2015/SEP/19 「キノコの森」

エストニアは調べてみると、タリン以外では島と国立公園が有名らしい。

ラヘマー国立公園はタリンのすぐ近くにあり、アクセスが良かった。公園自体はかなり広範囲だが、その中で興味のある湿地帯だけなら、日帰りできそうだったので、宿は移動せずに行ってみることにした。

朝、朝食を食べ、同じ材料でサンドイッチを作って、フルーツと水と一緒にサブバックに入れた。バスはバスターミナルでなく、駅前から出発なので楽だ。乗るときに伝えていたので、運ちゃんは公園へ入るT字路で降ろしてくれた。

湿地帯は木の桟橋が架けられて、よく整備されていた。天気は曇りですこし風が出ていたが、草花が風に揺られて、湿地帯にはぴったりの雰囲気を醸し出してくれた。入り口付近には団体が固まって歩いていたので、抜かしてすこし早足で歩いて距離をとった。しばらく行くともう周りには誰もいなくなって、見渡す限りの自然の中にいた。針葉樹林の間を縫うようにはしる湿地帯の池は空を反射し、赤や黄色のコケが地面を覆い、その上に紅葉した草が生い茂り、とてもカラフルなランドスケープを作っていた。さぞかし空気も美味しいだろうと大きく深呼吸をしてから、桟橋をどんどん歩いた。

2時間くらい歩くと桟橋が終わり、森の中の道がすこし続き、1本の道路に出た。そこにはベンチがあり、車が数台停まっていた。きっとここから歩き始める人もいるのだろう。
ベンチに座り、サンドイッチとプラム、平らな桃をひとつずつ食べた。道がわからなかったが、道路の反対側の道を進むことにした。そこはトレッキングルートというよりは車の轍が森の中へ続いていた。とりあえず、北へ向かって歩くことにした。7キロも行けば幹線道路に出られるはずだ。

奥へ進むと、轍はどんどん別れていき、いろいろな角度の轍の道が森の中のいたるところを走っていた、かなり不自然だ。しばらく行くと、車が停まっていた。見回すと、いろいろな方向に車が見えるし、歩いてる人もたくさんいる。しかもどう見てもトレッキングという格好ではない。近くにいたおばあさんに近寄って聞いてみるとキノコを取りに来たと教えてくれた。手にある篭の中には数種類の見たことのないキノコがベリーと一緒に入っていた。

帰りはあまりにバスが来ないのでヒッチを試みたが、2時間経っても一切車は停まらなかった。バルト3国ではヒッチという甘い考えは捨てよう。






2015/SEP/17 「ヨーロッパ」

サンクトペテルブルグからエストニアへのバスは€14にしては快適でWifiまであった。ロシア出国はすんなりと手続きが終わり、国境の橋をバスで越える。この国境は川を挟んでロシア側は厳つい要塞、エストニア側には古城が向かい合っていて、なかなかの景観だ。こんな豪華な国境は見たことがない。

タリンのバスターミナルに着いて、とりあえずATMでお金をおろす。出てきたお金は当然ユーロ紙幣だが、それを見て、ついにヨーロッパに入ったんだなと実感した。タリンのバスターミナルは明るく近代的で、スタッフも英語が通じた。いいところだなーとしみじみとロシアの切符売り場を思い出した。スタッフに旧市街への行き方を教わり、トラムに乗った。

タリンの旧市街はヨーロッパの他の有名な旧市街と比べても、とても美しい中世の姿を保っていた。西ヨーロッパ、北欧からの観光客が多く、週末は宿の確保が難しいほどだ。宿は2軒ほど回って、なんとかドミトリーのベッドを確保できた。街は旧市街とは別に新しいシティーセンターがあり、旧市街は主に観光客用になっていた。プラハやクラコフなど世界遺産になるほどの旧市街は、ほとんどがこういったつくりで、まるでディズニーランドのようだ。ヨーロッパではイタリアだけが例外だろう。そういう意味でサンクトペテルブルグは古い街が今でも町の中心で生活の場というのが良かった。


旧市街の東側に城壁に登れる場所があり、城壁の上から街を眺めた。そこにはオレンジ色の瓦屋根が街を覆い、屋根の間からは緑があふれていた。ここはもうヨーロッパだ。






2015/SEP/16 「丸亀製麺サンクトペテルブルグ店」

サンクトペテルブルグはアンドレイが世界で一番美しい街と言うだけあって、本当にきれいな街だ。街には運河が流れ、その両脇に古いクラシックな建物のファサードが並ぶのはどこかベネチアを連想させる。これだけ大きな街でこれだけ古い建物しかないというのは、なかなかないだろう。まるで街全体が博物館のようだ。

ロシア一のエルミタージュ美術館はとんでもない広さで、元々ビョートル大帝の冬の宮殿なので中を見てまわるのも順路がなく、とんでもなく豪華な部屋が永延と続く。3時間以上歩き回っても3階の展示にはたどり着くことはなかった。とある部屋の自立式の展示パネルの前にひどい人だかりができていて、覗いてみると、小さな絵の右下にLeonardo da VinciMadonna and Child’と書いてあった。この美術館はなぜか写真撮影が許されているので中国人は大声で押し合いながら絵の写真を必死で撮っている。それを怪訝そうな目で見ながら、負けじと身体を入れるヨーロピアンでメジャーリーグの乱闘のようだ。パネルは両面展示で裏側にも良さそうな絵が飾ってあるが、だれも見向きもしない。この作者はさぞかし辛いだろうに。

