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2016/DEC/20 「バンギからガロアブライ」

昨日カメルーンビザが貰えなかったので、今日は朝イチに大使館に行ってみることにした。セオドー兄に聞くと、トラックは10時くらいに出発するというから、朝イチにビザが貰えればまだ間に合うはずだ。

宿からバイタクに乗り、8時半に大使館に着いた。例の無愛想な受付に聞くと、「座って待て」とだけ言葉を発した。すぐもらえるのか聞きたいところだが、このおばさんはすぐに発狂する癖があるので、大人しく椅子に座って待つことにした。昨日話をしたスタッフも部屋から出てきて、こちらに気がつくと挨拶をしてきた。握手をして「昨日はよく寝れたか?」と聞いてきた。こいつは相変わらずいいやつだ。他のスタッフも皆いいやつで、あのおばさんだけが異様に態度が悪い。まるで飴と鞭のようだ。ひょっとしたらこの大使館はそういう方針なのかも知れない。

9時を15分ほど過ぎたときに受付のおばさんから呼ばれた。受け取りのサインをしろと言われ、サインし終わるとパスポートが返ってきた。やった!思ったより早くもらえた。20日しか貰えなかったが、ダブルエントリーだ。これで仮にチャドからニジェールに抜けられなくても、またカメルーンに戻ってくることも出来る。

急いで大使館を出て、バイタクを捕まえ、宿へ引き返した。これならトラックに間に合うかもしれない。宿で荷物をピックアップして、歩いてONAFへ。

すると途中で4台ほどのトラックが止まっていて、人が群がっているのが見えた。近づいていくと、セオドー兄がいた。ラッキーだ。来るときに乗せてもらったセオドーはコンゴへ行くので、返りはセオドー兄に乗せてもらおうと思っていたところだ。

ところが、セオドー兄は既に客を捕まえていて、席は埋まっていた。セオドー兄は少し待ってろといい、他のドライバーに話をして、何とか他のトラックに乗れることになった。そのトラックには英語が話せる人間はいなかったが、贅沢は言ってられない。しかも、すぐに出発だと言うので、セオドー兄にお礼を言って、トラックに乗り込んだ。

今回のトラックは、若いドライバーとオッサンのアシスタントというコンビで、車内にはその他にカメルーン人の男と中央アフリカ人の男を乗せていた。中央アフリカの男以外は皆モスリムだ。

ドライバーが熱心なモスリムの場合、お祈りの時間にはトラックを止めて地面でお祈りをする。キャンプ地に着いてもビールを飲まないし、バカ騒ぎもしないので静かな旅になる。さらにこのドライバーは皆にビスケットやコーラを振る舞った。このバカ高い輸入コーラを11本買ってくれたのには本当に驚いた。ムスリムはたまにこういう人がいる。イスラム教の教えに喜捨という教えがあるからだろう。

バンギからガロアブライへのトラックは来たときと違い、空っぽのコンテナを運ぶトラックが目立った。そしてそのコンテナの扉を開けて、コンテナに現地人を乗せて走る。一見荷物の上に乗るよりもマシに見えるが、砂ぼこりが酷く環境は劣悪だ。なによりコンテナの床は堅くてシンドイし、どんな道か前が見えないので、急に揺れたりと危険極まりない。

行きも帰りも現地人の旅は困難を極める。彼らから見たら他のアフリカの国のどんなに酷い乗り物でも心地よく感じることだろう。

















2016/DEC/19 「Gran Turista」

バンギでの週末があけた。今日はなんとかカメルーンのビザを取らなければならない。バンギからカメルーン国境までの国連治安維持軍の護衛隊は火曜と土曜にしか出てないので、火曜の護衛隊と移動するトラックに乗るには今日ビザが必要だ。

朝9時に大使館に到着。念のために靴と長ズボンをはいてきた。アフリカではたまに短パンやサンダルでは入れてくれない大使館があるので、大使館には常に長ズボンと靴をはいていくことにしている。アフリカの大使館のスタッフには二通りの人間がいる。一つは外国人にとてもフレンドリーでようこそ!という感じの人で、もう一つは外国人は黒人を見下していると思い込んでる人。後者は本当に厄介で、被害妄想の塊だ。中部アフリカではさらにフランス語という言葉の壁が存在する。

