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2016/JUL/2 「ヴィクトリアフォールズ」

アフリカにはとても有名な滝がある。世界三大瀑布の一つヴィクトリアフォールだ。カイロから南下してきてこれを見ない人はいないだろう。だが、そういうところに来るといつもテンションは下がる。たくさんのツーリスト。ツーリストのためにできた町。そういうのはバックパックを背負っているとどうも馴染めない。夏休みの短期旅行ならきっと楽しいのだろう。ツーリスト用のレストランで気前よく散財することのできない、ストレスが滞在を不快にする。

ヴィクトリアの滝はその名もヴィクトリアフォールズという町にある。これはこの町が滝の観光のためにできたことをあらわす。ブラワヨからは夜行列車で朝に着いた。ブラワヨのウェルカム隊員坂本さんは夕飯をご馳走してくれ、その後、わざわざ駅まで見送りに来てくれた。アフリカの寝台車というのも興味あったが、ジンバブエの寝台車も今までに見たことないキャビンのつくりで期待を裏切らなかった。

ヴィクトリアフォールズの駅に到着すると、宿まで歩き、チェックインをして、庭にテントを張った。夜行明けだから、今日は休もうかと思ったが、歩いていける距離なので、今日、滝に行ってしまうことにした。

ヴィクトリアの滝はザンビアとジンバブエの国境になっていて、その7割がジンバブエ側だ。なので見るなら断然ジンバブエ。ザンビア側には、リビングストンアイランドという滝の上の島まで行き、滝が落ちる部分にある天然のプールで泳げるというとてもスリリングなツアーがあるが、それは水量の少ない時期に限定されるらしく、今行けば、ツアー一行一人残らず滝つぼへ吹っ飛ばされるだろう。

ヴィクトリアフォールがイグアスやナイヤガラの滝と違うのは、滝が上流から流れてきたザンベジ川に対して横に開けた地面の裂け目に落ちていくとこだ。ザンベジ川は滝の手前で数百メートルの幅になり、その割れ目に落ちてゆく。割れ目は細長く、滝の対岸とは20メートルほどしか離れていない。そのためジンバブエ側の滝を見るためのトレイルは、その割れ目に沿って滝の対岸に作られていて、滝をすぐ目の前で見ることができる。だが、近すぎるので全景を見られるポイントがない。あまりに細い割れ目に滝が落ちているので、ザンビア側にもそういったポイントはないだろう。しかも、水飛沫が半端なく。全身水びたしになる。雨季が終わったばかりのヴィクトリアフォールズは、これでもかというくらい水飛沫をあげている。

トレイルにはいくつもビューポイントが設けられていて、もちろんビューポイントからの景色はいいが、ヴィクトリアの滝を見るのは、たぶんヘリが一番だろう。高いので乗らなかったが、たぶん森の中を流れるザンベジ川が地面にできた大きな亀裂に落ちてゆく様は壮大なことだろう。ヴィクトリアフォールズに限らず、大きな自然は空からに限る。以前ベネズエラのギアナ高地へ行ったときに、落差世界一の滝、エンジェルフォールのベース、カナイマへのセスナが、ギアナ高地の奥地へ運ぶ物資を積んでいたため、カナイマよりはるか奥の集落へ寄ってからカナイマへ到着した。たまたまそのセスナに乗り合わせたおかげで、ギアナ高地をセスナで一周することができた。そのときに見た数百におよぶテーブルマウンテンとそこから流れる数千もの滝、地上に広がる密度の高いジャングルとテーブルマウンテンの上の森は、ヒマラヤ、ソルクーンブと共に今までに見た中で3本の指に入る絶景だ。

最後は水を被りすぎて、途中からはカメラも動かなくなった。なかなか楽しい体験ではあった。公園を出て、ザンビア側にかかる国境の橋へ行ってみた。橋の手前でパスポートを預けて、橋の中央へ歩いて向かった。橋の真ん中ではバンジージャンプの客が橋から飛び降りている。いろいろなアクティビティーがあるが、これだけはイマイチ楽しさがわからない。高い金払って、橋から飛び降りる気にはどうしてもならない。いつかわかるときが来るのだろうか。


明日はヴィクトリアフォールマラソンが行われるらしい。宿にはやたらとJICAの隊員が泊っていたのはそのためだ。橋を渡ったザンビアのリビングストンからも隊員がやってきていた。きっと現地に住む彼らからしたら、またとないビッグイベントなのだろう。もうこの町でやるべきことはない。明日はボツワナへ抜けよう。











