夏ナイジェリアを旅していて、年末にまた戻るらしい。ナイジェリアに関しては、ボコ ハラムの非道ばかり聞こえて来るので、近づこうとも思わなかったが、行けば案外いい国なのかもしれない。

「なんでザンビアに住んだの?」と聞くと、「本当は南アが良かったが、先進国並みの南アでは、簡単にビジネスにはいる余地がない」と話した。確かに南アは仕事をする上での法整備も進んでいて、外国人が勝手に金儲けするのは難しそうだ。他の国なら税金さえも払わないでも良さそうだし。

彼は中古の日本車を売っている。と言っても、売るのは知り合いの同業パキスタン人に頼んでいるので、ほぼやることはないという。ザンビアでは中古車の輸入販売はパキスタン人が牛耳ってるらしい。彼らは日本にも親族を送り込んで、ネットワークを構築しているので、そこに入り込むのは、なかなか大変だし、やっている人間が多く、価格競争の結果、利益率がかなり下がってしまったらしい。なかなかうまい商売があるわけではないようだ。

話が一段落すると、正樹くんが勧める近所のレストランへ行き、遅めのランチを食べた。T-ボーン ステーキを頼むと、絵にかいたような豪快な肉が運ばれてきた。これまでのアフリカでは、メインの量が少く、ペース配分を考えながら大量の主食を食べるということに慣れすぎていたので、この潔い肉のボリュームには感動だった。そして、この肉の柔らかいこと!マラウィの固い肉とは大違いだ。こんなに旨い肉はムパタ サファリ クラブで食べたポークチョップ以来だ。

正樹くんとは飯のあと別れて、あとは街中を歩いたり、マーケットを見に行ったりした。ルサカの町は、線路を越えるとガラリと雰囲気がかわり、路上の人、物売りで人口密度が100倍に膨れ上がった。まるで街中マーケットのようだ。線路の向こうのきれいなショッピングモールやアメリカの田舎町のような雰囲気に惑わされたが、ここもしっかりアフリカなんだなと思った。

ルサカまでのルートはかなり前に考えたものだったが、ルサカからのルートは、まだ決めてなく、何通りか考えられた。ここから南アまでどうやって行くかを決めなくてはいけない。

ザンビア以南でVISAにお金がかかるのは、ジンバブエだけなので、なんとでもなりそうだったが、ヴィクトリアフォールをザンビア側で行くか、ジンバブエ側で行くかが悩みどこだ。ネットで調べてみると滝の8割はなんとジンバブエ側で、ビューポイントもたくさんあるとあったので、ジンバブエ国内を見て回って、最後にヴィクトリアフォールにいって、そこからボツワナ、ナミビア、南アというのが効率良さそうだ。ただし、ザンビアは他に行くところも無くなってしまった。そこそこ名の知れた国立公園もあるが、ケニアやタンザニアでサファリをしたし、周辺国でも見所はサファリというとこが少なくないので、もはやサファリにはよほどのことがなければ行かないだろう。そんなに動物好きではないし。ザンビアをルサカしか見ずに出るのは不本意だったが、「ジンバブエが待っている」と自分に言い聞かせた。














2016/JUN/20 「ルサカの繁栄」

マラウィのリロングウェからのバスは12時間以上かかって、ザンビアの首都ルサカに着いた。首都から首都への移動はアフリカでは初めてだ。なんだか色々飛ばしたようで寂しいが、道中の景色は国境近くのチパタを過ぎるとずっと森林だったので、見所も無かったように思えた。

ルサカにつくと、既に日も暮れかけていて、調べていた宿まで歩いた。リロングウェに比べるとかなり肌寒く感じる。たぶんルサカの標高が1200mあるのと、かなり南に移動したからだろう。

調べていたFlintstone Backpacker泊60クワチャから70クワチャに寝上がっていたが、マラウィに比べるとインフレ率は低いように思えた。これくらいなら他のアフリカ諸国とかわらない。マラウィでは二年くらい前の情報から値段が倍というのも珍しくなかった。マラウィが異常なのだ。


宿はキッチンもあり、ホットシャワー、wifiとマラウィでは無かったものが当たり前のように揃っていて、疲れを取るにはいいところだ。ツーリストよりも仕事で泊まってる客が多く、長期で住んでる人も結構いた。彼らはジンバブエ人やインド人達で、わりときれいな格好をしている。キッチンで調理をしていると、彼らと会うので何人かはすぐに顔見知りになった。