早速中に入って、受付でビザが欲しいと告げる。受付には太ったおばさんがどっしりと座っていて、唇以外は殆ど動きが見られない。このおばさんはまさに先に述べた後者で、なおかつ英語が一切喋れない。英語の話せない大使館のスタッフに英語で話すとかなり嫌な顔をされるのが普通だが、このおばさんは嫌な顔というより、完全無視を決め込もうとした。

片言のフランス語でカメルーンに行きたいと告げてパスポートを渡すと、何やら中央アフリカのビザに問題があるようなことを言い出した。彼女はフランス語しか話さないので、詳細はわからないが、ビザをよく見ると、発行日が1212日。そして期限の欄には2週間と書かれた後にカッコがあり、その中に1213日と書かれていた。これをこの太ったおばさんは1213日までだと解釈して、このビザは切れていると言った。なんで2週間と書かれた1212日発行のビザが1213日に切れるのか意味がわからない。1213日から2週間と解釈するのが普通だと思うが、おばさんはまったく人の話を聞かずに、中央アフリカビザが切れているので、カメルーンビザの申請はできないと言い出した。ここまでおばさんはまったく笑顔を見せることはなく、唇以外は一切動かしていない。

他の人と話がしたいと頼むと、外のベンチで待てと言われ、外で待つことにした。30分ほどしておばさんは隣の部屋へ通してくれ、そこには一人の男が座っていた。おばさんは男にフランス語で成り行きを説明をして、男もウンウンいって、これは問題だなーみたいな雰囲気になった。男は何か質問をしてきたが、フランス語で分からなかった。男は忙しいようで、じゃーこれでと言って部屋から出ていってしまった。おばさんも自分の部屋へと帰っていき、あとは完全放置。

おばさんに再度、ビザは取れないの?と言うと、キレて何やらフランス語で怒鳴って部屋から追い出されてしまった。

何故こんな対応を受けなければならないのか全くわからない。少し考えれば、ビザは取った日から2週間で問題はないはずなのに、なんでこんなひねくれた解釈になるのか、こんな酷い態度を取るのが理解に苦しむ。

だが、そうも言ってられないので、上司らしき男が戻るのを部屋の外で待ち、帰ってきたときにもう一度話ができるか聞いてみた。男はじつは英語がわりとできるようで、英語で返事を返した。ここが唯一の突破口にちがいないと思えた。

付近におばさんがいないことを確認してから、男に中央アフリカビザは1212日に取って、2週間と書いてあるのだから、13日で切れるわけがないこと、このビザで13日に入国し、15日にもバンギに入るときにチェックがあり、スタンプを貰っているので、このビザには問題が無いことを説明すると、確かにビザは問題がないかもしれないとグッとこっちに引き寄せることができた。

それから今後の旅程を説明し、チャドビザを取るためにカメルーンに戻る必要があること、そのためのインビテーションレターを持っていること、そのあとはニジェールに抜けられれば抜けるが、危険なら再度カメルーンに戻り、ナイジェリアに抜けることを説明した。男はとても理解があり、「分かった。大使に聞いてみる」と答えた。その時、部屋の扉が開き、さっきのおばさんが書類を持って入ってきた。男はおばさんにも成り行きを説明すると、おばさんは声を張り上げて何かを主張しはじめた。明らかにこちらに不利な主張だろう。男はおばさんをなだめ、おばさんを連れて部屋を出ていった。因みにこのおばさんはこの男の秘書だった。

しばらくして男は戻ってくると、「ビザは出せる。ダブルエントリーも問題ないが、20日間しか出せない」と言った。そして本当は二日後だが、明日の国連治安維持軍の出発に合わせるために今日の午後3時に受け取れると言った。しかも値段は1ヶ月のシングルエントリーと同じだ。これは100点満点とはいかないまでも、かなりいい妥協点だと思った。別室で50,000CFA10,000円)払って男にお礼を述べてから、大使館を後にした。
昼飯を食い、時間を潰して3時に大使館に戻ると建物の中ではすでにたくさんの人が待っていた。中国人も5人くらいいた。やはり、こんな内線状態でも中国人は進出してくる。人が危ないと思う場所は、特定の人にはチャンスと写るから不思議だ。

太ったおばさんにビザを取りに来たと言うと、おばさんは明日の午後に来いと言った。「え!今日貰えないと明日のトラックに乗れないし、トラックにも話をつけてあるんだけど?」と言うと、またキレだしてフランス語で何かを叫びだした。そして部屋の扉を閉じようとする。他の部屋から別のスタッフが出てきたので、なんでビザを貰えないか聞くと、今日は大使が早めに帰ってしまって、ビザにサインができないという。このあとあのおばさんがパスポートをもってサインを貰いに行くと説明してくれた。

