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2016/MAR/1 「ティラピアと夕陽」

ムパタサファリクラブの豪華な朝食をたべ、シャワーを浴びるとすぐに荷物を運ぶためにスタッフが部屋にやって来た。本当は朝イチに誰もいないプールに飛び込んで、泳ごうかと思っていたが、そういう気温ではなかったので二度寝してしまった。

荷物を運んでもらいレセプションに行くと市原さんが待っていた。ここからキルゴリスという町までは足がないので、ホテルのスタッフが休暇で帰省するときの車に一緒に乗せてもらうことになっていた。そこからはマタツを二度乗り換えて、キスムまで行き、翌日にウガンダ国境を越える予定だ。

車には帰省するスタッフが6人ほどすでに車に乗って待っていた。市原さんにお礼を告げて、車に乗り込んだ。市原さんからは昨日面白い話を聞かせてもらったので、時間とお金に余裕があればもう一泊してもっと話を聞きたかった。「私の夫はマサイ戦士」という本を書いたマサイ族と結婚した日本人女性も友達だといい、その村はこの近くだという。この前エンブでお世話になったNGOの塩尻さんとも知り合いのようだ。

ホテルを出たところで突然、車が止まり何だろう?と後ろを見るとスタッフ達が目を閉じてモゴモゴと何やら唱えている。「何をしてるの?」と聞くと一人が旅の安全の祈りだと答えた。マサイ族にはこんな風習もあるようだ。この辺りはマサイ族の中でも、一番発展が遅れていて、来るときに見た村もサファリツアーで行った作られた村とは明らかに違っていた。本物のマサイ族だ。

キスムへはキルゴリスからマタツに乗り、キシという町へ行き、そこから別のマタツで三時間程で着いた。

ナイロビで再会を果たした厳ちゃんからはビクトリア湖の周りのレストランでティラピアという魚を食べるよう勧められていたが、魚は何時間も前に揚げられて並べてあったし、生の魚は何日もそこに放置されているようでカピカピで、とてつもない数のハエが止まっていた。

それでも湖畔のレストランに入って腰を下ろしたが、全く綺麗ではないビクトリア湖の水を見ると、もはやティラピアを食べる気にはならなかった。

しばらくすると雲に隠れていた太陽が顔を出し、どんどん水平線に向かって降りて行った。空も赤みを帯び、夕日を船上で見るための客を乗せた船が出発して行く。いい景色だ。

湖に夕陽が沈むのを見てから、宿への道を歩き始めた。ケニア最後の夕日がビクトリア湖とは豪華だなーと思った。明日はいよいよウガンダだ。




2016/FEB/29 「ケニアの地平線」

ウクンダから戻ると小黒さんのホテルの現地会社社長の佐藤さんからメールが来ていて、急遽小黒さんのホテルを見に行くことにした。ホテルはタダになるわけでもなく、マサイマラ国立公園の西端にあるホテルまでは自力で行かなければならないが、20年以上も前に小黒さんが苦労して建てたというホテルには無性に興味がわいた。小黒さんと一緒に出張したときには親の遺産金で建てたとしか聞いてかなかったが、調べるとムパタというティンガティンガの弟の画家との出逢いから始まっていること、建てたときの話が伊集院静の小説「アフリカの王」にもなっていて、ここまで来て見ないわけには行かないと思った。

小黒さんのホテルへは通常、プロペラ機で最寄りのエアーストリップと呼ばれる草原の中の滑走路へ降り立ち、そこからはホテルの車の送迎らしいが、プロペラ機は片道180ドルと適さなかったので、ナイロビからマタツを乗り継いで行くことにした。これはニューケニアロッジのスタッフもさすがに行き方を知らなかったが、佐藤さんが親切にもマタツでの行き方を教えてくれた。

佐藤さんから「ナロックからのマタツは1本しかなく、10時くらいに人が集まり次第出てしまう」と聞いていたので、目一杯早くナイロビを出てナロックへ向かうことにした。4時半に起きて、荷詰めし、昨夜作っておいたサンドイッチを半分たべた。残りは道中のランチにする。

チャイを沸かしているとナナちゃんが見送りに起きてきた。彼女とはベオグラードで会って以来、四か月ぶりに再会したが、食中毒で寝込んでいたので話す機会はあまりなかった。しばらくナイロビで休養してからまた南下するらしい。ナナちゃんの目覚ましのせいで起こされたチアキちゃんも迷惑そうな顔で見送りに起きてきた。二人にお別れを告げ、昨日調べたマタツ乗り場へ、まだ真っ暗のナイロビダウンタウンを歩き始めた。