運河沿いに歩いていると、モスクワの有名なボフロフスキー聖堂と似た、玉ねぎ建築の教会があった。ただ、近寄ってみるとモスクワのものよりも作りが大雑把でそれほど古くもないようだった。中に入ると大きな空間はすべてモザイクタイルで書かれたイコン*で埋め尽くされていた。あまりの物量と細かなモザイクタイルの粒子からなる物質感を帯びたイコン*で覆われた空間は鳥肌が立つほど神々しかった。

夕方宿に戻り、街の地図を見ているとネフスキー大通りに丸亀製麺を見つけた。まさか吉野家もセブンイレブンもないロシアに丸亀製麺があるとは思わなかったのでうれしくなった。ハワイでも丸亀製麺が大人気と聞いたことがあるので、ロシアでも大行列かもなーと想像を膨らませた。明日エストニアへ抜けるので今日食べにいくかと宿を出て、ネフスキー通りへ歩き出した。20分くらいで通りに出て、地図の場所へ向かった。この辺だろうという場所につくと、そこには丸亀製麺の代わりにケバブ屋が構えていた。どうやら日本代表の釜揚げうどんはケバブ屋に駆逐されてしまったようだ。


夜のネフスキー通りはライトアップされた古い建物のファサード群が輝き、多くのロシア人で賑わっていた。この街はヨーロッパにいくつも残る観光用の旧市街ではなく、人々が暮らし、働く場所なのだと思うとサンクトペテルブルグは、より一層輝きを増して見えた。







2015/SEP/13 「アンドレイ」

ウランバートルを出る前にアンドレイにシベリア鉄道でモスクワへ向かうことをメールしていた。すぐに会おうという返信があったが、モスクワに着くとさらにメールが来ていて、風邪をひいているので家まで来て欲しいとの事だった。

アンドレイの家は赤の広場から徒歩15分の救世主キリスト聖堂のすぐ近くにあった。市のかなり中心で観光客が歩き回るエリアだ。インターフォンを鳴らすと、相変わらすの無愛想な声で「カム イン」とだけ言った。エレベーターで一番上まで上がると、アンドレイは扉の外で出迎えてくれた。

体調は悪そうで分厚いセーターを着ていたが、とてもいい笑顔を見せた。奥さんも玄関まで出てきて挨拶を交わした。5人の子供たちは来客が来たとたん部屋にこもってしまったとアンドレイは説明した。アンドレイの家は100年以上の古いアパートを改装した2層で、玄関から階段と大きなリビングが見えた。何処もアンティークの調度品が置かれ、高級感があふれていた。思った以上にセンスがよく、きっと、何事もこだわるアンドレイが時間をかけて、一つ一つインテリア、家具を決めていったのだろう。

ダイニングに通されて、テーブルに着くと、奥さんは「ティーにしますか?コーヒーにしますか?」と聞いてきたのでティーをもらった。「なにも特別なものはないの」といいながら、テーブルに用意されたパンケーキに添える、イクラ、小さなハンバーグ、自家製ジャム、フルーツなどを用意した。どれもとれも美味しかった。1杯だけ自家製ウォッカで乾杯した。アンドレイは旅についていろいろなことを質問した。「何故旅をするのか?何処にいったか?どれくらい旅をしたか?何処が良かったか?家族はもたないのか?また建築はやるのか?」37歳で、まだ旅してるというのはロシアではまずないだろう。まー日本でもそんなにいないけど。

多くの人は将来のことを考えて、人生計画を立てる人生が当たり前の先進国のくらしの中で、発展途上国の人のように今しか考えずに生きることはなかなかエキサイティングな人生だと話した。でもそろそろ変える必要があることも。
アンドレイは自分のことを話し始め、人生のことをおおく話した。とても興味深いはなしだった。モンゴルもそうだったが共産主義だった国の話はそれを知らない人間には実におもしろい。異なった価値観を生み、違った考えを共産主義時代を通して持って、そして民主化後に見た欧米化が進む今のくらしがある。その中でロシア人としてはかなり多くの国を見たアンドレイが日本が一番だというのを聞いてとてもうれしかった。

話の途中で子供たちが順番に挨拶に来た、みんな照れ屋で遠くから挨拶をするだけで近くまでは来なかった。汚い格好だったので近寄らなかっただけかも知れない。

気がつくと2時間も話をしていた。「トランジットVisaで時間がないので、そろそろモスクワを見にいくよ。」と言うと、川沿いの公園を歩いてモスクワ大学までいって救世主キリスト聖堂まで歩いて戻るといいと教えてくれた。

モスクワ川沿いはメープルの木がおおい茂り、紅葉がきれいで気持ちよかった。モスクワ大学の前からはモスクワ市内が一望でき、多くの人でにぎわっていた。川の対岸を歩いて戻り、救世主キリスト聖堂へかかる橋の上から夕焼けの教会やクレムリンを眺めた。モスクワは思ってたよりずっとよいところだ。







2015/SEP/12 「ウェルカム トゥー ロシア」

5日目の午後158分に列車はモスクワに到着した。ウランバートルとは6時間の時差があるので体内時計は夜の8時だ。

同じ車両にいたイギリス人が駅の近くのホステルを予約したと言うので、そこに一緒に行くことにした。ホステルの名前は‘Crazy Flogs’と言って、他どのホステルよりも安かった。ただ、何も標識もなく、アパートの一室だったので、近くで偶然道を聞いたのがそこのスタッフでなかったら一生彷徨っていただろう。

中に入るとオーナーらしき中年女性がいて、「予約は1人だけど、もうひとつベッドは空いてないか?」と英語で聞くと、「ノーイングリッシュ!」と大きな声で叫んだ。きっとこれは、ウェルカム トゥー ロシアと言っているんだと自分に言い聞かせた。

