2016/NOV/14 「シュバイツァーの建築」

朝の8時過ぎにイミグレに行ってみると、四人ほど外で待っている人がいて、聞くと「チーフがまだ来てないので待っている」と答えた。扉は開いていて、スタッフもいるが、そのチーフが来ないと入国審査ができないらしい。

30分ほど待つとチーフが車でやって来て、それからしばらくすると、中に入れてもらえ、無事入国スタンプをもらえた。宿に戻り、荷物を纏めて出ると、ちょうどランバレネへ行くミニバスがでるところだった。

道路は舗装されていて、ミニバスは結構なスピードですすむ。コンゴから来るとこの道路には感動する。ここから首都のリーブルビルの途中にランバレネという町があり、そこに1泊してから、リーブルビルに行く予定だ。

ランバレネは、ノーベル平和賞を受賞したシュバイツァー博士が医療活動をしていた場所で、当時の病院や彼の家が博物館になっているという。

ランバレネには2時過ぎに着き、昼飯を食べて、宿を探してから、博物館へ向かった。
飯は屋台で焼いた豚肉をスライスして、マスタードと醤油のようなものをかけたものと、マニョーク。国境を越えてから、この屋台をよく目にする。コンゴの焼き鳥屋台と似ているが、こうやってスライスして出すのはガボンに入ってからだ。ガボンは一人あたりのGDP80万円くらいあるmiddle classカントリーなので、物価は高いものだと思っていたが、今のところコンゴよりすこし高いだけで、そこまでは変わらない。飯も2ドルも出せば、ピラフのようなライスに肉がのっかった物がだべれるし、この焼豚とマニョークも合わせて850CFA(150)とけして高くはない。ビールも中瓶で600CFAとコンゴと100しか変わらない。

宿は3軒ほど回って、一番安かった5000CFAのところにした。廃墟のような建物でトイレ、シャワーも共同だったが、これくらい汚い宿だとトイレ、シャワーは部屋とは別の方がむしろ良いし、まー1泊だけなら特に問題にはならなかった。電気が24時間使えるのでコンゴに較べればましだ。と言ってもコンゴではホテルには1泊もしてないが。

ランバレネの町は川の東側、西側、島と3つに別れていて、宿のある町の中心は東側、博物館は西側にあった。川はまっ茶色で、ジャングルの中を流れている。歩いて行こうと思ったが、宿のオヤジが暑いからタクれと勧めてきた。300CFA(53)で行けると言うのでタクる事にした。どうやらガボンもシェアタクシーが町中を走っていて、安い値段で乗れるようだ。

博物館は病院の敷地内にあり、博士の死後、新しく病院が建てられ、博士の家や前の病院は博物館として保存されている。この病院はなかなかの評判でしっかりと機能している。
博士の家や前の病院は川の畔にあり、当時は道路がなく、船で患者がやって来たと言うのがわかる。レセプションは博士と奥さんの暮らした建物にあり、広い部屋に展示物が並んでいた。この病院が他と違うのは、お金を払えない患者や家族が、病院で仕事を与えられ、働いているというところだ。患者達が暮らす家も敷地内にあり、さながら病院を中心にした村のような感じだったようだ。説明には`Hospital Village'と書いてあった。これは金のない村人達が診察を受けられるようにするのと、病院運営のコスト削減するという他に、病の患者が仕事を与えられることによって、日々のやりがいを得て、人らしく暮らすという考えによるものらしい。

この病院で特筆すべきはこの建物で、壁面は全て木の格子に網が張られていて、ガラスや壁面はない。この格子の網戸の中に透けないくらいの白いカーテンがあり、プライバリシーを確保している。さらに天井にも1列網の面があり、天井裏に空気が抜けるようになっている。その天井裏は屋根の側面の網の格子面から風が入るようになっていて、天井裏にまわった熱が外に抜けるようになっている。

寝室からベランダへ出る扉も壁と同じ網の格子で出来ている。まるでデザイナーがやるような意匠だ。部屋のなかは川から丘へと抜ける風が通るので涼しい。この建物はまさにこの高温多湿の気候のためにデザインされたものだ。

博士がこれを100年も前に考えて、赤道直下のアフリカのジャングルで建てたというのは、信じられないくらいスゴいことだ。今までにも仕事がら東南アジアなどに建てるエコ建築の案を多数見たことがあるが、この建物はそのどれよりも間違えなく快適だ。ここに住んでない人では、ここまでこの気候のなか機能する建物は作れないだろう。なにしろこんな建物は今までに見たことがない。