二日前にロンゴノットへ行く時にマタツの乗客が集まるのを一時間半も待ったので覚悟していたが、5時過ぎに乗場に着くと、第一便のマタツに乗る乗客がすでに集まっていて、すぐに出発することができた。

ナロックには8時半に到着。そこからマラリアンタ行きのマタツに乗り継ぐハズだが、マラリアンタ行きのマタツには誰も乗ってない。露天でチャイを飲んで待っていたが、10時になっても乗客は二人しか集まってない。このマタツは14人集まらないと出ない。。。

運ちゃんに出発時間を聞くと多分12時くらいと言う。んーー なんのために朝4時半に起きたのだろう。12時と聞いてかなりガッカリしたが、マタツが出発したのは更に一時間後の午後1時過ぎだった。運ちゃんは全く急ぐ雰囲気はなく、マサイ族の村に物を届けるためにしょっちゅう止まり、携帯で友達と話ながら、終止マイペースだった。

途中から道はなくなり、回りにはゼブラやらトムソンカゼル、ヌーが現れ始めた。他にも猪やアンテロープなどサファリツアーで見たより各々の個体数は多いようにさえ思える。右側の草原にはキリンが四頭走っている。もう完全にサファリだ。300ドルも払ったサファリが、なんとマタツに乗って見られる。このマタツの路線は半端ない。しかも、運ちゃんは写真を撮ると、気を使って車を止めてくれるというサービス付だ。ライオンやチーターは見れないが、そんなにお金をかけたくない人にはこれで十分な気がする。何よりサファリのように回りに他の車が走ってないのが良い。

三時間程たつと集落っぽいところに差し掛かり、窓から外を眺めていると「田付様 Mr TATSUKI」と書かれたボードをもったマサイ族の男がいた。ホテルのスタッフがバイクで迎えに来ると言っていたのはこの人に違いなかった。

小黒さんのホテル「ムパタサファリクラブ」はマラリアンタの裏の山の上に建つ、マサイマラを見下ろす高級ホテルで、スタッフのバイクに荷物を縛り付け、2ケツで45分の場所にあった。道中、大きなアンテロープやシマウマ、キリンが現れ、バイクを降りて、スタッフと散策したりしたので到着したのは5時過ぎになってしまった。

迎えてくれた市原さんはここに15年も住んでいるケニア愛がにじみ出てる人で、ホテルの案内をしてくれた。チーターに呼ばれてケニアに来たというのも本当のように聞こえた。24年前に建てられたホテルの建物は、清掃がいきとどいて、とても綺麗で、よくこんなところに建てたなーというくらい立派な物だった。客室からは山の下のマラリアンタ村、曲がりくねりながら流れるマラ川、そして地平線まで広がるサバンナが眺められた。夕暮れに照らされた何処までも続く草原は、昔、想像していたケニアのイメージに重なるように一致した。このサバンナはタンザニアまで繋がっている。この時期は多くの動物が草を求めて、タンザニア側にいるはずだ。彼らにはケニアもタンザニアもないことだろう。

東京の小黒さんからはサプライズがあり、夕食の時にワインを1本つけるように市原さんに伝えてくれていた。以前ベトナムへ出張で一緒しただけなのに、こんな心配りまでしてくれるとは感激だ。

サファリツアーで一度来た、マサイマラに今度は自力でマタツを乗り継ぎ来て、普段泊まっているゲストハウスの15倍もの宿泊費のホテルに泊まることになったが、地平線を見ていると本当に来てよかったと思えた。ここには想像していたケニアがある。












2016/FEB/28 「チーニー攻撃には戒めを」

アフリカを旅すると、何度も「チーニー!」とか「チンチョンチャン!」とか言ってくる輩に会う。普段はシカトするか、本当に中国人だと勘違いしてそうなヤツには日本人だよと答えたりすることにしている。