客は100%ロシア人でみんなずいぶん長く住んでいるようだった。出稼ぎっぽい人が多い。
ロシア語でいろいろ説明を受け、まったく理解できなかったがチェックインできたようだ。

とりあえず赤の広場をイギリス人と見に行くことにした。鉄道駅に隣接する地下鉄の駅へ歩いていって、地下鉄に乗る前にカフェででっかい骨付き肉の入ったスープを飲んだ。まわりのロシア人はやはりみんな悲壮感たっぷりの表情だ。身内の不幸があったようにしか見えないが、全員同じ日に亡くなるのはおかしいのできっとこれが自然体なのだろう。

モスクワの地下鉄駅はアンティーク博物館のような内装で列車も映画セットのように古かった。赤の広場に着くと、フェンスが張られていて中に入れない。近くに看板があり‘International Army Tatoo Festival’ と書いてあった。10カ国くらい参加国の国旗がみえる。なぜか日本に国旗もある。日本は軍隊はないのになーと思っていると、鉢巻にはっぴ姿で笛を吹く男の写真があった。他の国はすべて軍服なのに日本だけはっぴだ。
これでは日本の自衛隊は鉢巻に半被姿だと思われてしまう。しかも、どう見ても夏祭りの格好なので一人だけすごく寒そうだ。

何はともあれ今日、明日はそのイベントで広場には入れないようだ。ずいぶん悪いタイミングで着てしまった。仕方なくもう少し広場が見えそうなモスクワ川のほうへ歩いてみた。モスクワ川にかかる橋からはクレムリンの姿が見え、川には観光船が絶えず行き来している。夕日の逆光を浴びたモスクワのスカイラインにはゴシック建築の突き出た尖塔のシルエットが印象的だった。



2015/SEP/11 「Trans Siberian Train」

シベリア鉄道に乗って旅するのは昔からの憧れだった。鉄道の旅は情緒があって、常に好きだ。

ウランバートルを出た列車は深夜に両国の国境駅で停まり、出国、入国審査があった。ロシア側は入国審査官、税関スタッフ、危険物チェックの軍人、麻薬犬を連れた軍人が代わる代わるとコンパートメントに入ってきて、仰々しかった。笑顔は一切見られない。

翌朝起きると、同じコンパートメントのモンゴル人学生カップルは同じベッドでいちゃついていた。このコンパートメントで45日かーとすこし気が重くなった。それでも彼女のほうはすこし英語が話せるので、ロシア語が必要なときには通訳してくれたり、食料を分けてくれたりといろいろお世話になった。

昼過ぎくらいに右側の車窓に海のような一面の水面が見えた。バイカル湖だ。3,4時間、果てしなく続く光景に最初は感動したが、30分もすると飽きた。だが、その後、3日くらい永延と続いたタイガの光景を考えると、3,4時間の湖の光景はとてもいいアクセントだった気がする。

途中いくつかの駅で停まり、外に出たが、ロシアの地方都市はどこもかなり寂しくみえた。気温も低く、歩いている人もなにかとてつもない不幸を背負い込んだようにしか見えない。プラットフォームには物売りのオバチャンがスーパーのカートに食べ物を入れて、乗客相手に商売をしている。すごい話しかけてくるが、何も買わない人には冷たい。笑顔は一切見られない。

列車は各車両に2人のスタッフがいて、彼らもスタッフ用のコンパートメントに5日間寝泊りする。彼らははじめは制服を着てるが、途中からポロシャツにジャージと、かなりアットホームな格好になり、ぱっと見、センスのないロシア人乗客に見える。大きな駅に着くときはしっかり着替えてくるのが、どこかコミカルだったが、笑顔は一切見られない。

一度だけ食堂車にも食べにいった。10車両くらいを通過しなければならない大遠征だったが、食堂は映画セットのようなクラシックなデザインで、かなりの年代物だった。スタッフはスキンヘッドのマフィアのようなおじさんが、客が入ってくるとキッチンから出てきて注文をとった。笑顔は一切見られない。

3日目からはあまりの暇で気が狂いそうになったが、停車駅でビールを買えることに気がついて、車内は一気に快適になった。







2015/SEP/8 「最後の夕陽」

モンゴルの18日間は本当にあっという間だった。

朝、ATMで現金をおろして、その足でノミンデパートへ買い出しに行った。モスクワまでは45日だから、かなりの食料が必要だ。カップラーメン、パン、魚の缶詰め、ツナ、クリームチーズ、ビスケット、卵、コーヒー、紅茶を買い、トマトや三色ピーマンも入れた。ノミンデパートの袋はパンパンになった。

3
時過ぎに宿のオーナーに宿代を払い、お礼を言ってからバス亭に向かった。最後までいたアンディは昨日の電車で既に中国国境へと発った。リサとパトリックはもう中国のどこかの町だろう。ひとり最後に残された気分で妙にさびしい気分になった。

電車のコンパートメントのベットは二段でかなり広かった。列車は定刻をすこし過ぎてから多くのモンゴル人の見送りを受けて発車した。車両の入り口でチケットとパスポートをチェックするロシア人の車掌を見て、いよいよロシアかーと思った。

電車は相変わらず蛇行しながら草原のなかをすすむ。気がつくと8時近くになっていてお腹が減ってきたので、ノミンデパートの袋から辛ラーメンを出した。ザミン・ウードからの列車同様、車内でお湯が手にはいるからラーメンは作り放題だ。宿でボイルしておいた卵を一つ入れて少し豪華にした。

コンパートメントの窓からは日没近い太陽とそれに照らされ輝く草原が見える。所々にある水面が太陽を反射して光っている。ゲルの煙突からは夕飯の準備の煙があがっている。本当に美しい光景だ。モンゴル最後の夕陽はゆっくりと地平線に消えていった。