シュバイツァー博士は哲学の博士号を持っていて、著書もある。ピアノもコンサートを開くほどの腕で、医者でもある。その上こんな建物まで、自分で考えたとしたなら、とてつもない多才だったということだ。

彼の診療所も当時のまま保存されていて、ガイドの案内で見て回ることができた。ここで も壁面は同じ格子で出来ている。


川沿いには現地の人が釣りをしていた。ユックリと流れる茶色い水と密度の高いジャングルは、アマゾンのようだ。100年も前にこの地に立った博士はどうやって、ここに一生を捧げる意思を固めたのだろう。



















2016/NOV/13 「コンゴ-ガボン国境」

夜は思ったよりも寝れた。他人の家で寝るのに慣れてきたのだろう。なんせコンゴ共和国に入ってからホテルには1泊もしてない。ここはペモという小さな村で宿さえなかったが、何とか室内で寝れたことは幸運だった。レストランも無かったが、ナミビアから遥々運んできたツナ缶が、活躍の場を見ることが出来た。

5
時半に他の村人の家に泊まったベナンの男が戻って来て、「早く出発した方がいい」と言った。村人が、ニャンガの村からバイタクを呼んでくれることになり、ガボンのおばさんと3人で表で待った。

しばらくすると3台のバイタクがやって来た。バイタクは一台10,000CFAと高いが他に交通手段がないのでしょうがない。ガボンのおばさんは、大量の商品を運んでいるのでどう見ても載らない。すると、おばさんは自分の荷物を3台に均等に分け始め、運ちゃんが結びつけはじめた。「おばさん、なんで勝手に荷物載せてるんだよ」と言うとおばさんは「は?」と逆ギレし始めた。「いや、一人一台雇うんだから、自分の荷物は自分のバイクに載せろよ。道がぬかるんでいて、重いと危ないだろ」と言うと、何やら憤慨し始めた。「荷物が載らなくて、他の人のに載せるなら先ず載せてくれって頼むのが筋だろ」と言うと、怒って何やらフランス語でわめきだした。話にならないので、「じゃー載せないよ。自分のバイクに全部載せなよ」といって、バイクの運ちゃんに下ろさせた。

おばさんはキレながら、到底載らない自分の荷物を結びつけるのを横でズット見ている。一言頼めば載せるのになんてプライドが高いんだ。コイツは昨日、警察のチェックポストで賄賂攻撃を受け、長時間膠着した時も、「お前は荷物を下ろして、ブラザビルへ帰れ」と突き放してきた。本当に自分の事しか考えられないヤツだ。

しかし、荷物は多すぎて載らない。結局おばさんは頼んで来ないが、仕方ないので一つは載せてやることにした。勿論お礼の一言も無かったが。

ガボンのおばさんとベナンの男のバイクは明らかに積荷超過で、ゆっくりとしか進めない。しかも道は昨夜の雨で泥んこだ。こっからコンゴのイミグレのあるンゴンゴまでは40キロらしい。これで辿り着けるかは怪しい。

運ちゃんは、しばらく二人の後を様子を見ながら走り、大丈夫そうだと判断するとスピードを上げて前に出た。この道では昨日はやはり危険だった。あのボロいタクシーで大雨のなか、スタックしたら、抜け出せなくなって一夜をタクシーの中で過ごしていただろう。
タイヤを取られることが数回あったが、それでも無事にイミグレまでたどり着いた。おばさんのバイクがすこしするとやって来た。ベナンの方はまだ見えない。

今までの警察のチェックポストを思い出して、ドキドキしていたが、出国審査はアッサリ終わった。税関は荷物全てを開けなければならなかったが、一切の賄賂請求はなかった。
だが、ここからはどうやってガボンのイミグレまで行けばいいのかわからない。聞くと、そのうちトラックが来るという。ガボンイミグレは、ここから47キロほどいった所らしい。かなり遠い。道も悪そうだ。

ベナンのオジさんも、ようやくやって来て、出国審査をはじめた。ガボンのおばさんは既に終わって、税関に言われて荷物を開いている。

一時間程して、一台のトラックがやって来て、周りの人達がこれだと教えてくれた。近くの民家からも人が集まってくる。近くにすんでる人もいたのかーとジャングルから現れてくる住民を背に、バックバックを荷台に乗せた。

皆、荷台に乗り込んだが、ベナンのオジサンがいない。ガボンのおばさんに聞くと「ダメっ」みたいなジェスチャーをした。こんなに苦労して、さんざん賄賂も払って国境まで来たのに、引き返すのかーと同情した。こっからの帰りでまた警察にタカられて更なる出費があることだろう。アフリカしんどすぎる。オジさん無事にポイントノールまで帰ってくれ。