ここナイロビはエチオピアと並び、チーニー攻撃が酷い場所と言える。ダウンタウンの中心でニューケニアロッジから歩いてすぐのマタツが止まっている所で、マタツの呼び込みが通る度に「チーニー!チーニー!」と声をかけてくる。ある朝、朝食を食べに出ると、殆どの食堂はまだ空いてなく、宿へ帰ろうとするとそこのマタツの客引きが「チーニー!チンチョンチャン!」と言ってきた。そいつらを見ると更にカンフーのポーズをとってアチャーみたいな声を出してきた。流石に何度も通っているし、日本人だと分かっているので明らかにバカにしてるなと思って、マタツに向かって歩き出すと一人は走って逃げ出した。追いかけるとずっと遠くへ逃げたので、ニヤニヤしてるもう一人に近づき、太ももの側面に膝を一発入れる。よろけて下がったところをローキックを2発入れた。すると走ってチケットオフィスに入って扉を閉めたので、扉を思いっきり蹴飛ばし、さらに外にあったプラスチックチェアーを通りの反対側までぶん投げた。

回りで笑って見ていた群衆もビックリして、緊張の表情に変わった、誰一人目も会わせてこない。そこにいる全員を見わましてからホテルへの道を歩き始めた。これで暫くは日本人にはちょっかいを出さないだろう。

別に全てのチーニー攻撃にこんなことはしないが、明らかなバカにされて黙ってる必要はないと思う。日本人は大人しいので、我慢して通りすぎて終わりという人がほとんどだろうが、何もなければどんどんエスカレートする。

エチオピアでも一度しつこいやつのケツを蹴りあげたことがある。回りの群衆が大笑いしてソイツも恥ずかしそうにその場を離れていった。

まーソイツも悪気があるからケツを蹴られたくらいでは文句は言えない。喧嘩にはならない。

旅人によって対応は違うのだろうが、こういうヤツラをつけあがらせているのは日本人にも原因はある。腹がたったのならそれを伝えるくらいはしてもいいと思う。

2016/FEB/27 「雨にも負けず」

エチオピアのシメン山のトレッキングで会った、ケニア人の奥さんをもつドイツ人の医者から勧められたケニアの見所が3つあった。マサイマラ国立公園、ザンブル族、最後はロンゴノット山だった。

東アフリカヴィザをカイロで取ってしまったためにすでに有効期限の3ヶ月が切れるまで5日しかなかった。カイロからここまで3ヶ月もかかるとは思ってもなかったが、ケニア国内では東アフリカヴィザの延長はできないので、ヴィザが切れる前にウガンダ国境を渡り、すぐにまたケニアに入国し、入国時に再度、東アフリカヴィザを取り直すことにした。東アフリカヴィザは100ドルだが、3ヶ月間、ケニア、ウガンダ、ルワンダのマルチエントリーが可能なヴィザだ。ウガンダ(80ドル)、ルワンダ(50ドル)のヴィザを個別で取るよりも30ドル安くなる計算になる。

ザンブル族はザンブル国立公園の中に住んでいて、車のチャーターと入場料80ドルが必要で諦めることにした。ロンゴノット山はニューケニアロッジのスタッフに聞くとナイロビから日帰りが可能だというので、荷物を置いて早朝に出ることにした。

ナイロビのマタツ乗り場は行き先ごとに場所が違い、把握しずらい。教えてもらったロンゴノット行きやナイバシャ行きのマタツ乗り場へ行き、チケットを買って、マタツに乗り込んだ。他に乗客は一人。14人集まらないと出発しない。ナイバシャ行きはすぐに人が集まって、どんどん出るが、ロンゴノットはいっこうに集まらない。チャイを飲んで、ヨーグルトを食べて、ドーナツを買うか悩んでいるときにようやくマタツは出発した。

ロンゴノットへの道はマサイマラに行ったときと同じ道で、左側にはGran Lift Valleyが見える。その先に見える丘のようなクレーター山がロンゴノットだ。遠くから見るロンゴノットは火口の周りの高さが均質でなく、薄く伸びた大地の縁が、かっこ良い。

国立公園ゲートまではわりと遠く、歩いて30分以上かかった。入口には大きなバスが止まっていて、小学生が山ほど飛び出てきた。遠足のようだ。登山というよりは、ピクニック用の山のようだ。他にも何かの団体のようなグループがいて、週末のせいか、かなりの数だ。

入園料を払い、緩やかな傾斜を登り始める。青空にまばらな雲か浮いて、登山にはいい天気の
ようだ。火口までは一時間くらいで着いた。大きな火口の底は緑で覆われていて、まるで森のようだ。火口の淵の一番高いピークが対岸に見える。少し険しそうに見えて、なかなかいい感じだ。火口の外の景色は一面のサバンナが広がり、西側にはナイバシャ湖も見える。なかなかいいところだ。