おばさんの部屋に行き、明日の朝イチに来るので受け取れるか聞くと、おばさんは完全無視で、それでも話し続けると「出ていけ!!」と怒鳴りだした。しかもそのまま、大使館の外まで追い出された。こんなことをする大使館のスタッフは初めてだ。あのナイジェリア大使館の狂犬を思い出す。彼女も受付で、外国人に対して強いコンプレックスを持っていて、何かを頼むたびに怒り狂った。

カメルーン人は比較的話の分かる人間が多かったが、まさかこんな人がいようとは思いもよらなかった。カメルーンにも狂犬はいるのだ。明日の出発を逃すとこの紛争中の中央アフリカでクリスマスを迎えることになる。リアル戦場のメリークリスマスだ。

宿に戻るとセオドーがビールを飲んでいた。ビザを取れなかったことを伝え、セオドーに明日カメルーンに出発するのかと聞くと、「いや、コンゴへ行く」と答えた。「え!川の向こう?この前は火曜にカメルーンに帰るって言ってたよね。」というと「そうだ。my journey will continue」と少し真剣な眼差しで答えた。きっと今後へ荷物を運ぶ依頼があったのだろう。運転手たちはここからドゥアラまで手ぶらでは帰れないので仕事を見つけなくてはならない。彼は運悪くここからドゥアラまでの仕事ではなく、コンゴへの仕事を見つけてしまったのだろう。ドゥアラからここまで荷物を運び、ここからコンゴへ新たな荷物を運ぶ。その先は何処へ行くのだろう。どうやってドゥアラに帰るのか検討もつかない。彼らは仕事の有る限り何処までも行くのだろう。ドゥアラからバンギに来て、そこからコンゴ民主へいくなど並大抵の旅人ではない。これまでの旅のなかで多くの偉大な旅人に会ったが、彼もまたGranTuristaのひとりだ。






2016/DEC/17 「難民の叔父アナトレ」

中央アフリカはまだ内戦が終わってない混乱の国だ。バンギは国連治安維持軍がいて、戦闘が起こることは無さそうたが、北部や東部ではセレカと呼ばれる反政府組織連合がまだ暗躍中だ。外務省の海外渡航安全情報ではシリアやアフガニスタンと同じく、国中で待避勧告がでていて真っ赤だ。日本大使館もなく、JICAも来ていない。

この国で内戦が始まってから百万人近くもの難民が隣国に避難して暮らしている。この国で誰かに会うなど期待もしていなかったが、ヤウンデでマリオンの家にお世話になっているときに、演劇のイベントで中央アフリカからの難民のピコと知り合った。彼は中央アフリカ北部で暮らしていたが、ある日ゲリラが村にやって来て、ゲリラへの参加を強要されたので、難民としてカメルーンに逃れた。

ピコはバンギに行くなら、叔父さんがいるから連絡したらいいと、連絡先を教えてくれていた。バンギの町は特に見所もなく、2日も歩けば、することが無くなったので、叔父さんに連絡を取ってみた。

バンギにはインターネットの使える場所が殆どなく高級なホテルやカフェに限られていた。町の中心のレバノン人経営のGrand Cafeは立地もよく、wifiが使え重宝していた。ここにはUNNGOで働く白人が食べに来ていて、いかにも外国人用という感じだった。高いので、いつもアイスだけ頼んでwifiを使っていたが、ここのwifiはセキュリティが無いので、店の外でも使える。しかし、バンギは通りで携帯をいじっていると、強盗に持っていかれるし、なんかひもじいので、いつも中で注文して、椅子に座ってwifiを使うことにしていた。

バンギは軍隊がしょっちゅう巡回しているので、戦闘などはないが、実際にはスリや強盗は酷い。人もこの内戦のせいで、まともな仕事もなく、一般犯罪の統計など無いだろうが、隙あらば誰もが窃盗犯になる。しかも外国人が道を歩いていることはまず無いので、町を歩いているとどうしても目立つ。UNNGOの人間は車でしか移動しない。

町を歩いていれば、しょっちゅう何か買ってくれだとか、金をくれだとか言われし、人もけしてフレンドリーではない。どこか、金を持った奴が歩いてるという目で見られている感じがする。これだけで人が悪いとは言えないし、どんな国でも良い人間もいれば、悪い人間もいるのだが、バンギに限って言えば、雰囲気がよいとはとても言えない。