宿の近くには先進国並みのショッピングモールがあり、あまりの綺麗さに驚いた。中は空港のように広く、スーパーも日本よりも洗練されていて、何でも売っている。当然ここで買い物できる人は限られているのだろうが、モザンビークやマラウィではこのレベルの商業施設はちょっと考えられなかった。何よりきれいな格好をした黒人を見るのは、かなり久しぶりな気がした。同じバスでリロングウェから来たマラウィ人は、さぞビックリしたことだろう。

通りの車の交通量は多く、相変わらず中古の日本車が独占している。碁盤の目のような道路には広めの歩道というか緑地帯があり、大きめの敷地に壁で囲まれた低層の建物がポツンポツンと建っているのは、どこかアメリカの地方都市のようだ。ただ、歩いている人が少く、それなりの人口が住むにはどうも、人や建物の密度が低すぎる気がした。これで一国の首都の人口がくらしているのだろうか?いくらザンビアでも200万人くらいはいるだろう。


アフリカ南部は南にいくにつれて、発展してゆくと聞いたことがあるが、このあたりから変化がでてくるということなのかもしれない。この分だとボツワナ、ナミビアあたりはさらに発展していることだろう。南アフリカに関しては、以前会った旅人が「アフリカ縦断のご褒美のようなところ」というくらいだから、ほぼ先進国なのかもしれない。当然物価もあがっていくのだが。


2016/JUN/18 「リロングウェ」

ムランジェ山からは山小屋で会ったドイツ人とモザンビーク人が車でブランタイアまで送ってくれることになった。モザンビーク人の方も、ヨーロッパ系だが、モザンビーク生まれで、ムランジェからそう遠くない僻地で砂糖の生産をしているらしい。

アフリカの東部、南部は車で色々と回ったらしく、色々な情報をくれた。彼にアフリカの未来を聞くと、「アフリカは経済成長率こそスゴい数値だが、基本的には資源を売り飛ばしてるだけだ。なにかを作ることを学ばないので、資源が底をつけば終わりだ」と答えた。「よく、次はアフリカと言うが、正直そんなことはないと思うよ」と言った。ダイヤモンドや金が取れるが、ベルギーやロンドンで加工され数十倍の価値がついて、売られていく。大量の木材を中国へ輸出してるが、家具にするのは中国といった具合だ。それらの恩恵を受けられる限られた人たちは、最新の携帯電話や車を手に入れて、裕福になり、ふんぞり返っている。また、教育レベルが極端に低く、アフリカには本当の民主主義はないとも話した。何処かで聞いた話だと思ったらパプアニューギニアだった。中東のように発展できないのは、アフリカ人がバカなのか、石油ほどの利益がでないかのどちらか、もしくはその両方なのだろう。


その日は遅くに、ブランタイアの前に泊まっていた宿に戻り、翌朝のバスでリロングウェに向かった。


リロングウェはマラウィの首都なので、期待していたが、信じられないくらいショボい首都だった。町の中核はショッピングモールで、それもチェーンのスーパーやレストランが入っているだけで、特に驚きはなかった。町の中心を流れる川では、裸で体を洗ってる男たちや洗濯をする女たちが、手を振ってくる。バスターミナルがある川の東側は、汚いスーパーや商店が並び、青空市場では洋服を持った売り子が通路の両脇に立ち並んで迎えてくれた。安宿の集まるバスターミナル周辺は、地方からの物売りが集まるようで、早朝にはマラウィ湖でとれた小魚の乾物を売りに来た人でごった返した。

世界最貧国の一つとして、よく登場するマラウィの首都は、発展にはまだまだ長い歳月が必要そうだ。







2016/JUN/16 「マラウィで一番高い山」

昨夜は暖炉の火が消えると寒さで目が覚めて、それから寝ることは出来なかった。

夕飯の残りのお米をスープの中に入れて、暖炉で煮てから食べた。そらから山頂へ向かう用意をして、七時過ぎに小屋から出ると、ボンフェスが、「ちょっと待て」と芋をかじりながら話しかけてきた。ボンフェスも一緒に山頂へ行くと言い、しばらくすると準備をしてやって来た。と言っても手ぶらで、水さえ持ってない。大丈夫か?