火口の回りは4kmくらいはありそうだが、道は平坦で簡単に進むことができた。ところが、半分を過ぎたくらいで、どう見ても雨雲っほい雲が火口を覆い、しばらくすると雨も降りだした。道もピークへ向けて険しくなり、雨のせいで土が泥になり始めた。頂上に着いたときは、雨は横殴りになり、服もバッグもびしょ濡れで、5分と滞在する気にはならなかった。小学生たちは全く気にせずに、走って登ってくる。子供でなくとも、ケニア人たちは雨をあまり気にしない。皆、笑いながら、泥沼のような道を登り、降っていく。雨具を持ってる人など皆無だ。

結局、公園入口に戻ってくるまで雨は降り続けた。ケニア人たちも濡れちゃったよーみたいな感じで笑って戻ってきた。皆陽気だ。ここはアフリカだ。








2016/FEB/25 「遠浅なビーチ」

ウクンダのビーチは日差しが強く、果てしない遠浅だった。水は綺麗だが、海草が多いのでもったいない感じだ。日中は引き潮だったので、殆ど泳いでる人もいなく、客引きくらいにしか会わなかった。ビーチ沿いのホテルを覗くと、欧米人がプールサイドでデッキチェアーに寝転がってくつろいでいる。ここに来る日本人はいないようで、3日間でひとりの日本人も見かけなかった。

遠浅の海に遠くまで歩いて入り、砂でできた島に行ってみたり、ビーチ沿いのお土産屋で、木彫りのキリンのお面を買ったりして、宿に戻り、あとはまったりとして過ごした。

夕方にビーチへ戻ると満ち潮で水際が20mも手前に移動していて、ビーチまで波が届くようになっていた。観光客はいなかったが、ローカルたちは泳いだり、波に向かって突撃したりして遊んでいて楽しそうだ。

ここはゆっくりするにはいいところだが、カイロで取った東アフリカVISAの有効期限があと1週間しかなくなっていた。東アフリカVISAはケニア国内では延長できないので、ウガンダ国境へ行って取り直す必要がある。たぶん、その後はケニアへは戻らず、ウガンダへ抜けるだろう。そろそろケニアでの残りの時間を何処で過ごすか、決めなくてはならない。







2016/FEB/23 「モンバサ」

モンバサ行きの夜行バスは信じられないくらい揺れた。首都から第二の都市への道がほとんど未舗装というのも信じられなかった。その上、いたるところにスピードブレーカーがあり、そのたびに天井に頭をぶつけそうになり、そのうち何度かは実際にぶつけた。モヤレからナイロビのバスをみんな酷いというが、こっちのほうがぜんぜん酷かった。

7時くらいにモンバサに着いた。町の何処にいるかわからなかったが、バス会社のオフィスに荷物を預けて、宿を探しに行くことにした。とりあえず、大きな通りを町の中心へ向かって歩いていくと、マーケットを見つけた。なかなかの活気で、たくさんの野菜と香辛料が売られている。町はイスラムの雰囲気が漂い、ナイロビとはかなり違う。市場の周りには商店街が広がり、買い物客で賑わっていた。この商店を見て回るうちに気がついたことは、インド系の顔が多いことだ。インド人やパキスタン人の店がたくさんあり、どこかなつかしい感じがする。話を聞くと100年以上も前に彼らの祖先が、貿易のためにアフリカまできて、そのまま残ったという。命も顧みず帆船でインド洋を渡ってきた勇敢な人たちだ。

世界遺産になっている旧市街は、思った以上に普通の汚い町で、それほど雰囲気があるとは思えなかった。海沿いには有名な要塞があり、オマーン統治時代にそこから奴隷をザンジバル島の奴隷マーケットへ送り出していたらしい。地下の牢獄から海へと直接つながる階段が今も残されていて、奴隷が送られるのが想像できた。要塞の砲撃台からは周りの海が眺められたが、海はそれほど綺麗ではなさそうだった。

モンバサのビーチは町から少し離れたところに幾つかあり、モンバサに滞在すると不便に感じた。街も一通り見たので、ビーチの近くに滞在したほうがいいなーと思い。30キロほど南にある、このあたりでは一番というウクンダのビーチへ移動することにした。