2016/JUL/1 「JICAの体育押し」

ブラワヨの町はなかなかいい雰囲気だ。植民地時代の建物がところどころに残り、区画整理された町は比較的低層で、ハラレほど人も多くなくのんびりとしている。おおきなスーパーがあり、なんでも売っているし、路上でオバチャンたちが並べてる野菜は信じられないくらい安かった。坂本隊員の家はしっかりしたキッチンもあり、お湯のシャワーもすばらしい水圧だ。なんなら坂本隊員の帰国までここに居ようかと思ったほどだ。

昨日は坂本さんと仲のよい、JICA隊員の人が泊りにきた。彼は野球隊員だと話した。JICAはそんなに細かくスポーツ隊員がいるのかと驚いた。皆で夕飯を食べている時にJICAの話を聞いたが、JICAはなかなかどうしょうもない団体のようだ。とりあえず、送り込んだという実績を作ることに集中していて、実際の成果には殆どチェックもないし、ノルマもない。隊員が好きにやって、ダメならしょうがなかったねで終わりだ。隊員もそれをいいことに旅行に邁進したり、自分で他の仕事を始めたりと自由だ。そもそも2年で終わりなので、目に見えるような成果が出ることは殆どないだろう。しかも、森さん、坂本さん、さらにこの友人と皆、体育系というのも不思議だ。アフリカで食べるものにも苦労している人たちに、今、体育が必要なのだろうか?JICAは今アフリカに1000人以上の隊員を赴任させていて、その中で体育系の隊員の数がかなり多いらしい。JICAの隊員をひとり送るのにかかる費用は2000万から3000万円と言われていて、それは税金から出されている。2000万と言えばアフリカではとんでもない額だ。国によっては100人くらいの人を1年雇える額だ。そんなお金を使って、人を日本から送り体育を教える必要が本当にあるのだろうか?この疑問はハラレで森さんと話したときからずっと持っていた。仲良くなったので、その辺を聞いてみると、坂本さんの友人は「もうすぐ2年になりますが、それは毎日考えてますね。正直必要ないんじゃないかって」と言った。そりゃーそう思うよね、おかしいよねと思ったが、答えは坂本さんが教えてくれた。JICAを通じての隊員派遣は日本からの援助であり、10人も送れば3億円の援助実績ということになる。さらに今JICAで体育隊員が多いのは、2020年東京オリンピックに向けて、世界にスポーツの支援をどれだけやったという実績を作りたいと安部首相の鶴の一声がかかったという。今は税金を払ってない身分なのでおおきな事はいえないが、かなり意味不明だ。そんなわけで、送られた隊員でさえ毎日本当に必要か悩んでしまうような体育系隊員が急増したのだという。これが本当に無償のボランティアでそこまで費用がかからないのならわかるが、彼らは家賃と生活費が支給され、さらに任期を終えたときにはまとまった金が支払われる。普通の隊員でさえ、現地の弁護士や医者のような人しか住めないアパートに住み、隊員の管理をする役職たちはプールとテニスコートのある一軒家に住んでいるというから驚きだ。

最近ニュースで、安部首相が中国のアフリカ進出に対抗して、日本は中身のある支援。成果主義でという話をしていたが、話に聞くJICAとはかなり対照的なはなしだ。本当に援助の実態が見えているのだろうか?


JICAも農業とか、かなり実績のある分野もあるとおもう。すべてが悪いというわけではないが、効率や成果を考えたお金の使い方をするべきだと思う。JICA以外にも競合の団体があり、成果や企画内容に応じて予算を割り振ってもいいはずだし、質を高めるには競争原理を働かせる必要がある。中国のようなインフラのみへの援助もどうかと思うが、体育ばかりというのはもっとおかしい。アフリカでラジオ体操を知ってる子供を増やすのに、日本はずいぶんお金を使ってしまっていることになる。