電話をするとピコの叔父さんのアナトレは、わざわざGrand Cafeに迎えに来てくれた。アナトレが乗ってきたタクシーに乗り込み、彼の家まで向かった。アナトレの家はバンギの中心から12キロほど離れていて、村っぽかったが、アナトレはここもバンギ市内だと言った。タクシーのお金を払おうとするとアナトレが払うといい、払ってくれた。この時は、まー迎えに来たのだからタクシー代は彼が払ってもいいだろうと思ったが、後から彼の家や、生活を見るとこっちが払うべきだったと後悔した。

アナトレの家は小さな平屋で塀に囲まれていて、手前に小さな庭があった。トイレ、シャワーはなく、隣の家の庭のトイレを使わせてもらっていた。アナトレの甥っ子が7人くらいいて、奥さんや彼の娘も一緒に暮らしていた。この辺りの家を見る限り、この辺では現金収入は無さそうだ。キャッサバや現地で取れるバナナなどを食べていればそれほどお金はかからないかも知れないが、現金収入がないというのは、さっきのタクシー代はこの家では大変な出費と言うことになる。

アナトレは家族を紹介したあと、奥さんにコーヒーをいれるように頼んだ。心配していたがアナトレは英語が話せて、中央アフリカの暮らしを色々教えてくれた。ピコがカメルーンに亡命した理由もこの時ははじめて聞いた。

アナトレは肉や魚はかなり高価だと言った。そして子供達は学校には行ってないという。この国では無償の学校は機能を失い、有料の学校へ通うには金がかかるので、なかなか通えないという。内戦の悪いところの一つは、内戦の間、教育を受けない子供達が生まれてしまうことだ。この子供達は内戦が終わったときに教育を受けていないため、 仕事につくこともできないし、そのあとに教育を受けた人たちに負けてしまう。

アナトレは、パスター(キリスト教の宣教師)をしている。元々キリスト教ではなかったが、ある日、神の声を聞いたらしい。でも、どちらかというと経済的な理由からだと思う。きっとパスターをしていれば、教会からは少しはお金が出るのだろう。もちろん誰でもなれるわけではないだろうし。

アナトレは夕食を用意してくれ、二人でつついて食べた。トマトとオクラを煮込んだソースに小さな牛肉の塊が3つほど入っていた。きっとこの家ではかなり奮発した料理だ。アフリカ人は見知らぬ人には、かなり警戒心があるが、知っている人間には異常なくらいよく振る舞う習性がある。このアナトレも甥っ子の知り合いということで、目一杯の接待をしてくれているに違いない。

アナトレの家から帰るときには、既に真っ暗になっていた。アナトレの家には電気が来ていたが、電気を引いてない家が多いのと、街灯は無いので大通りまでは真っ暗闇の中、村の中をアナトレに付き添われて歩いた。ここは井戸もなく、水は買わなければならないという。厳しい暮らしだ。この国が発展するにはかなり時間が必要だろう。







2016/DEC/16 「リアル戦場のメリークリスマス」

今日は朝からチャド大使館へビザを取りに行った。そしてまさかのチャド大使館閉鎖を知らされた。ここでチャドビザを取ってから北上してチャドに入ろうと思っていたので、完全に計画が狂った。警備の男がフランス大使館へ行けと言うので、話をしに行ったが、「空路であればなんとかなるが、陸路では1度カメルーンに戻るしかない」と言われた。そこでカメルーン大使館へビザの申請に行ったが、大使が忙しいので今日は受付をしてないと、全く理不尽な受付拒否にあい、月曜朝に申請するしかなくなった。このバンギで一体何にそんなに忙しいのか和からない。

問題は、通常カメルーンビザは申請から2日後に受取りで、月曜申請では水曜の受け取りになり、次のUNの護衛隊付きのトラックが出る火曜には間に合わない。その次は土曜まで待たなければならない。この何もなさそうなバンギの町であと1週間以上も滞在しなければならないし、折角取得したチャドビザ用のインビテーションレターのチャドの入国予定日を過ぎてしまうことになる。

このままビザで手こずれば、クリスマスも中央アフリカで過ごすことになりかねない。そうしたらリアル戦場のメリークリスマスになってしまう。中央アフリカのクリスマスは映画に負けないくらいシュールなクリスマスになるだろう。