モンバサの旧市街の南端の船着場へ行き、対岸へ渡り、そこからマタツでウクンダにたどり着いた。ウクンダの町からビーチへは少し距離があり、ビーチ沿いにはリゾートホテルが建ち並んでいた。海沿いのホテルは当然高いが、ビーチから通りを1本挟めば、そこまで高くない値段で比較的いい宿に泊ることができた。キッチン付きの長期滞在用ヴィラを交渉して借りた。部屋にはWifi、ホットシャワー、エアコンが付いていて、敷地内にはプールまであった。宿泊客は何故か、年配のヨーロピアンで現地の女の人を連れたおじさんか、年配のヨーロピアンで現地の男を連れたおばさんだった。別に現地で若い男、女を買っているとは限らないが、ついついそういう考えが浮かんでしまう。今までにもそういう場所を何度も見てきたが、よく考えると日本人のおじさんも海外でさんざん女を買っているので、どちらもほめられたものではないなーと、なにも言えなくなる。そうこういってるうちに自分もおじさんになりつつある。気をつけよう。











2016/FEB/22 「旅で役立つ職業」

今日、ナイロビに戻ることにすると話すと、エンブの町へ買い物にいく時にマタツ乗り場まで車で送ってくれるということになった。

朝、仁朗くんが朝食に呼びに来てくれて、永江くん、ユウジロウさん、カロさん、塩尻さんと朝食を食べた。ユウジロウさんはヨーグルトとマンゴーのシェイクをミキサーで作ってくれた。アルジャーラという舌に刺激のあるケニアのヨーグルトと甘いマンゴーの組合せは抜群に旨かった。ユウジロウさんも仁朗くんと同じ、天理教の宣教師で実家が教会なので跡取りだという。すでに10年連続でこの施設に来ていて、スワヒリ語もぺらぺらだった。

塩尻さんは朝食のあと、自身で施設の案内をしてくれ、オフィスでも色々と話をしてくれた。オフィスの階段からはうっすらとケニア山が見れた。頂上には飛び出た岩のような山頂があり、登頂には登攀技術が必要らしく、普通の人はその下で登頂とするらしい。いつかあそこまで登ってみたいなーと思った。

エンブのマタツ乗り場まで送ってもらうと、ユウジロウさんが運ちゃんに値段交渉してくれた。マタツは人が集まると、その場を離れた。もう少し、ここにいてもいいかなと思っていたが、日本から来ているボランティアは施設にお金を払っていると聞いて、タダで長居させてもらうのはまずいと思って、早く出ることにした。なにかしてあげられることがあればと思ったが、ここには建築士は必要とされていなかった。

旅をしていると、何か自分ができることはないかと思うことが結構あるが、設計という仕事はそれほど役に立つことはない。構造や設備ならまだあるかもしれないが、意匠設計は先進国以外で役に立つことの少ない能力なのかもしれない。アフリカではまず、建てられるということ(構造)、それが使えるということ(設備)が優先で、意匠についてはどうでもいい感じだ。強いて言えば建物の色くらい。つまり塗装。まーナイロビのような都会の立派なビルやホテルなら意匠という考えも出てくるだろうが、旅でそういう関係者には会うことはない。会うのはごく普通の人達だけだ。じゃーどんな職業が役立つのか?やはり医者だろう。医者はどこでも大歓迎。でも意外といいなと思うのはパン屋とかケーキ屋だと思う。アフリカは何処もパンが不味いし、ケーキは、もはや異次元の食べ物だ。ちょっとオシャレなカフェがあっても、ケーキが酷いということが多々あった。彼らに美味しいパンやケーキの作り方を教えて旅すれば、アフリカのパンのクオリティーは格段に上がるはずだ。何より建築のような莫大な投資が必要なわけではないので、みんな実行するだろう。

マタツ乗り場から歩いて、ニューケニアロッジに戻ると宿には大勢の日本人で溢れていた。ナイロビはアフリカ縦断の南下組も北上組も必ず通る要所で、日本人は皆、ニューケニアロッジに泊まるので、ここには日本人が次々とやってくる。ここは周辺国のどこの都市より快適なのでついつい長居してしまうのだろう。まだ、ドミのベッドは空いていたが、今日はこのまま夜行バスでモンバサへ向かってもいいかなーと思った。