ボンフェスは先を歩き始め、どんどん斜面を登ってゆく。目の前、右手に大きく見えるウエストピークの裏側を通って、一番高いサピトワピークを目指す。

ピークまでは殆どが岩で、途中から勾配はかなりキツくなってきた。ただし、岩肌がフリクションが効くので、トレッキングブーツがあればわりと簡単に登れる。しかし、中国製スニーカーのボンフェスはフリクションガまったく効かず、一歩一歩が真剣勝負だ。ここで転べば一気に小屋まで転がっていくことだろう。頼んでもないのに付いてきたボンフェスが落ちるのはやめてほしい。

ボンフェスは今朝から頭痛がすると言い、小屋を出る前に頭痛薬をあげて飲ませていた。頭痛は良くならないようで、休憩の数が増え、休む時間も延びてきた。そもそもポーターなんだから、小屋で待ってればと思ったが、危険だと思って心配して来てくれているので、こっちも彼のペースで登ることにした。

山頂が近づくと大きな岩が多くなり、岩の上を飛んで渡ったり、下をくぐったりした。最後の急な登りは、かなりの角度の岩にへばりついて登る必要があり、ボンフェスの靴が滑って登れないので下から尻を押して上げなければならなかった。

岩の隙間を抜けると目の前は開けて、少し進むと上に大きな岩でできた3002mの頂上が見えた。空には雲ひとつなく、濃いブルーの空が広がっていた。西側にはウエストピーク、ノースピークが見え、東側にはたくさんの頂が山脈のように広がっていた。もう高いところはない。360°パノラマだ。日差しは強いが冷たい風が心地よかった。マラウィ一高い山は思った以上に良いところだ。もう少し食料を持ってきて、4,5日かけて、向こうに広がる天空の大地を探索するのも悪くなかったなーと思った。













2016/JUN/15 「ポーター ボンフェス」

朝7時にポーターのボンフェスが宿にやって来た。登山口にある事務所で昨日登録をして、ポーターを一人雇ったのだ。ポーターは120ドルでガイドは25ドルだった。マラウィのポーターは皆英語が話せるので、ガイドと変わらない。実際、殆どの人は仕事がないので、ガイドでもポーターでもやる。違いはガイドだと荷物を持たないのと値段が少し高い。これではガイドを雇う人はいないだろう。

ボンフェスに背負ってもらうバックパックを見せると、え!こんなに背負うの?みたいな反応を示した。「大丈夫?」と聞くと「ノープロブレムだ」と言った。昨日、ルクブラ村に着くなり、たくさんの自称ガイドが寄ってきて、「俺を雇ってくれ」としつこかった。彼らは皆、子供で信頼がおけなかったが、管理事務所で紹介されたボンフェスはわりと歳を取っていてベテランらしく安心していた。

登山口へ歩いているときに「どれくらいの頻度で登ってるの?」と聞くと「良くて、月に1度」と答えた。それではとても食べてゆけないだろう。他の時は何をしてるか聞くと「家で野菜を育てたりしてる」と言うが、外に売るほど作ってるわけではなく、家族で食べて終わりだという。彼から見れば、この三日間で得られる60ドルは月に一度の貴重な現金収入だ。

緩い登り坂をボンフェスはかなり早く歩いて行く。やはりポーターは違うなーと思ったが、すこし進んで急な登りに入ると、やたらと座り込んで休憩を取るようになった。しかも、かなり辛そうだ。よく考えると、月に1度しか登ってないので、体力もあるわけない。ここの人たちが休みの時もトレーニングしてるとは思えない。ベテランっぽくて安心してしまったが、歳をいっているのが完全に裏目に出た。ボンフェスはその後もたびたび座りこみ、休憩の時間も長くなる一方だった。

長い長い登りを登りきると、開けた盆地に出た。盆地の回りには山が見える。ルクブラから1000mくらいは上がったはずだが、そこには緩やかな起伏の草原が広がり、そのなかを川が流れている。まさかあの大きな岩の上にこんな景色があるとは思わなかった。目の前にそびえる岩山はここから更に1000mくらいはありそうだ。丸みを帯びた岩が隆起して出来たようでカッコいい山だ。ボンフェスが「チャンベピークだ」と教えてくれた。