ラーメンは卵を入れただけとは思えないほど豪華なものになった。





2015/SEP/5 「軽い遠征」

ダンバは外から戻ってくると猟銃を抱えていた。驚いて尋ねると「マーモットだ」と答えた。確かにこの辺は地面にマーモットの巣のような穴が開きまくっているが、たくさんのゲルがあるのでこのあたりで猟は危険だ。間違ってゲルを撃ち抜かなければよいが。

ジャガーは昼飯にマトンチャーハンを作った。馬使いも来たので皆でたべる。久しぶりの米は実にウマい。食べ終わると馬使いに行こうと合図して外に出た。今日はすこし離れた火山の火口まで馬で行く。往復三時間。軽い遠征だ。

火山近くは岩場なので馬はゆっくりとしか歩かないので、ほぼ自動操縦だ。馬使いのあとを勝手についていく。登り口手前で馬を停めて歩いて火口へ登った。相変わらず人影もなくこの国のツーリズムが不安になる。


帰りは丘を回って湖の遠くから帰ってきた。だいぶ駆け足に慣れてきた。馬使いもとなりで並走するので、それに合わせてこっちの馬もスピードを上げるのでムチは不要だ。馬は草原を好むようで草の上に来ると駆け始める。帰りは湖沿いをずっと駆け足で帰ってきた。不思議なことに駆け足から走り始めると馬の揺れは無くなる。駆け足で歩くときの方が細かく揺れて大変だ。だが、走り出すと馬使いは止めるよう言うのでそれ以上は未知の世界だ。もっと馬で走れるようになりたい。







2015/SEP/4 「ダンバとジャガー」

標高2000以上にあるホワイトレイクは9月ということもあり、ゴビとは比べ物にならないほど寒い。モンベルの寝袋はここにきてようやく本当の活躍の場を得た。おじさんがつけてくれた暖炉の火は夜中に消えたようで朝の冷え込みは寝袋に入っていても寒く感じるくらいだった。

9時過ぎに扉がノックされて昨日のおじさんが入ってきた。「大丈夫かー?」という。起き上がって「大丈夫だ。ここはずいぶん寒いね」と答えた。ラッキーなことにこのおじさんは英語の単語を幾つか理解できる。おじさんは隣のゲルで朝食を食べようと言った。隣のゲルはおじさんと奥さんの寝るゲルで食事もそこでとっていた。

お湯をもらいコーヒーをつくって、出されたクッキー、チーズ、バター、ヨーグルトを固めた物を食べた。すべてゴビで食べたのもよりはるかに美味しかった。奥さんはヤクのミルクから作ったと説明してくれた。おじさんはダンバといい、奥さんはジャガーだと教えてくれた。

ジャガーは実にテキパキと動き、次にミルクから作るモンゴルウォッカを作り始めた。鍋でお湯を沸かし、その中に布に詰められていたヨーグルトのようなものを入れて混ぜ始めた。しばらくすると、外に持っていってまた布袋の中に移して、吊るして水分を切っている。すこしアルコールの臭いがするが完成ではなさそうだ。

外の天気は相変わらず曇りだったが湖を歩いてまわった。他にツーリストはいないようで、湖の周りに建てられたゲルは寂しく見えた。

帰ってくると昼飯ができていたのでみんなで食べる。すこし晴れてきたのでダンバとジャガーと外に出て松ボックリから松の実を取り出す作業をした。よく露店で売っているやつだ。まさか自分がやるとは思わなかった。手は松ヤニで酷いことになっている。

晴れまが広がり始めたころに馬に乗るために馬使いを呼んでもらった。ダンバは「ワンタイム10000tgだ」と言い「ワンタイムかツゥータイムか?」と聞いてきた。かなり間違った英語だが、どうにかタイムはアワーだと理解できた。「ワンタイムだ」と答えるとオッケーと指で返事をしてきた。特に時計も確認する事なく、馬に乗り湖の周りを歩き始めた。時間はだいぶあいまいそうだ。


前回同様チューチューと言って腹をすこし蹴ると早足で進んだ。わりと行けそうだ。湖を見るために丘の上に上がりたいと言うと馬使いは了承して登り始めた。そのあとを着いて登り、頂上付近で馬を止めた。降りようとすると左足から鉄の環が抜けないで転びそうになった。なんとか足は抜けたが手綱を離したので馬が走って坂を下っていってしまった。あーあーあーと眺めていたが、馬使いは何やら怒って文句を言っている。馬を追うがスピードが全然違う。見かねた馬使いは馬を走らせて捕まえに行ってくれた。馬上で弓を引けるようになるのは無理かもしれない。









2015/SEP/3 「ホワイトレイク」

朝起きて、顔を洗いに洗面所へ行くと同じ階の殆どの部屋は清掃をしていた。みんなすでにチェックアウトしたのだろう。ポットのお湯でコーヒーを作って、ウランバートルで買ったビスケットで朝食にした。荷詰めして、レセプションにバックパックを預けて昨日閉まってて見れなかった博物館とガンデン寺を見に行くことにした。

博物館はコミュニストに壊されずに残ったお寺を使用しているので、なかなかよい建物だ。真ん中にゾクド文字の掘られた石碑があり、これは紀元前のモンゴルを知る上でとても貴重なものだろう。だが、それ以外の展示は今一つで、途中からモンゴルの近代の展示になってからは足を止めることは一切なかった。

ガンダン寺は小さいが地元の人が熱心にお参りしていて好感がもてた。ガンダン寺の裏にもうひとつ小さなお寺があったがそっちの建物はなんとゲルだった。ゲルの前にすこし悪そうな僧侶がいて、話しかけてきた。「何処から来た?」「日本だ」「僧侶か?」「違う」「何をしてる?」「ツーリストだ」こちらの答えをどれだけ理解したかは分からないが、僧侶でないことは伝わったようだった。