2016/FEB/21 「バオバブの木登り」

朝起きて、永江君とダイニングへ行ったが、誰もいなかった。週末なので皆、まだ寝ているのだろうと、オフィスへ行ってみることにした。オフィスには塩尻さんがいて、挨拶をすると施設のカフェで朝食でも食べようという事になり、朝食をご馳走になった。「よくここで朝食をご馳走になるの?」と永江君に聞くと、「いや、初めてです」と答えた。

塩尻さんは「今日は何をするんですか?」と聞いてきたが、こっちが聞きたいくらいだったので「わかりません」と答えると、「今日、何人かマキマの孤児院に行くから、一緒にいったらいい」と言い、なにやら携帯で指示をだした。たしか昨日、永江君がそれに行きたがっていたが、車に乗れる人数のせいで、行けないようなことを話していた。

実は少し前にそのマキマの孤児院は日本のTVで紹介されたらしい。ケニアのエイズ孤児のための施設でかなり反響があったらしく、それを見て、ボランティアに応募する人が、かなり増えたらしい。サファリに来ていたアリサちゃんという女の子もその孤児院で働くためにきたという。

塩尻さんはかなりのワンマンで思いつきでどんどんプラン変更する。たぶんかなり混乱を招いているはずだが、この施設では絶対的な立場なので、皆、塩尻さんの言動には常に注意を払っていて、中には媚を売っているような態度のスタッフもいる。永江君のように若くて、来たばっかりの人は、他のボランティアにも気をつかい、運営に関わっているスタッフにも気をつかうので、かなり大変そうだ。彼から見れば塩尻さんは神だ。

その神が指示を出したので、あっさりとマキマ行きの車の座席は確保できた。永江くんもいけることになり、喜んでいた。

いける人が増えるということは当然行けない人も出る。昨日、行くと言っていたスタッフは何故か行かないと言い、何とか1台の車に6人納まった。マキマまでは来るまで2時間ほどで、行く途中にバオバブの木がある場所へ寄ってもらえることになった。

ケニアのバオバブは、写真でよく見るマダガスカルのものとは違った見た目をしていて、大きい木ではあるが、マダガスカルのほど胴長ではない。木には蜂蜜を集めるために樽が上げられていて、その樽を上げるための木の杭が幹に何本も刺さっていた。その杭をつたって、木の上まで登ることができ、これがなかなか楽しかった。もうずいぶんクライミングをしてなかったが、このバオバブの木登りはクライミングを思い出させるには十分なスリルがあった。まだ現地に住んでる人にしか知られていないが、観光客に知られれば、一気に人が押し寄せるポテンシャルがあるなーと思った。

マキマの孤児院に着いたのは昼過ぎだったが、施設に着くと、エイズ孤児達が歓迎のダンスを見せてくれた。これはかなり練習を積んでいるようで、すばらしかったが、最後にひとりひとり将来の夢を語るという涙をさそう演出があった。すべての孤児がエイズに感染していて、「みんな夢が叶うまで生きられないのかなー」と泣きそうになったが、今は毎日薬を飲めば発症を押さえることができると後で教えてもらった。

広大な敷地の孤児院は国立公園と隣接していて、丘からは公園を眺められた。ここからは公園の中の川に水を飲みに来るゾウが見られるらしい。さすがケニア、スケールが大きい。
この辺りは乾燥していて、水の確保が大変らしく、あたりに住むケニア人は皆、離れた川まで毎日水を汲みに来ていた。この川では、水を汲む以外にも、洗濯する人、魚をつかまえる人がいたが、腰まで深さがあるのに、対岸から川を渡ってくる人もいた。

エンブに戻るとすでに、薄暗くなっていた。お堂の前を通ると、小学生を集めて塩尻さんが話をしていた。このNGOは元々、天理教が母体だった。数年前に天理教は手を引いたが、塩尻さんを始め、長くボランティアに来ている人は天理教の人が多い。なので施設にも天理教のお堂があり、朝と夕方には勤行があるし、いたるところに天理教のマークがある。この施設の運営する小学校も夕方に天理教の半被を着た塩尻さんが話を聞かせるのが日課だった。