バンギの町は電気が限られたエリアにしかなく、夜は殆ど真っ暗で、到着したときは驚いた。こんなに真っ暗な首都は見たことがない。町の中心は中央アフリカの軍隊、警察と国連治安維持軍のトラックが常に行き来している。荷台にライフルを持った兵士を乗せたトラックは他の国でも見るが、ここではグレネードランチャーを持った兵士を乗せた車両もあるし、マシンガンを装備されたタンクも通ったりと、かなり本格的な装備を見ることができる。それだけここでは戦闘が起こり得るということなのかもしれない。この国の内戦がまだ収束していないということを肌で感じることができる。

国連治安維持軍はバングラディッシュだけでなく、エジプト、インドネシア、ネパール、モーリタニア、カメルーン、ニジェール、フランスとかなり多国籍だ。西アフリカなどのフランス語圏の国は分かるが、アジアの国は、何故来てしまったんだろうという雰囲気がある。言葉も通じないのに。

国連治安維持軍ということは国連の活動の一環なので、兵士を送ればお金が出るのだろうか?先進国も後進国もきっと同じ額が支払われるはずだ。治安維持軍に発展途上国からの参加が多いのもそれだと納得がいく。

町の中心はウバンギ川沿いにあり、川の向こうにコンゴ民主共和国のゾンゴという町がうかがえる。この川は下流でキサンガニから流れてきたコンゴ川とぶつかり、キンシャサ、ブラザビルの間を流れて大西洋に注ぐ。こっから貨物船に乗れば1週間でブラザビルまで行くことも可能だ。

港の入口近くに町の中心とも言えるランダーバートがあり、中央市場や大統領邸、各大使館、国連関連団体の事務所が集まっている。この辺りにはスーパーやカフェがあり、その殆どはレバノン人や中国人オーナーだ。現地人は路上でフルーツや野菜、中国製のおもちゃを売っている。野菜に混じって国連の配給品も横流しされ売られていたりもする。通りにはビニール袋に入れた水を売る男がたくさんいて、これらは明らかに自分達で水をつめたもので、どこの水を使ってるのか分からないので危険だ。

食べ物の屋台もカメルーンに比べるとかなり貧相だ。屋台の数は少ないし、揚げた魚の切身、ンデレ、煮豆にマニョークかフランスパン等の主食。サンドイッチの屋台もあるが、マヨネーズと野菜の切りカスがフランスパンの間に塗られてるだけだ。コーヒーは大きな鍋で煮たものをプラスチックのコップにすくって飲む。50CFA10円)と安い。テイクアウェイ出来ないがネスカフェでないのが良い。アフリカでネスカフェを飲む度に、何故コーヒーの産地の多いアフリカでネスカフェを飲まないといけないんだと考えさせられる。
スーパーで売られている物は全てカメルーンからの輸入で、この国で作られた物はMOCAFというビールくらいのものだ。輸入品は値段もカメルーンの3倍近くするので、現地人はまず買うことが出来ない。こんなに現金収入に困ってる国で、スーパーは隣国カメルーンの3倍の値段とは、実におかしなことになっている。

同じような事が起きていた国があったなーと思ったら東ティモールだった。あそこも独立戦争が終わり、独立したてで、製造業がなく、殆どの物を輸入してるので、べらぼうに高かった。これらは独立直後わんさかやって来たUNNGOのためのもので、現地人にはとうてい手がでない。こういうのを見ると現地人がかわいそうになる。

アフリカで途上国支援をたくさん見てきたが、何故製造業の支援をしてあげないのか分からない。旧フランス植民地ではいまだに多くの物がフランスから輸入されている。バカ高いフランス製品を買うより、自国で作れるようにすれば済むはずだし、貿易赤字を減らし、雇用を生むのだからいいことずくめのはずだ。当然アフリカの国がいきなり始められないので、そこは先進国が手伝ってあげたらいいのだが、色々な利権が絡みそういったことはまず起きない。支援とは言うものの自国の産業を脅かすようなことには手を貸さない。先進国の正義はどこかねじ曲げられている。




















2016/DEC/15 「初めての観光客」

移動2日目はボセンプテレという村まで進み、また全てのトラックを集めて国連治安維持軍の警備の中、一泊した。このキャンプは村とは少し離れていて、隣にUNのキャンプがあるだけで、街道沿いには相変わらずトラック相手の露天が並んでいた。この露天はこのトラックキャンプがなければ存在しないものだろう。