2016/JUN/29 「ウェルカム隊員」

夜中に寒さで目が覚めた。今夜はドミなので室内だが、気密がわるくテント泊並みの寒さだ。結局それからは寝ることが出来なかった。ジンバブエは内陸部で標高があるのでかなり寒い。アフリカ=暑いと思ってる人は、アフリカを旅したら、さぞ驚くことだろう。アフリカといえど、気候は様々だ。朝、8時過ぎにシャワーを浴びようと思ったが、バスルームに行くと、バスタブとバスタブ用の蛇口しかない。「蛇口で浴びるのかー」と今までにない展開にすこし不安になる。お湯はちょろちょろ出るが、蛇口がお湯と水で別れているので、混ぜないと熱くて浴びれない。でも、このバスタブを満たすには二時間以上かかりそうだし、待っていたらお湯も水になってしまうだろう。ちなみに貯めようにもバスタブに栓は無い。レセプションのオバチャンに話すと、「オーライ」と大きな声をあげ、奥からペットボトルの蓋と布切れを持ってきて「私の栓を貸してあげる」と言った。ペットボトルの蓋に布を巻いて、それを排水溝に詰めて栓をしろということか。「いや、そもそもお湯が弱くてバスタブには貯まらないよ」と言うと、また「オーライ」と大きな声をあげ、奥へ消えていった。隣にはチェックアウトらしき男性が立っていた。男はワセリンを顔に塗りたくり始めた。「乾燥防止かな?」と思ったが、男はそのまま、髪にも塗りたくり、最後に五ミリくらいしかないその髪を櫛でとかした。肌、髪兼用のようだ。オバチャンがバケツを持って戻ってきた。「私のバケツを貸してあげる」と言ってバケツを手渡された。小さめのバケツだったので、苦労しそうだったが、これ以上は望めないなと思った。髪をとかし終えた男は、ワセリンと櫛をオバチャンに差し出し「ありがとう」と言った。なんと、このワセリンも櫛もオバチャンのだった!オバチャンはいつものことといった感じで「オーライ」と返事した。きっと言えば何でも出てくるんだ。オバチャンに「借りたバケツと栓でなんとかやってみるよ」と告げると、オバチャンは「オーライ」と答えて笑顔を向けた。

ハラレの宿にいたときに会ったJICAボランティアの森さんは、マシンゴとブラワヨにいるJICAボランティアを紹介してくれた。彼女はジンバブエでの二年間のボランティアを終え、数日後に帰国する。ジンバブエの前にもザンジバルで二年間のボランティアをしていたらしいのでベテラン隊員だ。アフリカが長いだけあって、しっかりした人のようで「もし、会いたければ連絡したらいいよ。私からも連絡を入れておくから」といって、最後に連絡先を教えてくれた。

その内の一人、坂本隊員がちょうどブラワヨでサッカー指導のボランティアをしていているので、連絡してみることにした。

トゥルルルーという電話の音の後に「ハロー?」という日本人らしき声が聞こえてきた。ハラムで会ったJICA隊員の森さんから紹介してもらった事を伝え、「迷惑でなければお会いしませんか?」と伝えると「全然会いましょう。旅してるならお金ないですよね?ウチに泊まりますか?いいですよ」といきなり勧めてくるので戸惑っていると「しょっちゅう人を泊めて麻痺してるので全然オッケーですよ」と、あっという間にお世話になることが決まった。森さんが話をしておいてくれたのかなと感謝したが、聞いてみると森さんからは連絡は来てないと答えた。ということは事前連絡もなく、いきなり知らない人から電話がきて、家に泊まってくださいと勧めたということだ。どれだけ受け入れがいいんだ。坂本さんは半端ないウェルカム隊員だ。

近所のスーパーで待ち合わせをしすことにした。午前中にたまった洗濯物を洗ってYWCAの庭に干してしまっていて、とても乾かないのでレセプションに「明日取りにくるよ」と言うと、例の「オーライ」が返ってきた。なんでもありだ。

坂本隊員はサッカー隊員らしく、よく日焼けしていた。家はかなり広く、十畳くらいのリビングに寝させてもらうことになった。電話ではサッカー指導のボランティアに出掛けるところだと話していたが、家に着くと「あー。今日は止めにしました。気にしないでください」に変わっていた。自己紹介を終え、活動の事を聞くと、「サッカー指導を見たいですか?
と言い「本当は今日は行かないでいいかなと思ってたけど、行きましょうか?」となった。活動は流動的のようだ。

坂本さんはJICAからジンバブエサッカー協会に派遣されてきたのだが、協会に行ってみると汚職が原因でで職員が誰もいなくなっていて、事務所はもぬけの殻だったらしい。協会自体もほとんど機能を失っていて、どうしよう?的なスタートだったと言う。そもそもJICAは成果を求めてないので、その辺のコーディネートもなく、結局自分でブラワヨの少年サッカーチームをいくつか見て、ここかなというところで教えているらしい。信じられない話だ。