塩尻さんはこっちに気がつくと、お堂の中に入るように言った。壇上に呼ばれて、何かと思ったら、子供達に話をきかせてくれと言いだした。スワヒリ語は話せないと言うと、英語で大丈夫だというので、子供達に今回の旅の話をした。20分ほど話をして、その後、質疑応答の時間まであった。かなりの進学率を誇る、NGOの小学校だけあって、優秀な子供達はどんどん質問をしてきた。いかにも子供らしい質問だったが、旅の予算などお金に関する質問が無かったのは、かなり空気の読める子供達だと思った。旅の話は子供達には新鮮だったようで最後には満場の拍手で見送られた。

その夜、部屋にいると塩尻さんからダイニングに呼ばれ、永江くんと一緒に行くと、お酒でも一緒に飲もうと飾ってあったワインとウイスキーを出してくれた。塩尻さんは旅の話のお礼をいい、かなり上機嫌に見えた。塩尻さんは旅のことをいろいろ質問し、その後、今すすめているダチョウファームや消防士学校の話をしてくれた。きっと、ここには旅人が来ることはないのだろう。永江君はまた「こんなこと初めてです!」と部屋に帰ってから言った。短い期間だったが、ずいぶん塩尻さんと仲良くなった気がして、うれしかった。













2016/FEB/20 「エンブのNGO」

マサイマラのサファリからナイロビに戻ると、宿にNGOの人たちの迎えがきた。3日間のサファリでわかった事は、自分はあまり動物が好きではないということだった。

サファリのキャンプサイトで一緒だった若者達と仲良くなって話を聞くと、彼らは皆、アセフというNGOの人達で、短期のボランティアでケニアに来ていると教えてくれた。折角なので休みをもらってマサイマラのサファリに来ていたそうだ。ちょっとNGOの施設を見させてもらえないかと聞くと、一番年上の仁朗くんが、その場でNGOのボスに電話してくれて了承をとってくれた。ちなみにこの仁朗くんは天理教の宣教師で、キャンプサイトにいる時にマサイ選抜とのサッカーで疲弊した足を天理教に伝わる、‘おさずけ’というお祈りで治してくれたマジカルな青年だ。

宿から彼らの車で、そのNGOの本部のあるエンブという町へ走り出した。エンブはケニア山の南東に位置する小さな町だ。これといった観光地もない。エンブに行く途中、車からは一面の田んぼが見え、助手席のスタッフが「ここはJICA20年ほどかけて、田植えを教えて、拓いた田園だ」と教えてくれた。今では、ここの米はブランド米になるほど有名だという。JICAは本当にいろいろな土地でいろいろなことをしている。アフリカでもいろいろな場所でJICAのプロジェクトを見たり、聞いたりしてきた。当然それらすべてが成功を収めているわけではなく、お金と時間を費やしても、ほとんど成果を挙げられてないプロジェクトの話もきいた。ここは数少ない大きな成果を残したプロジェクトなのかもしれない。

エンブの施設に着くと、部屋に荷物を置いて直ぐに車でレストランへ向かった。今日はちょうど数人のボランティアの送別会だったようで、それにそのまま参加することになった。

店に着くと15人くらいがテーブルを囲んでいた。老若男女様々な人がいる。最年少は大学生で最年長は好意的に見ても65はいってそうだ。皆、この人誰?という視線を投げかけてくる。まー、確かにそう思うだろう。自分でも、送別会には参加しなくていいのではと食事中ずっと思っていた。

NGO
を運営しているダイレクターの塩尻さんが最初に挨拶して、ボランティア全員から帰国するボランティアへそれぞれスピーチがあった。なぜかこっちにも順番がまわってきたが、帰国する人達も初対面だし、話すこともないので自己紹介をしてみたものの、皆、旅人には興味薄だ。。。

NGOなので質素なのかなと思っていたが、割りと豪華な食事が出て、ビールもじゃんじゃん注がれた。結果的に訪問のタイミングとしてはベストだったと思った。

その日は施設に戻ってから、みんなで地元のクラブへ繰り出し、戻ったのは朝の4時だった。踊りの苦手な日本人のなかで、ダンス経験者の仁朗くんは黒人に混ざり見事な踊りを披露した。おとなしそうな仁朗くんは、実は踊る宣教師だった。施設の部屋は二人部屋でサファリに来ていた永江くんの部屋の空いてるベッドを使わせてもらった。永江くんもボランティアに来て、まだ間もないのでそんなに施設のことは分からないらしいが、簡単に施設やボランティア達のことを教えてくれた。

明日は何をするのかも分からないが、まー流れに任せよう。




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