盆地の端を歩いて、東へ進む。緩やかな登りを越えると盆地を抜けた。そこからは一度沢に下り、そこから急登があり、更に緩い登りを歩き続けると大きな谷が見えた。

小屋はもう近くなのかと期待していたが、ボンフェスは目の前の大きなピークを指差して、「小屋はあのピークの裏側を下った所だ」と言った。全然まだまだだ。しかもかなりの登りだし。一気に疲れがでてきた。それでも横で座り込んでいるボンフェスの方がまだ疲れているが。

そうはいっても、歩かなければ着かないので、とにかく歩く。ピークの横を大きくまいて歩いていると、後ろにはチャンベピークと盆地が、空の上に浮いている大地のように見えた。不思議な地形だ。峠を越えてすこし下ると、今夜の山小屋チセポハットが見えた。


小屋には管理人が2人いて、彼らが薪を篭に入れて持って来てくれた。部屋の中には暖炉があり、そこで薪を焚いて調理すればよいようだ。マットレスが壁際に積み重ねて入り、適当に使えと言われた。水は近くの小川から取ってきたものが部屋に溜めてあった。思ってたより快適な山小屋だ。今日は早めに寝て、明日のピークハントに備えよう。

















2015/JUN/13 「ムランジェ山」

まったく見所がなく、しかも宿が高いブランタイアで二泊してから、ムランジェ山を目指して移動を開始した。ブランタイアの町から六キロの所にリンベという本当にどうしょうもない町があり、ツインシティのようにな形を作っていた。全ての西方面、北方面からのバスは、なぜかまずリンベに着き、そこでブランタイア行きのミニバンに乗り換える必要があった。

大きな荷物をもってのミニバンの移動は荷物をいれる場所で揉めたり、追加料金を取られたりと面倒くさいので、このリンベでの乗り換えは本当に迷惑だった。

リンベに着くと近くにモザンビーク国境行きのミニバンが待っていて、運ちゃんがバックパックを担いで運んでくれた。すでにかなり人が集まってるので、そんなに待たなくても出発しそうだ。しかも、このバスの乗客はモザンビークへ行くので、余っていたモザンビーククワチャをとても良いレートで両替してくれた。

ミニバスはそれから一時間くらいで出発して、ムランジェ山の登山口、ルクブラ村へ向かう道の分岐で下ろしてもらった。ここにはツーリストインフォメーションがあり、登山の情報が手にはいるはずだ。分岐の町のすぐ裏には大きな一枚岩のような山がそびえていた。ムランジェ山だ。あたりは平野なのに、突如大きな岩か置かれたような不思議な山だ。

ツーリストインフォメーションは予想外にピザ屋の二階にあり、小さな部屋にムランジェ山の模型や資料が置いてあった。唯一のスタッフの女性に、ルート、山小屋、必要装備、ガイドの事を聞くと、「ガイドかポーターを雇う必要があり、一人では登ってはならないルールだ」という。ガイドは125ドル、ポーターは20ドル。山小屋にはマットレス、暖炉があり、山小屋の管理人が薪をくれるらしい。食べ物は提供出来ないので自分で食料を持っていき、暖炉の火で調理をすればいいという。調理器具は持ってなかったが、お金を払って小屋の調理器具を借りることにした。

この先はスーパーもないので、ここで食料を買う必要があると聞き、荷物を置かせてもらい、3日分の食料を買いに市場やスーパーを回った。といっても、ここには小さな露店の並ぶ通りと、スーパーとは名ばかりの品揃えの店しかなく食材はかなり限られた。

気がつくと、すでに日が沈みくらくなり始めていた。買い込んだ食材を持って、インフォメーションに戻ると、スタッフは「もう遅いのでルクブラ行きのミニバンはないだろう」と言い、近くの宿をおしえてくれた。なにもないところだが、宿は安くて助かった。明日は早めにルクブラへ移動しよう。




2016/JUN/10 「ケープマクレア」

それほど良くもないケープマクレアには3泊した。宿にはキッチンがあったので、自炊して出費はかなり押さえられた。テントも11500クワチャ(200円くらい)ととても良心的だった。

ケープマクレアは岬の先の方のホテルは値段が高いようで、そっちまで歩いて行くと、洗濯をしてるオバちゃんたちはいなくなり、ビーチも水も綺麗だった。ビーチ沿いを歩いて、各ホテルの前を通ると客の入り具合が見てとれた。どのホテルも殆ど客がいなく、安宿エリアでは、今泊まっているマランベキャンプとロンプラに載っているファットモンキーに集中していた。