3日目の今日は300kmの移動だ。出発からは穴のあいた舗装路が続いた。順調に進んでいたが、前にいくトラック達がつかえはじめ、そしてついに完全に停まってしまい、道にはドライバーや乗客が降りて歩いている。ドライバーのセオドーは「前方のトラックが事故を起こした」と言った。

降りて見に行くと先頭で20mはあるトレーラーが横転していた。スゴい人だかりだ。そこから後ろには100台近くのトラックが縦列している。横転したトラックの窓ガラスは完全に割れて無くなっている。死んだ人がいるのではと心配になったが、死人は出なかったらしい。男たちは荷台の荷物を運び出している。そして一台のトラックが事故の前に出て、ロープでトレーラーを動かそうと引っ張った。トレーラーは引きずられるように少し動いたが、まだ道を塞いでいる。今度は男達がトレーラーを転がそうと押し始めた。さすがに無理がある。ロープの位置を変え、再度トラックで引っ張るとトレーラーはひっくり返り、元に戻った。ただし、そのまま側溝に引きずられるように落ちていってしまった。これではこのトレーラーはもうダメだろう。

だが、これで道路は開けたので皆一斉にトラックに戻って、事故の現場をすり抜けて走り始めた。これだけの大事故でも警察にすら連絡しないのはスゴい。

それから二時間くらい走るとトラック達はまた縦列に停まり、前から警察がトラックに乗っている人のチェックをし始めた。ここはもうバンギの郊外らしかった。ポリスは外国人のバスポートを集めて行ってしまった。パスポートを持っていかれたのはかなり不安になったが、セオドーもパスポートを渡していたので、きっと戻ってくるのだろう。

それから全ての人がトラックから降りて、ゲートをくぐった。ドライバー達は少ししてからトラックを大きな駐車場のような場所に集めて止めた。そこで荷台にのっていた現地人の殆どが降りた。ここからバンギまでは20キロ以上もあるのでこの人たちはこの辺りの村に住んでいるのだろうか。

ドライバーのセオドーと一緒に警察の詰め所へパスポートを取りに行くと、全く英語の話さないおばさんが、「3000フラン」と言った。回りにはカメルーン人がたくさんいて、皆お金と引き換えにパスポートを返してもらッている。どうやらここでもパスポートにスタンプを押すようだ。アフリカでは隣国民はパスポートなしで入国できる代わりにワイロを払うのが普通で、今までにもそういった検問でお金を払っているのを何度も見てきた。だが、ことあるごとに色々な言い訳をしてワイロを逃れてこれた。

しかし、カメルーン人の通訳を介して、説明をしてもいっさい譲らない。ボスらしき男を捕まえて、さんざん説得を試みるが、やはり払えの一点張りだ。終いにはカメルーン人のドライバー達が「俺たちも払ってるんだから、お前も払え」と言い出し、セオドーは「早くしないとバンギに着けなくなるから払え」と言ってきた。もう115くらいの話し合いになってしまった。ここからバンギ市内まではまだ20キロ以上もあるので、ここでトラックを降りるわけにもいかないので、渋々払った。トラックへ戻るときに回りのドライバー達は、「ここではこれが当たり前なんだ」と慰めてきたが、こういう奴等がいるから警察もワイロを請求するんだ。誰も払わなければ彼らも請求しなくなる。後から思うとアフリカ1周を通して賄賂を払ったのはこれが最初で最後だった。

再びトラックは走り始め、30分くらいでバンギの町に入った。薄暗くなり始めていたが、通りには人が溢れている。道の両側は掘っ立て小屋か建ち並び、地面で物を売る人で歩道は埋まっている。ガール ルーティエという看板のある敷地内に入ってとまった。他のトラックも全てここに来るようだ。ガール ルーティエとはフランス語でバスターミナルの意味だが、内戦でバスの走らなくなった中央アフリカではトラックの駐車場として使われていて、現地人はONAFと呼んでいた。

セオドーは「何処に泊まるんだ?」と聞いてきて、「決めてない」と言うと、「ドライバー達が泊まる宿があるから、今夜はそこに泊まったらいい」と言った。トラックのアシスタントはここでも、トラックの横で寝泊まりするらしい。カメルーンの運送業ではアシスタントとドライバーは天と地ほどの差がある。この3日間の移動の最中もその日のキャンプ地に着くとドライバー達はビールを飲んでいたが、アシスタントは絶対飲まないし、殆どお金も使わない。