トラックはかなり揺れたが、荷台のタイヤに座ることが出来たのでそれほど苦ではなかった。途中コンゴ軍のチェックポストがあり、そのさらに先にガボン軍のチェックポストがあった。

そこからしばらく行くと、一台のピックアップトラックが故障して止まっていて、なんとその乗客と荷物が全てこちらに乗ることになった。これは流石に載らないだろうと思われたが、なんとか全員乗り切った。荷台の外の一番後ろの足をかけるところに5人がへばりつくように立って乗った。そして与えられた場所はその5人の一番端たった。流石に5人は厳しく、足も片方しか乗らない状態で必死に鉄のフレームをつかんで、振り落とされないように耐えた。道も雨のせいで酷く、もはや我慢大会の様を呈していた。

そのまま27kmを耐えて、乗り切った。橋を渡るとガボンの町に着いた。道路はいきなり舗装路に変わった。イミグレは国境ではなく、この町の中にあるという。ミニバスのオフィスらしきところでトラックは止まり、皆降りた。

近くの人にイミグレの場所を聞いて、入国スタンプをもらいに向かった。少し離れた所にポツンと地味な建物があり、ガボンの国旗がかかっている。建物にはイミグレーションと書いてあるが、扉は閉まっている。昼休みかと思ったが裏には建物の裏で生活してる人達がいて、スタンプが欲しいと聞くと「今日は日曜で休みだ」と答えた。なんとガボンのイミグレは日曜休みだった。日曜だって国境越えてくる人はいるし、何よりコンゴの国境が開いてるのに、なんでガボンは閉めるんだ。


今日はこのンデンデに泊まるしかないようだ。なんかブラザビルからたいした移動距離ではないのに、スゴい時間がかかっている気がする。昨日は国境手前で1泊し、今日は国境越えたところで1泊だ。








2016/NOV/12 「コンゴのチェックポスト」

朝の5時半にパパ ジョナスが起こしにきた。殆ど荷物も広げてなかったので、起きて、直ぐに外に出た。顔を洗ってからパパ ジョナスとタクシーでバスターミナルへ向かった。ここでもタクシー代を払おうとするので、止めて払った。

パパ ジョナスが周りの人達に聞いて回り直ぐに車は見つかった。ここもシェアタクシーだ。今度はミニバスもない。初めはニャンガまでの車を探していたが、ちょうど国境へ行くというガボン人のおばさんとベナン人のオッサンがいたおかげで、その車はニャンガの先の国境まで行くことになった。値段は15,000CFA3,000円)と安くないが、今日ガボンに入れるのは大きい。

一時間ほどで人が集まり出発した。今回もボロボロのカローラに7人だ。しかも皆大量の荷物を運んでいてトランクを全開にして荷物を積み重ねて、その上からビニールシートを被せた。セダンにこんなに荷物を積んだのは見たことがない。そもそもビニールシートを被せてもトランクは全開なので雨が降ればトランクの中に水が溜まって、荷物はびしょ濡れだ。

ドロシーからニャンガの道は未舗装だったが、わりと平らで問題は無さそうだった。ただし、ニャンガまでは3ヶ所ほどチェックポストがあり、これらは前日までのものより、はるかに達が悪かった。パスポートを見せると、それを返してくれず、金を払えの一点張り。払わなければ通さないと言って、何処かへ行ってしまう。しかも、これ迄より値段も高く、最初のが5000CFA1,000円)で次のは10,000CFA2,000円)と言ってきた。コンゴ人は請求されず外国人のみがターゲットになる。なぜかガボンのおばさんは素通りで、ベナンのオッサンと二人、常に長い交渉に臨まなければならなかった。ベナンのオッサンは警察に負け、最初のチェックポストで3000CFA600円)、次のチェックポストで10,000CFA2,000円)を支払った。3つ目のチェックポストは豪雨で警察が出てこなかったので、素通りできたが、オッサンはタクシー代と合わせて28,000CFA5,600円)も払ったことになる。たった200kmの移動に50ドルも払わなければならないとはずいぶん高い移動費だ。3つ目のチェックポストでも雨がなかったらと考えると恐ろしくなる。

何もなくてもいちゃもんをつけてくる警察達は、南アフリカで取得したコンゴビザが、何故かマルチエントリーの商用ビザになっていたので、チャンスとばかりに、「何故ツーリストが商用ビザなんだ?」と金をむしり取ろうと必死のピンポイント攻撃に出てきた。別に商用ビザでも問題ないはずだが、彼らはこういうあらを見つけるととことん突っ込んでくる。