殆どのアフリカの湖には住血吸虫という虫がいて、皮膚の表面から体に侵入してくるという。なので、これまでも湖では一切泳いでいなかった。このマラウィ湖も例に漏れず、この厄介な虫がいるらしい。ただ、ホテルのスタッフや現地人に聞くと「それは大昔の話だ」とか「そういうエリアがあるがここは大丈夫」と言う。白人たちは普通に泳いでいる。

まー、大丈夫なのかなと、高いホテルのエリアのビーチで泳いでみることにした。回りは誰も泳いでいないので、リッチな気分だ。この辺のホテルに泊まれば、きっと静かでいいんだろうなーと思いながら、閑散としたホテルの前で一人泳いだ。水は外から見るより透明ではないが綺麗だ。ただ、水が冷たいので上がった時に体が冷える。海とは違い標高があるので、日差しが強いときでないと泳げない感じだ。

ここでは毎日夕日が綺麗に見えた。宿の前は洗濯や行水で夕方まで騒がしかったが、日が沈むと静かになっていき、今度は近所のバーから流れる音楽にとって変わった。














2016/JUN/8 「モンキーベイとケープマクレア」

リコマ島からモンキーベイまではフェリーで24時間ほどかかった。このフェリーの揺れは半端なく、一睡も出来ないどころか、10回くらいデッキから湖へ吐いた。水しぶきが降りかかる、大揺れの甲板での嘔吐は湖に投げ出されそうで超危険だった。リコマ島へ行くならカタベイから往復した方がいいだろう。

夜の10時過ぎにモンキーベイのフェリー乗り場に降り立ち、待っていた客引きに連れられて、同じフェリーに乗っていたイタリア人のチャリダーとムファサ ラスティック キャンプという宿に向かった。

道中、全く灯りがなく、こんなときは客引きがいてくれて助かった。客引き達にはいつも冷たい対応をしてしまっているので少し申し訳なく思った。

ロッジに着くとオーナーらしきドイツ人女性が出てきて、「テントなら3000クワチャだ」と説明した。テントでこの値段はかなり強気だ。ラスティックキャンプという名前と値段がまったく一致していない。ロンプラには1500とあったが、この二年くらいで倍に跳ね上がったということだ。イタリア人のチャリダーと目を丸くしてると、そのドイツ人オーナーは「今夜は2000でいいわよ」と値下げしてくれた。

その夜はビーチのそばの適当な場所にテントを張って、お湯を貰って、紅茶を作ってから寝袋に入った。


翌朝起きると、このロッジが小さな入り江にあり、目の前がプライベートビーチのようになっていることに気がついた。周りには何もなく静がで良いところだ。庭には砂の上に椅子やハンモックがあり、居心地が良さそうだ。ロンプラを見ると、この宿の紹介にも「プライベートビーチのような入江にあり、雰囲気がよい」とあった。ただし、最後に「ビーチ沿いにはワニが出没するので気を付けろ」とあった。どうやら昨夜は現れなかったようだ。

キッチンへ行き、お湯を貰ってコーヒーを作り、持っていたパンとジャムで朝食にした。朝食メニューがあったが、外国人オーナーの宿なので、どれも高かった。環境が良い場所なので何泊かしようかとも思ったが、町から遠くて飯も高いので止めておいた。

町でケープマクレア行きのバスを探したが、早朝と夕方しかないというので、バイクタクシーで行くことにした。ケープマクレアはマラウィ湖で一番綺麗なビーチと言われている場所だ。モンキーベイで食料も調達したので少しゆっくりしよう。

バイクタクシーの運ちゃんが一番安いというマランベ キャンプという宿に連れていってもらった。ケープマクレアは半島状の北側に長いビーチがあり、ビーチ沿いに宿がひしめき合っていた。小さな宿が多く、宿の外壁の向こうはすぐに別の宿といった感じで二キロくらい続いている。あまり好きではないパターンだ。