セオドーと一緒に駐車場を出ようとすると、入り口で警備の軍隊に止められた。荷物チェックだと言われたが、何故か端で待つように言われ、他の人の荷物チェックをし始めた。もう真っ暗だし、早く宿にいきたいので、さっさとチェックしてくれと頼むが、「ダメだ。待ってろ」と言われる。セオドーも一緒に待ってくれているので悪いと思い、先にいってくれと言うが、夜に一人で歩くのは危ないと一緒に待ってくれた。

他の人が全て居なくなると、軍人はこっちに来て、15,000CFA3,000円)を請求してきた。辺りは真っ暗で、もうセオドーと二人しかいない。これが彼らの手なのだろう。なんとか下手にでて、ビザもあるし、荷物も問題ないからお金は払う必要がないと説得して、通してもらえた。まったく厄介なところだ。

宿に着くとオーナーらしきオヤジは「いったい何をしに来たんだ?ゴールドかダイヤモンドを探しに来たのか?」と真剣な顔で聞いてきた。「いや、純粋に観光です」と答えると「あんたがこの宿で最初の観光客だ」と大笑いした。

この宿はカメルーン人専用と言っても過言ではないくらい、カメルーン人しかいなかった。殆どは一緒にやって来たドライバー達だ。ベッドだけしかない部屋はきれいではないが13500CFA700円)と安かった。宿のオヤジが終止「もっといい宿に泊まればいいのに」と言って勧めてきた。これ程自らのホテルにプライドのないオーナーも珍しい。

セオドーと夕飯を食べ、ビールを飲んでいるときに同じくドライバーのセオドーの兄がやってきて、チャドの国境へ向かうトラックがあるか聞いてきたと言った。セオドー兄は「UNは北の町へも物資の輸送の護衛をしてはいるが、チャド国境までは行ってない」と話した。UNの護衛隊の行く最後の町から国境まではまだ150kmくらいあり、そこはまだゲリラが活動している政府が完全には制圧できてないエリアらしい。


この宿にはトラックのドライバーがたくさんいるが、誰も北へ向かうトラックを知らなかった。今日バンギの町へ入ってから見かけたUNのトラックに先導されたトラック2台を見たセオドーは北からのトラックだと言っていた。確かにやって来た方角は、カメルーンからではないが、北からという確証はない。ここまでの道中で聞いた限りでは、皆難しいと答えた。道が悪いという人もいれば、北へ向かうトラックはないとか、北部は危険だとか理由は違かったが、誰一人としてチャドへ行けると答えた人はいなかった。やはりこのルートは難しいのかもしれない。













2016/DEC/13 「中央アフリカの移動」

昨夜バスがガロアブライに着いたのは夜中の12時を過ぎた頃だった。真っ暗の町中でバス会社の周りだけが物売りで賑わっていた。バイタクを捕まえて、5000CFA1,000円)以下で泊まれる宿へ連れていってくれと頼むと、2件ほど断られてから、ようやく空いている宿が見つかった。値段は2500CFA500円)とカメルーンの宿では今までで最安だった。
朝起きて、宿のスタッフに中央アフリカへ行くと言うと、ここから国境までバイタクで200CFA、国境からUNの護衛隊が出るベロコまでは500CFAだと教えてくれた。

国境には500mほどの緩衝地帯があり、手前にカメルーンイミグレがあった。その横のポリスチェックですごく親日な警官からパスポートチェックをされ、そのあとイミグレに行くと、無愛想な軍人が「5000フラン」とだけ言いはなった。またワイロかと少し幻滅したが、「いいや払わない」と突っぱねると「いや、払え」と引かない。それならと「カメルーンに入ってからは警察からもイミグレからもワイロを請求されたことがない。カメルーンはワイロのない国かと思ったよ」と言うと何も言わずに出国スタンプをくれた。もちろんカメルーンは賄賂大国だ。国連の世界の汚職国家ランキングで1位に輝いたことを冗談っぽく話す国民に国を変える意思は一切感じられない。

続いて、中央アフリカ側。中央アフリカのイミグレは国境から1キロほど進んだところにあり、朝飯を食べてから向かった。中央アフリカのワイロ攻撃はかなりひどいと聞いていたが軽くかわすことができた。