これは逃れられないかというと、そうでもない。断固たる決意とぶれない心が、必ず道を開く。実際ブラザビルから国境まで7つの検問があったが、1度も賄賂は払わなかった。どうしたかというと、通さないと言われてもずっと通してくれと訴える。あと日本大使館の人からもらった名刺をちらつかせる。フランス語では話にならないので、英語でずっと話続ける。これで時間はかかるが最終的に向こうが折れるのを待つ。問題は時間がたつと、運転手が時間がないから払えと言ってくる。さらに乗客達も早く進みたいから払えと言ってくる。終いには荷物を下ろすから、一人でドロシーへ戻れと言ってくる。これは、「ならお金は払わない!」と言って沈めるしかない。なのでタクシー代は絶体到着時に払うことだ。

毎回一時間近く交渉に時間がかかり、途中から豪雨で道も泥んこになり、さらにパンクやら、謎のエンジン停止というハプニングも加わり、ニャンガという国境の手前40kmの町に着いたときには、既に午後の3時過ぎだった。朝6時に出発してだ。

ニャンガで一人下ろして、更に数キロ先の村でおじさんを一人下ろした。まだ豪雨は弱まりそうもない。すると運転手は何やら残りの乗客に話をはじめて、ガボンのおばさんともめ始めた。ベナンのオッサンは運転手が「雨で道が悪くなっているので国境までは行けない」と言い出したと説明してくれた。確かにこの豪雨のなか、このオンボロの車で進み、またエンジンが掛からなくなったら、お手上げだ。

夕方に国境へ向かうトラックが通るらしいから、それに乗れば国境まで今日たどり着くことは出来るという。まーそれ以外にチョイスはないのだから、そうするしかない。
運転手はここまでの代金を8000CFA1,600円)にしてくれた。元々は荷物代は別途1500CFAと言っていたが、それも無くなった。

ここで降りたおじさんの家の軒下で皆でトラックを待った。いつも夕方5時から6時くらいに通るらしい。あと1時間半は待つことになる。雨はやむ気配もない。家のおじさんはビールを飲み始めたので、生温いビールを1本売ってもらって一緒に飲み始めた。それを見た疲れはてたベナンのオッサンは「お前はまるでコンゴ人みたいだな」と呆れた顔で言った。
一時間もすると雨が弱まってきた。17:30を過ぎたくらいに遠くから走ってくる灯りが見えた。「トラックだ!」と言って、皆で道路に近寄ってトラックを止めた。家のおじさんがトラックの運転手と話をする。一瞬オッケーっぽい雰囲気が流れたが、なぜかトラックは走りはじめて、行ってしまった。よく分からないが乗せてはもらえなかった。これで明日の同じ時間まで車は一切通らない。

どうしたものかと皆暗くなってしまったが、取り合えず、おじさんの家に泊めて貰えることになった。そんなにベッドがあるわけではないので、テント泊用のマットを敷いて、寝袋を出した。子供達は見たことないので、興味津々だ。蚊取り線香をマットの脇で焚けばなんとか寝られるだろう。


食べ物も買えないので、フランスパンをわけてもらい、ナミビア以来すっと運んできたツナ缶を開けて、挟んで食べた。このルートはなかなかしんどいなーと電気さえ通ってない暗い家のなかで、ランプの灯りでツナサンドをかじりながら思った。

2016/NOV/11 「パパ ジョナス」

シャンセルに「そろそろガボンへ向かう」と話すと、週末までいて、サプールの集会も見ればいいんじゃないかと勧めてきた。既に6泊もしているし、毎日やることもなく、夕方の礼拝の後にシャンセルと冷えたビールを探しに停電の町をねり歩くのが日課になってしまっている。このままではお金がかからないという理由だけで長居するという無意味な長旅になってしまいそうだ。やはりここを出るべきだろう。

ガボンまでは、途中にあるドロシーという町に1泊して、次の日に国境近くのニャンガという村に行き、その翌日国境を越えるという感じだとシャンセルは教えたくれた。実際にシャンセルが国境に行ったことがあるかは疑問だが、ここに泊まった旅人達は皆そういうルートを取ったらしい。

ドロシーは国境までのちょうど中間にあり、ガボンへの道とポイントノールへの道の分岐になっている。ポイントノールとはコンゴの経済の中心の町だ。シャンセルは「ドロシーという町に天理教の布教所があるので泊めてもらえるように頼める」と言った。天理教のネットワークはなかなかスゴい。ちなみにニャンガにもあるらしいので、天理教の施設を辿って、ガボン国境までいけるとわけだ。

出発の朝、シャンセルは朝の礼拝の後にバス乗り場まで送りに来てくれた。ミニバスとシェアタクシーがあり、どちらも12,000CFAだ。ただし、シェアタクシーは古いカローラに助手席に二人、後部座席に四人乗せる。シェアタクシーの方が早くつくと言うのでそっちにすることにした。