坂本さんの教えているチームは近所の子供が集まってきて、サッカーを教えると言う感じだった。年齢もばらばらで、靴を履いている子もいれば裸足の子もいる。参加したければ誰でも参加できるので、暇な子供達はボールがあるというだけで集まってくる。コーチは他に仕事を持ってて、6時まではこれないので、それまでの時間を坂本さんが見ているらしい。教え方はかなりしっかりしてるが、アフリカの子供はまず話を聞かない。あと誰かが何かをやっているのを待つことができない。皆、常にボールに触りたい感じだ。しかも小さな子供は英語ができないので、説明も伝わらない。ここでは日本では当たり前の秩序を作ることがとてつもなく難しい。サッカー隊員は坂本さん以外いないし、スーパーバイザー的な人もブラワヨにはいないと言う。なにか問題が起きたときはどうするのだろう?



久しぶりにリフティングをして、体が暖まったので練習に参加させてもらった。アフリカの子供はボールへの執着心がとてつもなく強い。身体能力もあるし、未来は明るそうだ。だが、坂本さん曰く、プロリーグでもほとんど戦術はないらしい。とにかく突進だという。アフリカにはアフリカのサッカーがあるということかも知れない。10年後が楽しみだ。














2016/JUN/28 「グレートジンバブエ」

マットレスのおかげで寝心地は良かったが、朝方寒かったのでシャワーを浴びたあとにロッジのベッドですこし寝てしまった。このロッジはベッドルームが2つもあるし、リビング、キッチンがあり、なかなか豪華だ。テント泊にも関わらず、昨夜このロッジの鍵を預かったのでついついベッドを使ってしまった。

9時にテントをたたみ、遺跡のレセプションへ向かった。グレートジンバブエ遺跡は、東アフリカ縦断ではエチオピア以南で唯一の遺跡だ。行った人の評判はネガティブなものが多いが、自然と動物、民族がメインの東アフリカでこんなところに遺跡があるというだけで行く価値はあると思う(好きな人なら)。なにより、建築の様式が石を積み上げたもので、岩と一体になった遺跡群は建築的にかっこよい(好きな人なら)。キャンプ場もなかなか自然を感じられて、こういう自然の中の遺跡を歩いてまわるのはトレッキングみたいで楽しそうだ(好きな人なら)。

レセプションに荷物を預けて、チケットを買い、かなり広大な遺跡の敷地へ歩いてゆく。入り口にはなんでこんなに?というくらいスタッフが日陰で休んでいる。そこからは、目の前には大きな岩山の上に建てられたアクロポリスが見える。「おー あれかー」と少しテンションが上がる。

登り道は、いくつか分かれていたが、一番近道そうなところから登り始める。途中から石積みの壁が出てきた。石はただ置いただけで、崩れていきそうだが、この辺のはきっと修復で置かれたものだろう。積むだけなので簡単だが、やりすぎると元の遺跡とは全然違うものになってしまいそうだ。そう考えると何処まで元々の遺跡か怪しくなってくる。石は自然石の上にも積んであったり、石積み壁の途中から岩が出ていたりと、岩山と同化した感じがいい。

上に上がると、高い壁と中に続く入り口が見えた。立派な壁だ。中には宮殿であったであろう建物がどっしり構えている。これはかなり自然の岩を取り込んでいて、かっこいい。岩と石の取り合いや、入り口部分の曲面がいい感じだ。アクロポリスの中は迷路のようで、いろいろな場所へいける。一番高い岩に登ると、下にはグレートエンクロージャーや谷の遺跡群が見渡せた。

アクロポリスをくだり、併設の博物館にはいった。入り口のスタッフが「停電だから、携帯のライトでみてくれ」と普通に説明した。窓一つない展示室は真っ暗だし、展示室には、動物の剥製や当時の生活模様の説明のための人形があり、それらがいきなり照らされるとかなりびっくりする。わずかな携帯の明かりを頼りにまわる博物館は肝試しでしかない。