そこからバイタクにのり、UNの護衛隊と共に移動するトラックが集まるベロコまで移動した。ロベコは道路沿いにトラックが何十台と停まっていて、直ぐに分かった。護衛隊と移動するためには登録が必要らしく、一つの建物にドライバーらしき男達が集まっていた。
黒人しかいないのでアジア人はかなり目立つ。直ぐに男達が集まってきて「カミオン?バンギ?」と聞いてきた。カミオンはフランス語でトラックだ。そうだと言うと男たちは20,000だ!とか30,000だ!と好き放題の金額を言ってくる。多分ここにいるのは本物のドライバーではないだろう。ドライバーと話すからと言って、歩き出すと英語を話す男が「いくらで乗りたいんだ?」と言ってきたので、5000と答えると「荷台でいいのか?」と聞くので「いや、室内がいい」と言うと「ついてこい」と言い、建物の中を突っ切って、裏に出た。そこは大きな駐車場のようになっていて、たくさんのトラックが留まっていた。
男は幾つかのトラックの運ちゃんに値段を聞いてくれたが、最低でも8000CFA1,600円)だった。そこで「7000にならないか?」と聞いたが値引きには一切応じる気配がない。そもそも他のドライバーは言い値が15,000以上なので話にならない。

もう一回りしてから決めようと、男にお礼を言って別れた。現地人たちは荷台に乗っているが、これでは雨が降ればひとたまりもない。何より、荷台で23日はチョットしんどい。それからドライバーを数人あたったが、10,000以下という人は現れなかった。しかも駐車していたトラックは徐々に敷地から出ていき始めた。これはまずいと思って、さっきの8000CFAのトラックを探し、何とかトラックを確保した。クンも10,000CFA払ったと言っていたので、きっと8000CFAは安い方だ。しかもこのドライバーはカメルーンの北西部出身で英語ができる。

敷地にはUNのヘルメットをかぶった浅黒い男達がいた。これが国連の治安維持軍かーとよく見てみると、肩に日本とよく似た国旗がある。ただし、色は緑に赤。これはバングラディッシュだ!なつかしい。アフリカで見るバングラディッシュ人はかなり親近感がわく。バングラディッシュを旅したときは同じ人間だと思えなかったが、黒人しかいないここでは、まるで親戚のようにさえ感じる。

話しかけてみると、「おー!日本人は友達だー」とやはり思った通りフレンドリーだ。「ここにはどれくらいいるの?」と聞くと「1年の任期だ」と答えた。彼らはベロコからバンギの護衛を担当していて、ロベコにはキャンプがあり、1500人ほどの兵士が配備されているという。

「中央アフリカで何してるんだ?」と聞かれ「旅行だ」と答えるととても驚いた。「治安は問題ないかな?」と聞くと「治安は問題ない。一番の問題は言葉だ」と答えた。「こっちの英語を彼らは理解しないし、彼らのフランス語は理解できないんだ」。確かに兵士間で意思疏通できないだろう。

見ていると彼らは現地人とは一切話をしないし、中央アフリカの軍人が挨拶してきたときも、かなりぎこちないフランス語の返事をしていた。さすがにバングラディッシュにも黒人はいないし、なんだこの真っ黒な奴等は!といった感じなのかも知れない。彼らからしてもここは異境の地なのだ。しかも中央アフリカの黒人の軍人が威張っているのに対して、彼らはどこかオドオドした感じでアウェイ丸出しだ。小心者の多いバングラディッシュ人の人柄が出ていてどこか面白い。まー、言葉が一番問題と言うくらいなら、治安はそこまで問題では無いのだろう。

午後の2時半に駐車場を出たが、すぐに停まりさらに2時間ほど待たされた。この日は150kmしか進まないらしい。100台にもなろうかというトラックの編隊は移動にとてつもない時間がかかる。

夕方にボウアという本日のキャンプ地に着いた。と言っても街道沿いに露天が並んだだけの村で、トラックは1ヶ所に集められた。トラックの荷台の現地人たちは、地面にゴザを敷いて横になり始めた。トラックの下が雨のときも濡れないから人気らしい。ドライバーはみんなこうやって寝るんだよと言うが、砂ぼこりが酷い。ドライバーの助手はスーダンで泊まったときに寝たような木のベッドをトラックから降ろして、寝る準備をしている。車の中で寝るのはドライバーだけのようだ。

仕方なしにテントを張ることにした。外でも寝れなくはないだろうが、夜にやっぱり寝れなくて張るよりはいいと思って、最初からテントにした。テントは珍しいようで、回りにはすぐに人だかりができてしまった。

現地人は皆こうやってトラックの荷台にのり、地面で寝て23日過ごすのだろう。中央アフリカの移動はなかなかハードだ。

















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