マランベキャンプもそれらの宿の一つだが、目の前のビーチには地元民が洗濯や食器洗いにせいを出していて、ちょっと泳ぐ気にはならなかった。それほど広くない敷地に簡素な小屋が詰め込まれているようで、ムファサに比べると圧迫感がありイマイチだった。それでもかなり、欧米人の客が泊まっていて、若い女の子が敷地内の狭い砂地で頑張って身体を焼いていた。欧米人は本当に日に焼くのが好きだ。肌の弱い白人が頑張って焼くので、歳を取るとみんな染みだらけだ。なぜそんなに焼きたいのだろう。敷地の外は客引きが煩くてゆっくり寝ることは出来ないのだろうが、ここもそんなに開放的ではない。







2016/JUN/6 「マティアス」

リコマ島に到着したときからずっとついてきた怪しげなおじさんマティアスは、毎日宿にやって来た。彼は朝に宿にやって来ては「今日はどこに行くんだ?村を案内してやる」など、話を始め「じゃー、午後一時に迎えに来る」と勝手に話しては帰っていき、本当に午後やってくる。

昨日はマティアスの親戚巡りをして、今日は親戚巡りの続きをすることになった。何がしたいのか分からないので、取り合えず彼のやろうと言うことに従うことにしていたが、親戚巡りといっても、宿からイミグレの間の集落は殆どマティアスの親戚だ。総勢200300人くらいはいる。少し離れた所にも幾つか親戚の家があったり、とにかく多い。まー島の暮らしは親戚同士が近くに家を建てて、助け合い、それ自体が村のようになって、息子の代、孫の代とどんどん大きくなっていくのだろう。そして今ではここら一帯がマティアス村になったわけだ。

今朝、マティアスが宿に来ると「今日は昼飯を家で食おう」と言って、ポリバケツに入った大量の小さな魚を見せてきた。浜辺でたくさん干してるやつだ。この煮干しほどの大きさの魚がこの島唯一の現金調達元で、干した物をマラウィ内の都市に売っている。もっと大きな魚を捕れば良いのにと思うが、大きな魚は網に偶然かかったものを島民に売る程度らしい。実際、村には魚市場らしきものもない。島から他の都市に生魚を売りに行くのはかなり大変なので、保存のきく干し魚の方が輸送や販売が楽なのだろう。

12
時半にマティアスは宿に迎えにやって来た。それから浜辺を歩いて彼の集落へ向かい、彼の家ではなく、他の親戚の家に入った。中には比較的綺麗なテーブルセットがあり、子供達が三人と大人の女性がいた。席に着いて、桶で手を洗うと、奥から大量のシーマと干し魚を煮たものが入った小さな鍋が出てきた。干し魚には微かにトマトが入っているが、あとは一切野菜はない。たったこれだけのオカズでこの量のシーマを食べるのは、ペース配分に高度な戦略が必要だ。やはり、現地人の暮らしはかなり質素なのだ。コップに冷えた水をいれてくれた。湖の水だろうなと思ったが、「よし、飲もう!」と勢い付けてから笑顔で一気にいただいた。

ご飯が終わると今日もマティアスの親戚巡りの続きになり、最後には工事中の彼の家に行って、奥さんにも会った。「そろそろ宿に帰るよ」と言うと、「フェリーが出る時間に見送りにいく」と言った。「いや、フェリーは何時になるか分からないからいいよ」と断ったが、行くといって聞かなかった。

夜の8時とか9時とか聞く人によって前後するフェリーの時間は、実際には11時だった。マティアスは本当に見送りに来た。フェリーは大きいので浜辺には着岸できないので、小舟を寄越して、浜辺から乗客を順番でフェリーに運ぶ。これを真っ暗闇のなか行うので、何処か密航のようだ。小舟にはすぐに現地人が殺到し、なかなか乗れない。マティアスが荷物を担いで「こっちだ!」と走り出した。暗闇で見えないが小舟が向こうに着いたようだ。アフリカ人の目は暗闇でも動物並みに機能する。ところが小舟に乗り込もうとすると船はどんどん進んで、マティアスのみを乗せて闇に消えていった。周りの人達が「すぐに来るから待て」と言うので、しばし待機。次に小舟が浜辺に来た瞬間に飛び乗った。小舟がフェリーに横付けされて、階段を上がるとマティアスはなぜか手錠をかけられていた。多分泥棒の疑いをかけられたのか、駆けつけると無事に解放された。荷物を運んでくれたのに泥棒に間違われてしまったマティアスはあまりにも不幸だが、マティアスは笑顔で小舟で浜辺に戻って行った。かなり疑ってしまったが、本当にいいヤツだった。マティアス、ありがとう。
















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