昼前に宿にもどり荷物をとってから乗り合いバンが出るという市場へ向かった。市場の前は買い物に来た人の車でうめつくされていた。一通り見て回るが、それらしいバンは見当たらない。しばらく歩いていると、ヒュンダイのバンの中で足を出して寝ている男がいた。その男を起こして「タリアト?」と聞くとそうだと頷いた。ほんとかなーと思ってもう一度聞くとまた頷く。「値段は?」とジェスチャーすると15000tgと携帯に数字を表示した。悪くないなと思い「何時に出るの?」とジェスチャーすると12:10と紙に書いてくれた。10分後だ。

なかに乗り込んで待っていると夫婦のような男女が乗り込んできて、運転席の若い男に指示をだした。どうやら家族のようだ。そして車は出発した。買い出しに来た家族のようで、みんなで運転中に話をしている。親父はガンガン話しかけてきて、身振り手振り説明してくる。そしてビューポイントのたびに説明をしてくれた。何を言ってるかは分からなかったが、その心意気が嬉しかった。

14:30
くらいに町について車は止まった。どうやらここがタリアトのようだ。ゴビで見たなんの魅力もない町の草原バージョンだ。モンゴルの地方の町はほんとに魅力に欠ける。何日かいると、あのウランバートルが恋しくなるほどだ。

財布を見ると細かいのは13000tgしかなかったが、親父はいいよと言って受け取った。
お礼を言ってから、ホワイトレイクに向かって歩き始めた。町を出ると雲行きが怪しくなり、二キロほど歩いたところで降り始めた。レインウェアを着て、さらに歩くと車が後ろからやって来た。なんかたくさん人を乗せてる車だ。運ちゃんにホワイトレイクと連呼するとドアを閉めて走り去っていった。現地の名前で言うべきだったかなーと考えながらまた歩く。するとまた車が来た。今度は現地名でテルヒーン ツァガーンと言うと運ちゃんは「ホワイトレイクか?」と英語で答えた。「そうだ」と答えて、「雨降ってるから取り合えず乗せてくれ!」と頼む。運ちゃんは「10000tgだ」という。「高過ぎだろ!5000でいいか?」と聞くとオッケーが出た。安く泊まれるゲルまで連れていって欲しいと言うと、「英語はあまり分からないが、何が言いたいかは理解した」と笑顔で答えた。
そして、ホワイトレイク一のリゾートに到着した。ほんとに英語はあまり分からないようだ。

取り合えず値段を聞くと「98000tgだけど、安くするとよ」言われた。そこから安くなってもたかが知れているとおもい、「近くの安いゲルに泊まるよ」と伝え、雨が止むまで中にいれてもらうことにした。二時間ほどして雨が止んだので歩いて、ゲルを探しに行こうとすると向こうの丘からザミーン ウードで会ったカナダ人カップルがやって来た。彼らも驚いた様子でお互いの行った場所や、これからの旅程を話して盛り上がった。暗くなる前にゲルを探さないとまずいので別れをつげて、湖沿いに歩き始めた。最初の三件のゲルはどれも返事がなく、かなり焦り始めた。9月に入りツーリストはいなくなったので、人気がしない。また雨が降りだしそうだ。すでに7時半を過ぎている。

しばらく歩くと前からバイクに乗ったモンゴル人のおじさんが来た。手をふって止めて、泊まれるゲルはないかと必死にジェスチャーをすると、「ゲル持ってるぞ」と言う。「ほんとかー!」と喜んで値段を聞くと15000tgという。飯は?と聞くと6000tgと携帯に表示してきた。飯は6000でいいから、泊まるのは10000にしてくれと頼むとすこし考えてからオッケーと言った。ようやく今夜の宿が決まった。

おじさんは2ケツでゲルまで乗せてくれて、「this is your ger」といって一つのゲルの前で止まった。他に客はいないようで、おじさんはさっそく煙突を天井から出して、暖炉に木を入れて火をつけた。部屋はみるみる暖まり、雨で濡れたレインコートを乾かした。

夕飯はマトンとジャガイモ入りのスープパスタだった。紅茶を作ろうとお湯を貰うと、ティーパックを入れる前からお湯が何故かすこし茶色かった。深く考えるのはよしてティーパックを入れてぐるぐるかき混ぜると、すぐに分からないくらい茶色くなった。







2015/SEP/2 「ツェツェレグの岩山」

夜トイレに行くと空は一面の星空だった。相変わらず山際は明るかったが、ゴビと変わらず天の川や人工衛星が見えた。

朝起きてダイニングへ行くと台湾人の女性が一人静かに朝食を食べていた。話を聞くとハラホリンに3泊して、これからウランバートルへ戻るそうだ。

朝食を済ませて、エルデニ・ゾーへ向かった。朝日を浴びるモンゴル帝国のお寺群はドラマチックで巡礼するモンゴル人がとても美しく見えた。近くにある日本が建てた博物館は建物のデザインの意図が分からなかったが、なかなか興味深い展示だった。日本のODAで建てた海外の建物はたいてい酷いデザインだ。センスがないなら、現地の建物を忠実に建てればよいと思う。

ハラホリンには稼働しているATMが一つしかなかったが、なんとか現金を下ろすことができた。宿にもどり、GAYAにツェツェレグまでヒッチで行くと伝えると町外れの橋まで送ってくれた。あとはひたすら通る車に手を挙げるだけだ。
だがモンゴルの交通量は少ない。すぐそこはもう草原で地平線まで動くものは何も見当たらない。