タクシーは人が集まるまで一時間を要した。シャンセルはドロシーに着いたらパパ ジョナスが迎えに行くと言い、パパジョナスの電話番号を教えてくれた。シャンセルはタクシーが出発するまで居てくれるし、パパ ジョナスはピックアップに来てくれるとは天理教はなんて至れり尽くせりなんだ。しかも宿代もお布施以外は受け取らない。一体なんの使命感があってこんなに旅人によくするのだろう。

助手席に二人、後部座席に四人と子供二人を乗せたカローラは、キツくて思ったほど快適では無かったが、道はズット舗装されていた。途中4回ほど警察のチェックポストがあり、毎回賄賂を請求された。フランス語で話にならないので、英語でひたすら文句を言うと通してもらえた。警察はかなりしつこいのと、あまり時間がかかると、他の乗客が早く払ってしまえと言ってくるのでかなりウザかった。ブラザビルの市内では警察に止められる事は一切無かったし、イミグレでも賄賂攻撃はなかっただけに、このチェックポストはかなりガッカリした。

タクシーはドロシーの町には入らず、分岐のガソリンスタンドで降ろされた。パパ ジョナスがいないか探したが、それらしき人は見当たらない。特徴を聞いてきた訳ではないから、そもそも向こうが見つけてくれない限り会えない。こちらの出来ることは、目立つように歩いて回ることくらいだ。

しかし、いくら経っても声も掛からないので、近くの警官に携帯を借りて、教えてもらった番号にかけてもらった。警官は電話が終わるとジョナスのいるとこまで一緒にタクシーで行ってあげるといい、通りでタクシーを捕まえた。これは親切半分、自分が町に帰るタクシー代を払わせる目的だったと後で分かった。コンゴはそんなもんだ。

町の中の市場のような場所に着いて、ここだと言って降ろされた。すると一人のやたらと手の長い、汚い格好のオジサンが車に寄ってきた。「パパ ジョナス?」と聞くと「ウィ」と答えた。これにはチョッと驚いた。ブラザビルの天理教の人は割ときれいな格好をしていたが、パパ ジョナスはかなり底辺な格好だ。大丈夫かなと心配になってきた。
が、パパ ジョナスはかなりおもてなしの心を持った男で、ここまでのタクシー代金をおもむろに払おうとする。すかさず制止して「自分で払います」と伝えた。

そらから更にパパ ジョナスと別のタクシーに乗り込み、教会へ向かった。ここでもパパ ジョナスはお金を払おうとするので、止めて払った。

ドロシーの天理教の施設は、ブラザビルとは天と地ほどの差があった。ボロい民家にしか見えない建物のなかに手作り風の祭壇があり、同じ建物のなかにジョナスや家族の寝室がある。トイレ、シャワーは外にあるが、屋根はなく壁だけだ。大人はジョナスしかいないようで、小さな子供たちが6人くらい遊んでいる。庭に唯一の水道があるが、水はブラザビル以上に濁っているが、皆これを飲む。電気は当然なし。

パパ ジョナスはかなり張り切っていて、建物の中の祭壇を案内してくれ、天理教の50周年のパンフレットを見せて、色々と説明してくれた。フランス語だからさっぱりだが、このパンフレットはブラザビルにもあり、シャンセルから説明されていたので聞くまでもなく内容を知っていた。そのあとは町を案内すると言って、二人で施設を出た。

フランス語が話せないのは分かってる筈だが、パパ ジョナスはガンガン話してくる。挨拶以外は殆どわからない。色々と質問をしてくるのだが9割理解できない。するとパパ ジョナスはシャンセルに電話をして、自分の言ったことをシャンセルに通訳させた。さっきからズット聞いていたのは今夜は何を食べたいかだった。なんて親切なやつだ。何でも出てきたものを食べるのに。

そのあとも質問があるとシャンセルに電話をして、通訳してもらい会話をした。電話代がかかってしょうがないし、シャンセルもたまったものではないだろう。

市場を見て、一通りドロシーの町を歩いて周り、施設に戻ってきた。パパ ジョナスは「シャワーを浴びるか?」と聞いてきた、浴びたいと言うと、バケツに水を汲んできてくれた。離れの壁だけのシャワー室に入ると雨が降ってきた。もはや、バケツの水も要らなかったのではと思った。パパ ジョナスにトイレはあるか?と聞くとシャワー室の排水溝を蓋していた石を足でどけて、「トワレット アフリカーナ」と言った。なんとこのシャワー室はトイレ兼用だった!恐るべし天理教。