これは長期戦かなーと思ったら、目の前に一台のバンが止まった。「ツェツェレグ?」と聞くと頷いた。すぐに中に乗り込みお礼を言った。40くらいの男と助手席に座るそのお父さんらしき男、その膝の上に小さな女の子がいた。英語は全く通じないが、悪い人ではなさそうだ。

二時間半ほどでツェツェレグについた。車を降りて、お金を払う必要があるか聞くと頷くのでいくらか聞く。男は右手で4をだした。4000なのか40000なのか不明だ。4000なら安いし、40000ならすごく高い。細かな紙幣は無かったので20000tg札を渡すとニンマリと頷いた。御釣りは?と思ったが男は笑った顔で固まっている。仕方ないと車を後にした。
ここには安宿が見当たらないし、客引きもいないので、ロンプラで絶賛されているFairfieldという宿へいってみることに。しかし、そこは値上がりしていて1泊42000tgと言うので隣のNaran Hotelへ。こっちは完全にローカル用のホテルで朝食も付かないが30000tgとまだましだった。

荷物を置いて、シャワーを浴びてから歩きに外へ出た。博物館はもう閉まっていたのでその裏山に登ることにした。町のシンボルのような岩山は上の方がかなり急斜面に見えた。しばらく行くと二人の子供が遊んでいて、一緒に行くか?とジェスチャーすると着いてきた。彼らはぐんぐん岩を登っていく。かなり登ったところで、岩肌にグル・リンポチェの絵が大きく描かれたところに出た。そこはもう傾斜45度はあり、落ちれば残念なことになるのは明白だった。サンダルで来たこと後悔したが、絵の縁は岩に溝が掘ってあってそこに指を入れてなんとか登った。その上の岩に登ると町がすべて見下ろせた。素晴らしい景色だったが、その奥にはさらに高い岩山が見えた。まだあるのかーとヘコんだが子供たちは行くぞとジェスチャーする。仕方ないなと登れそうなルートを探して子供たちに指示をだした。

奥の岩山の頂上に立つとほんとにすべてのものが見えた。向こうの丘に広がる住宅群が夕焼けに照らされてとてもシュールだ。ただ、残念なことにさらに奧にもっと高い岩山があった。すでに7時半を回っていたので子供たちに下山の指示を出して下り始めた。サンダルでの下りは困難を極めた。
なんとか暗くなる前に降りなければ!







2015/SEP/1 「カラコルム」

昨夜はベットでビールを飲みながら寝入ってしまったので、カラコルムヘのバスの時間を調べわすれた。朝起きて時計を見るとすでに9:00過ぎだった。朝食をとりながら、アンディのロンリープラネットを借りて見るとカラコルムヘのバスは毎日11:00発とあった。ぎりぎりだなと思ったがすぐに準備にとりかかった。8時に荷詰めを終えて、レセプションに行きチェックアウトを伝える。不要な荷物を預かってもらい、バスターミナルへの行き方を教えてもらった。

宿を出たときはすでに10:15だった。早足でノミンデパート脇のバス停に行き、バスを待ってる間に露天でビスケットを買った。バスに乗り、運ちゃんに「ドラゴンバスターミナル」と3回告げた。運ちゃんは頷く。多分大丈夫だろう。

バスが止まり、運ちゃんがここだと合図した。すでに10:52だ。走ってバスを探す。大きなバスターミナルの建物の前に大型バスが何台か留まっていた。すると突然英語で「どこへ行きますか?」とモンゴル人女性に話しかけられる。驚きつつも「ハラホリン」と答えると、「このバスです」と教えてくれた。値段も運ちゃんに聞いてくれて、17000tgだと教えてくれた。良かったーと安心すると女性はハラホリンで姉がGAYA's Gerという宿をやってると言ってチラシをわたしてきた。どうやら客引きだったようだ。値段は朝食込みで8ドルと安いので「そこに泊まるよ」伝えた。名前を教えるとその子は姉に電話してバスターミナルに迎えに来てくれるよう手配してくれた。現金があまりなかったので、ターミナルのATMへ行くと他のモンゴル人のがハラホリンの宿の勧誘に来た。そこも値段は同じだったのでチラシをもらい、「考えるよ」とだけ伝えた。名前を聞かれたので「タツキ」と答えた。ATMはどこも中にお金が無く引き出せなかったので、バスに乗り込んだ。11時を10分ほど回っていたが、運ちゃんは待っててくれて、その後すぐにバスは出発した。

ウランバートル近郊の景色はやはり、イマイチで好きになれなかったが、二時間も走ると草原とゲルの景色になった。ハラホリン手前で黄色の花が一面に咲く草原がみえて綺麗だった。

ハラホリンに着いて、バスを降りるとネームプレート持った人が二人いて、片方は「TATSUKI」でもう一方は「KATSUKI」だった。あの二人の客引きだなと思った。しかも片方は名前を間違えてる。TATSUKIと書かれたネームプレートを持ってる人に話しかけると「私がGAYAだ。クルマで宿まで行こう」と答えた。GAYAの宿は、町から離れていたがカラコルム遺跡のエルデニ・ゾーからは近く、すぐ裏に丘があり草原へと続いていた。
宿にはゲル以外に建物もあり、どちらに泊まっても8ドルだった。ゲルは飽きていたので建物の方に荷物を運んだ。まだ工事中のようで一階部分のみ使ってるようだが、部屋はとても綺麗だった。

GAYA
に夕食を頼んで、裏の丘に登った。一番上に亀石とオボーがあり、そこから見下ろすエルデニ・ゾーは素晴らしく冷たい風がとても気持ち良かった。


2015/AUG/31 「それぞれの旅」

心配していたロシアのVISA申請はなんなく受理された。金曜の午後に受け取れるらしい。
ここのロシア大使館はモンゴル人と外国人の申請時間が別れていて、外国人は午後2時から3時の間の一時間だけだったので一回で受理されてほっとした。

宿に戻るとリサが出発の用意をしていた。彼女は北京での軍事パレードのせいで外国人が滞在できないというので中国に抜けたあと西安まで一気に移動するという。3連泊夜行はシンドイ旅になるだろう。

リサは速乾性タオルが二枚あるからと一枚くれた。持ってなかったのでとてもありがたかった。お礼に速乾性でないタオルをあげようと言ったが断られた。

リサはみんなにサヨナラを告げ、彼女の旅の最後の国となる中国へと旅立っていった。
しばらくするとアンディが戻ってきた。中国VISAの申請には間に合わなかったようで、水曜にまた出直すらしい。ここの中国大使館は月、水、金しかやってなく、今週は金曜が祝日なので月、水のみと狭き門だ。彼は今日申請して金曜に受けとりたかったが、祝日のせいで月曜受け取りになり、それではモンゴルVISAが切れてしまうので今度はモンゴルVISAの延長が必要になってしまうという悪循環に陥っていた。

アンディは不機嫌そうに自分のベッドに戻るとジップロックに入った、ビスケットとカラフルなドイツのグミを見つけて、「誰のだ?」と聞いてきた。その不気味な色のグミはリサがゴビツアーでいつも食べていたものだった。きっと彼女が西安までの車中で食べるために用意した食料だろう。

無事を祈る。


2015/AUG/30 「旨くないウマ肉」

昨日はすこし町を歩いた程度で宿でのんびりして過ごした。写真の整理は気が進まず、手がつけられなかったが洗濯は無事ランドリーから戻ってきた。

遅めの朝食をとって、宿のオーナーにテレルジの行き方を教えてもらった。もうツアーはいやだったので自力で行く方法を教えてもらった。リサを誘うと来るといい、一緒に行くことにした。

宿の近くから市バスで東端にあるバスターミナルへ向かった。そこから別のバスで発音のスゴく難しい町へ行き、そこの食堂で昼飯を食べた。焼肉定食のような物を頼みたかったが、値段の違う3種類があり、文字が読めないので困っていると右隣から日本語で「助けましょうか?」と不意に話しかけられた。見ると、言われなければ分からないほどモンゴル人の日本人が立っていた。彼は「その3つは肉が違うよ。一番高いのが牛で、次が馬、一番安いのが羊」と教えてくれた。馬が旨いと言うので馬肉の定食にした。彼は40くらいにみえたが、ウランバートルの大学でモンゴル語の勉強をしてるという。
お礼を言ってテーブルについた。しばらくして馬肉定食が来たが、臭いがキツかった。ウマがウマいと言うのは、ただのギャグだったのかも知れないなーと馬肉にしたのを後悔した。

テレルジへはさらに乗り合いのバンで30分ほどで着いた。観光地らしくたくさんのホテルとゲルが通り沿いにあり、すこしガッカリした。
ここへ来たのは馬に乗るためと気分を切り替えて、馬がとまっている場所へ向かった。ガイドもつけてもらい、3人で馬に乗り近くにあるというお寺に向かって歩き始めた。ゴビでは常に縄で引かれていたので、今度は一人で乗せてくれるように頼んだ。モンゴルではチューチューと言うと馬が進む。早く行くには足で腹をければいい。しかし、ここのガイドはバンバンムチを入れる。こっちの馬が進まないと後ろからムチを入れるので、びっくりする。大丈夫かと心配になったが、「問題ないからムチを入れろ」とジェスチャーをすっる。

ムチを入れると馬は早足で進む。大丈夫そうだ。リサは危険を察知したのか、しばらく縄で引いてもらっていたがそのうち一人で乗り始めた。寺で一度降りて鞍を締めなおして、

また同じ道を帰った。途中で近くのツーリストキャンプの敷地に馬が勝手に入り、そこから暴走し始めた。ガイドが素早く前にきて、「ストップ!」と叫んだ。手綱を目一杯引いてなんとか止まったが、一瞬まったく言うことを聞かなくなりびびった。
モンゴルでは馬に乗りながら弓を引けるようにまでなる予定だったが、どうやらそんなに簡単にはいかないようだ。そこからはかなり押さえめで乗って帰った。


2015/AUG/28 「いとしのウランバートル」

朝起きるとまだみんな寝てるようで、バイサのイビキ以外は何も聞こえなかった。
朝日が低い角度から町を照らしているので、すこし歩きに外へでた。朝日を浴びた町はドラマチックで何の魅力もないこの町を綺麗に見せた。

戻るとアンディ以外はみんな起きていて、1階で朝食を食べた。

バイサはトクサの娘二人もウランバートルに戻るから一緒に乗っていっていいか?と尋ねた。誰も反対しなかった。遊牧民は夏、人手がいるので学校の夏休みは3ヶ月とながい。その間子供たちは実家のゲルに帰り、家族の手伝いをするのだ。

いよいよウランバートルへ帰る日だ。あのウランバートルへ帰るのがこんなに待ち遠しくなるとは考えもしなかった。娘二人含め全員が乗り込みトクサはバンを走らせ始めた。

道は相変わらず悪路で草原の轍のない草の上を走ることが多かった。ただ、アンディの携帯のGPSによると四キロほど右に行けば、ウランバートルまで続く舗装された道が平行に走っていた。なぜずっとこの草むらを走るのかはトクサ以外は理解できなかったが誰も文句を言わなかった。