夕飯はサバを油で揚げたのとフーフーだった。揚げたてのサバは柔らかく、フーフーもモチモチで旨かった。電気がないのでランプの明かりで食べた。ここの施設にはブラザビルの様に客室があるわけではないので、子供たちが寝ていたであろう部屋を使わせてもらった。多分子供達は別の部屋で雑魚寝だろう。パパ ジョナスからドロシーにもサプールがいて、週末に集まると聞いていたので、それまでいるか悩んだが、ここに長居するとパパ ジョナスの負担が大きすぎる気がしたので止めた。子供達のベッドをいつまでも占拠するわけにはいかない。明日国境を目指そう。











2016/NOV/10 「サプールついに現わる」

昨夜はこの教会の会長が日本から帰国した。近くのネットカフェのコンゴ人と仲良くなり、ビールをご馳走になり、教会に夜もどると教会の裏の建物にたくさんの人が集まっていた。近寄るとシャンセルが寄ってきて、会長が今、日本から帰ったと教えてくれた。「きっと時差ぼけで眠いだろうから、挨拶は明日にするよ」と伝えて休むことにした。

年に1度、天理教の祭の時に会長は日本へ滞在するという。会長は家族同行で、天理教のお金で日本へ行けるわけだ。コンゴでの信者が150人というから、この教会の運営費や僧侶の生活は全て日本の天理教のお金で賄われているのだろう。会長は発電機付きの空調の効いた家に住み、毎日のように起こる停電の影響も一切受けない。ここに来た初日以外、夕方の礼拝は連日の停電で真っ暗闇のなか行われていたが、会長の家には灯りが灯っている。なにか順番が違う気がする。

僧侶たちにも家族と住む住居が与えられていて、生活費も出るので、完全に日本の天理教に生かされている形だ。ここには僧侶以外の家族も住んでいて、彼らは各々普通に仕事をしているらしい。日本の天理教からすれば、海外での信者というのは、インターナショナルな宗教になるためには大事な存在なのかもしれないが、お金を得るための信仰になりかねないなーと心配になる。

朝飯を食べ、洗濯を終えるとシャンセルが「サプールの人が来ました」と呼びにきた。ついに来たかとおもったが、マロンガさん以外は忙しく、結局マロンガさん一人になってしまったという。まー仕事もあるだろうから仕方ない。

教会へ向かうとバッチリ決めたマロンガさんが待っていた。流石にこの前とは違う。サングラスやパイプなど小道具も持ってきている。別に動画は撮ろうと思ってなかったが、マロンガさんは仕切りに「動画は1分くらいでいいか?アッチからステップ入れて歩いてくればいいか?」と撮られたがったので、少しだけ録った。マロンガさんはノリノリでポーズをとったり、カメラ目線で笑顔を作ったりとサービス満点だ。しかも着替えを持ってきていて、教会の庇の下で人目を気にせずズボンを着替え始めた。真っ赤なサテンのトランクスになり、着替えたのはブランド物スカートだった。マロンガさんは男物のスカートだと念を押したが、コンゴ人の中年オッサンのスカート姿はカッコイイを通りすぎている。マロンガさんは着ているもののブランドタグを見せてくれ、値段も教えてくれた。因みに今日のジャケットはイタリアのブランドで20万円くらいだと言う。ここの人の月収の6~8倍だ。やりすぎだろう。コンゴにはブラザビルとポートノイルにもサプールがいるといい、総勢1500人くらいはいるらしい。天理教信者の数の10倍だ。週末にはブラザビルの郊外で集まり活動しているという。その時は20~30人くらいのグループになり、皆で服の自慢したり、モデル歩きやステップを踏んだりして服を見せあって、そのあと飲みに行くらしい。マロンガさんはコム・デ・ギャルソンも持ってるぞと言うが、ギャルソンはどうもサプールとはスタイルが違うのでリップサービスな気がする。


どれくらい服を持ってるのか聞くと、150点くらいはあると答えた。総額いったいいくらになるのだろう。家族はさぞかし迷惑だろう。









2016/NOV/9 「古着を買うならブラザビル?」

昨夜から何処か体調が悪い。夕方に妙な寒気があり、マラリアかと思ったが、熱はでなかった。身体が少しだるく、頭が重い。シャンセルは完全にマラリアを疑っている。

コンゴ共和国に入ってから、これでもかというくらい蚊に刺された。油断して昼間にサンダルで出掛けたときに、草むらに入り地図を見るために立ち止まってる間に一気に足を20箇所くらいさされたりもした。見たことのない小さな蚊で、足を振っても飛んでいかない厄介な蚊だ。しっかり血は吸っていて、足は全体的に腫れたようになり、熱を持ってしまった。左手親指もこのせいで腫れている。この蚊は明らかにハマダラ蚊ではないので、マラリアの危険が無いのが救いだ。ただし、泊まっている部屋に出るのは普通サイズの蚊で、こっちは油断ならない。ベッドの上に吊るされている蚊帳は穴だらけで、キンシャサで買った中国産蚊取り線香が切れたら、ここにはもういられなくなるだろう。