途中最後のストップで大きな岩山で止まった。そこは聖なる山として崇められているようだった。とりあえず登ってみたが、途中からあまりの急斜面で引き返してきた。この山は見た目ほど平和な山ではなかった。トクサはその間車の点検をして、タイヤのシャーシをとめているボルトが2本残して全て切れているのを見つけた。なんとかワイヤーで縛り上げて、出発する事ができたが、走行中に外れなくて本当に良かったと思った。

ウランバートルの郊外に差し掛かったのは、夕方前だった。遠くから見るウランバートルは灰色の雲に覆われていかにも空気が悪いように見えた。後で知ったがウランバートルは冬、北京の2倍空気が悪くなるらしい。恐ろしい町だ。

車は懐かしいピース大通りを進み、ノミンデパートの前を過ぎた。帰って来たなーと感無量になった。宿に戻るとまた前使っていたベッドに戻れた。アンディとパトリックも元いたベッドにもどり、リサはみんなと同じ部屋に移ってきた。みんな6日間も一緒だったので、だいぶ仲良くなり、だいぶ仲悪くなった。ツアーはあまり好きではないが、たまには悪くないなと思った。



2015/AUG/27 「トクサ邸」

昨夜はまた宴会で砂の上にマットを敷いて、寝袋で寝てしまった。明け方大量の蚊に気がついたが、面倒でテントに入らなかったのでかなりヤられた。そもそもテントは風で遠くに飛ばされていた。この蚊は刺されると腫れるようで、刺されたところはしこりのように膨らんできた。この辺りにやたらと動物の骨が散乱しているのと関係があるかまでは分からなかった。とりあえず、早く朝食を食べて、そこから出ることにした。

その日は世界で初めて恐竜の卵の化石が見つかった有名な谷へ寄ったが、2日目に立ち寄った場所とそう変わらい景色だった。

今日の夕飯はモンゴル遊牧民の伝統料理ホルホグを食べることになっていた。これはツアーとは関係なく食べたいということになり、バイサに手配してもらうことになったものだ。途中の町でマトン四キロを調達して、トクサの義理の弟のゲルで調理をするとこになった。

トクサ弟のゲルは観光客用ではないので、リアル遊牧民仕様だ。ゲルの中で馬乳酒をどんぶりいっぱいに出された。かなりの酸味で美味しいものではなかったが、子供たちもごくごく飲んでいた。それ以外も遊牧民乳製品のオンパレードだった。ヨーグルト以外は日本で目にするものとはかなり違った味と見た目だ。そして、そのあとはチンギスウォッカが出てきた。

きっとかなりのもてなしなのだろう。隣のゲルでホルホグの調理用の焼け石をつくり、細かく切り分けたマトンとジャガイモと一緒に鍋に入れた。待ってる間、彼らの飼ってる馬に乗せて貰えることになり、義理の弟は外の馬のほうへ向かって行った。馬は放し飼いで、必要なときに捕まえてくるようだ。バイサは「ここは観光客を乗せるとこではないから、半野生だよ。気を付けて」と言ったが、どう気を付ければいいかさえ分からなかった。結局、馬に乗った少年が馬をロープで引いて辺りを廻っただけなので特に危険はなかったが、見渡す限りの草原で乗る馬はかなり気持ちよかった。

ホルホグはいわゆるバーベキューのようなものなので、想像通りの味がした。脂肪の塊もいただいたが、モンゴル人以外は食べなくて良い思った。

それからまた宿泊地へ移動をしたが、その日の宿はトクサの家だった。トクサ邸は町のなかの立派な家だった。トクサ邸につくと家族がビールやらホーショールやら用意をしてくれていて、また飲み始めた。トクサはゴールデンチンギスを開け、また各国語での乾杯が始まった。

テラスで酒を飲みながら羊の足首の骨をサイコロ代わりに使う遊牧民のゲームを家族と遅くまで楽しんだ。見上げるとここでもやはり満天の星空が広がっていた。







2015/AUG/26 「Hidden Gem」

今朝は朝イチからラクダに乗ることになっていた。あの元気のないラクダかーと不安だったが、乗るとしっかりとした足取りで歩き始めた。サハラ砂漠でも乗ったがラクダは臭い!ロープで繋がれているので操縦は不要でツーリストアトラクション感が強いのであまり好きではなかった。

ラクダは昨日とは別の砂丘まで行き、そこからは歩いて砂丘を堪能して、またラクダでゲルに帰った。

そして、また景色の変わらない移動が続いた。揺れが酷く眠ることもできないので暇だ。リサはシリトリをしようと言い出し、どーでもいいシリトリがしばらく続いたが、どちらかと言うと山の手線ゲームの方が盛り上がった。ランチで止まると、もはや何もないことに慣れてしまったみんなは時間をもて余し、車の影で寝て調理完了をひたすら待った。
この日の移動は長く、道も悪かった。

しばらくして、景色のなかにモニュメントバレーのような山が見えた。その山はさらに低い岩山に囲まれていて、岩山の切れ目からなかに入れそうだった。バイサに今日はそこでキャンプできないか聞くと、降りて確認しに行った。入り口に深そうな砂があり車がそこを越えれればキャンプできそうだった。トクサはまずまっすぐに砂を越えようとしたが諦めて、砂の左を廻ってなんとか越えた。

真ん中の山の目の前に車を停めてテントを張った。素晴らしいロケーションだ。バイサもトクサもキャンプしたことのない場所だった。

山の頂上へ登れそうなルートを探しに行った。裏側からすこし垂壁を登る必要があったが登れそうなルートを見つけた。試しに登ると上からは囲んでいる岩山の向こうまで360度見ることができた。夕日の時間にアンディを連れて再度登ると、そこからは遥か彼方の地平線に消えていく夕日が見えた。本当に良い場所を見つけたと満足感が込み上げてきた。

 




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