ガボンビザがあっさり取れたので、木曜までに他のビザも調べてみることにした。ガボン大使館の近くにはナイジェリア大使館があったので、行って聞いてみることにした。入口でビザが欲しいと言うと、中で聞くように言われ、建物の中に入れてもらえた。1つの部屋に通されて、そこにいたおばさんにこれから陸路で行くから、ビザが欲しいと言うと、居住者にしか出さないと答えた。そこでアフリカ陸路一周してるので、なんとかならないかと相談すると「ホテルの予約をすれば出せる」と言ってくれた。取れるのかと思って、値段を聞くと「171,600フランだ」と答えた。「え!それは300ドルちかい金額だけど、、」と言うと、「そうなのか?でもその金額で間違いない」と言う。信じられない値段だ。それがどれくらいの価値があるのか分かっていってるのか?キンシャサで聞いたガーナビザの250ドルを超える高値だ。中部アフリカに入ってから、東アフリカでは聞いたことがないような額を平気で聞くようになる。50ドル、60ドルでも高いと思っていたのに、ここではそんな値段で買えるビザはない。モロッコまで行くのに一体いくらビザ代でかかるのか不安になる。

「ちょっと高すぎるから、他で取るよ。値段はもう一度よく考えた方がいいと思うよ」と言って部屋を出ようとすると、扉が壊れて開かない。「え?出られないけど?監禁?」と言うとおばさんが開けようとするが、扉は開かない。なんだこの大使館は。値段も扉もおかしい。

外の人を呼んで、外側からこじ開けてもらって出ることができた。ナイジェリアはなんだかしょうもない国な気がしてきた。

コンゴ共和国に入ってから、野生のゴリラが見れないかと調べていた。これまでの国ではウガンダやルワンダでゴリラトレッキングがあったが、パーミッションが必要で500ドルもするので諦めていた。コンゴ民主にもいるが、東部にしかいないので治安上行けなかった。このあとはガボンくらいしかチャンスはなく、ガボンも国立公園は、アクセスが悪く、かなり費用がかさみそうだった。

コンゴ共和国にはレシオ ローナというゴリラの孤児を集めた施設があり、野生にちかいゴリラを気軽に見れると聞いていたので、その情報を集めることにした。だが、ウェブサイトの電話番号は古くて、今使われている番号より一桁少ないのでつながるわけもなく、ブラザビルにあるというオフィスに行ってみると、その住所ではコンゴ人の労働者たちが、一生懸命誰かの家を建てていた。どっかへ移転したようだ。が、何処へ移転したか知るすべはない。コンゴ共和国はツーリズムが全く発展していない。北部は自然と動物の宝庫なのだが、いかにせんツーリストが来ないので観光開発が進まない。国立公園は車がなければ行けないし、宿もとんでもなく高いロッジか一軒か二軒あるだけだ。

帰りに道端で古着を並べて売っている店で長ズボンと長袖シャツを探した。これは蚊対策で、今はタイパンツしか長ズボンがないので、マラリア予防に長ズボンが一本欲しいところだ。ズボンはジーパンが殆どだが、500CFA(88)からと信じられないくらい安い。殆どはフランスの古着だ。


結局1000CFA(176)のコットンの長ズボンと300CFA(52)Yシャツを買った。どう考えてもおかしい値段だ。いくら古着でもこんな値段で売ってるのはコンゴ共和国だけだ。何故こんな値段で売れるかというと、多分これらはフランスのボランティア団体が寄贈している古着で、本来これらは貧しい人に届けられるはずが、アフリカに届いた瞬間、地元団体から横流しされてしまっているからだ。元手がただで、輸送費すらかかってないので、こんな値段で売っているのだろう。フランス人たちは自分達の寄付した洋服の行き着く先がまさかこんなだとは想像すらしてないだろう。アフリカの支援でやってはいけないことはお金や物を送ることだ。最後をアフリカ人に任せてはいけない。たが、旅人にとってこれは「古着を買うならブラザビル」ということになる。
















2016/NOV/8 「姿勢のいいオッサン」

シャンセルにサプールが見たいんだけどと聞くと「あーサプールですね。週末に集まるので見れますよ」と答えた。やはり、サプールはキンシャサではなく、ブラザビルだった。キンシャサだと思ってる人が多いが、キンシャサで人に聞いたときは「サプールって何?」って感じでその存在さえ知る人がいなかった。日本大使館の上田さんに聞くと「あーあれはブラザビルなんですよー。キンシャサにもいるんですが少数で、殆どがブラザビルです」と言っていた。

シャンセルが知り合いから集会の場所を聞いてくれ、日曜日に見に行こうということになったが、雨が降ってしまい、サプールは集まらなかった。サプール集会は基本雨天中止だ。まー月給の5倍も6倍もする洋服や靴が汚れたら大変だから、雨天中止は当然だ。11月は一番雨の多い時期らしく、ブラザビルに着いてからも、何度も雨が降っていた。コンゴ民主、コンゴ共和国、ガボンとまんまと雨季に旅することになってしまった。

かなりガッカリしていると、シャンセルが「天理教の信者にもサプールが一人います。彼は言えば来てくれます」と言い出した。驚きな事に、天理教はサプールさえ従えていた。なんてネットワークなんだ。

じゃー呼んでほしいと頼むと、今日の午前中に教会まで来てくれることになった。9時くらいに、庭のマンゴーの木の下でシャンセルと待っていると、シャンセルは「あー彼がそうです」と一人の男を指差した。「え!彼?」その男はいたって普通の格好だ。「今日は普段着だけど、集会の時は高い服を来てきます」と説明した。あーそう言うことか。だが、そのオッサンはやたらと背筋がピンとしていて、姿勢がいい。声をかけるとモデルのような歩き方でこっちに向かってきた。そして、たまにポーズをとって止まったり、ステップを踏んだりしながら近づいてくる。ほんの10メートルほどだが、やたらと時間をかけて近づいてくる。目の前まで来ると姿勢のいいオッサンは握手してきた。シャンセルが「マロンガさんです」と紹介してくれた。マロンガさんは普段着だが、たしかに動きが只者ではない。「サプールの集会を見たいんだけど」と言うと「週末でなくても何人か集めることは可能だ」と答えた。「おー!いつ見れる?」と聞くと「木曜の昼過ぎだな」と言った。するとシャンセルは「多分あなたの為だけに集まるので、酒をおごるとかしないといけないです」と言った。「しかも、この人は天理教の信者だから、いいけど、他の人はお金を払えと言うかもしれません」と忠告した。それでもやはり、最低3人くらいの方が絵になっていい。シャンセルに「じゃー三人集めてもらって、お酒代はこちらが払うと伝えてよ」と言うと、一応伝えてくれた。ただ、マロンガさんはずっと立ちポーズを気にしていて、返事は曖昧だった。マロンガさんは「ヨージの服も持ってるぞ」と話した。「何処で買うんですか?」と聞くと「ブラザビルだったり、パリかなー」と答える。「え!パリ行く金あるの?」と言うとシャンセルが、「パリにも知り合いがいて、買って送ってもらうんです」と説明した。マロンガさんは日本にも今度行きたいと言うので、その時は東京を案内しますと伝えた。日本の人が見たら、どこぞのVIPが来たのだろうと思うことだろう。
オッサンはペンを借りに別の建物の方へ駆け寄ると、花壇で意味不明なステップを披露した。誰も見てないのに。常に歩き方や視線を意識している。スゴい自意識過剰ぶりだ。なんかゲイっぽい。

シャンセルに「じゃー木曜の昼過ぎということで」と伝えてもらうと、マロンガさんはすごくいい姿勢で歩いてゲートを出ていった。

なんとか週末まで待たなくともサプールを見れることになりそうだ。しかも普段は暗くなってからだが、今回は昼間なので写真も取れそうだ。

そのあとはシャンセルとロンプラに載っていたコンゴ川が急流になるスポットを見に行って、その後ガボン大使館へパスポートを取りにいった。昨日ガボン大使館へ申請したときは日本大使館のレターも不要で、お金と写真、ホテルの予約票たけで受け付けてくれた。何故か金額が45,000CFA(75ドル)と聞いていた金額ではなかったが、掛け合っても金額は変わることはなかった。それでもキンシャサのガボン大使館の半額以下なので申請することにした。

ビザは問題なく貰えた。本当は明日出発予定だったが、サプールを見てから出るので出発は金曜になるだろう。ブラザビルは小さな町で見所も無く、もはややるべきことは見当たらなかったが、ここまで来てサプールを見ずに去るわけにはいかない。サプールはニシローランドゴリラに並ぶ、コンゴで一番の見所だ。







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