その後は、復元された住居のある場所をみて、まばらな石積みの壁が点在する原っぱを抜けて、アクロポリスに並ぶこの遺跡の目玉、グレートエンクロージャーにやって来た。ここの壁はグレートジンバブエ遺跡の中で一番の高さで、なかなかの迫力がある。内部はどうなっていたのか解かるほど残っていないので見るところは主にこの外壁だ。このあたりを他の旅人がこぞってショボいと言っているのかも知れない。でも、この壁も上部には格子状に積んで透かしてあったりして、なかなかセンスがいい。どうも聞いていた前評判よりも、いい遺跡に思えるのだが、人それぞれ価値観が違うので他の人が絶対にいいと思えるとは言えない。3時間くらい歩いてまわったが、なかなかの満足度だった。

遺跡を後にして、入り口にある立派なホテルのレセプションに頼んで昨日の太っちょの奥さんの電話をかけたが、何度かけても留守電なので、諦めてブラワヨまで移動することにした。歩いて街道まで出て、シェアタクシーでマシンゴの町にもどり、昼飯を食べてから、ブラワヨ行きのバスに乗った。2時を過ぎていたのでブラワヨに着いたときには暗くなっていた。毎度、暗くなってからの宿探しは心が折れそうになる。

そうも言ってられないので、手当たりしだい聞いてまわるが、みんな言うことが違うので、聞きすぎると軽く混乱する。ひとりの男がYWCAがあるというので、案内してもらうことにした。YWCAなら安いはずだ。

YWCAは大きな建物でレセプションには、ひとりでそこから出られるの?という感じの太ったオバチャンが座っていて、「ドミは115ドルだ」と言った。ヨーロッパ並みだ。なぜこの問題だらけの国でそういう金額になるのかわからない。でも、オバチャンに「安くしてくれないか?」と頼むとすぐに10ドルになった。「久しぶりのベッドに寝れるなら10ドルでもいいな」と思い、今夜はここに泊ることにした。部屋はぼろかったが室内という安心感がありよく寝れそうだ。















2016/JUN/27 「かなりユルめのキャンプ場」

3泊したハラレを出て、今日はグレートジンバブエのあるマシンゴへ移動する。暗くならない内に着きたいので10時に宿を出ることにした。ミニバスを乗り継いでムバレバスターミナルに着くと、客引きが「こっちだ!こっちだ!」と荷物を担いで歩きだした。おかげですぐにバスは見つかったが、出発は12時らしく、まだ一時間も先だ。結構待つなーと思ったが、実際にバスが出たのは二時間後の13時だった。アフリカだと大型バスなのに満席にならないと出発しないものもある。普通大型は時間で出発するでしょと安心してるとこういうことになる。

しかも、このバスは途中、色々な所でさんざん停まり、三時間で着くと言っていたのに、着いたのは夜7時過ぎだった。辺りはもう真っ暗。今夜は遺跡の入口にあるキャンプ場に泊まる予定だったのに、そこまでの交通手段がもう無さそうだ。遺跡はかなり離れているので歩くのも無理だ。

マシンゴの町は、夜は明かりがなく、真っ暗だ。電力事情がよっぽど悪いのだろう。広めの通りが碁盤の目のように通り、両側に低層の建物が見えるが、暗くて店も人もわからない。車に轢かれないように気をつけて、宿を探そうと歩いていると、通りがかった車が、横で止まり、「グレートジンバブエか?」と話してきた。「グレートジンバブエに行くのか?」と逆に聞くと、「グレートジンバブエの近くの家に帰るところだ」と答えた。「乗せてくれるのか?」と聞くと「オーライ」と答えた。良かったと思い、念のため「お金を払う必要はある?」と聞くと、「ある」という。やはりタダではなかった。。。値段を聞くと驚きの20ドル。ありえない金額だ。昼間なら乗り合いタクシーで2ドルくらいのはずなのに。運転手に「4ドルでいいか?」と聞くと意外にも「オーライ」と即答した。さっきの20ドルは何だったんだ。

車には2人乗っていて、助手席の太っちょの奥さんは最初から超ハイテンションで、「私の家は遺跡から2キロくらいで、電気も水道もないのよ。ワハッハッハ」と話しだし、「ソーラーパネルと井戸があるから全然大丈夫。光熱費ゼロだからエコでしょ」という。「明日、あなたは私の家に来なさい。鶏を300匹飼ってるから、鶏を食べさせてあげる」と、どんどんひとりで話をすすめていく。運転してる旦那はあまり発言権が与えられてないようで、なにも言わない。「わかった。遺跡を見終わったら、寄るから連絡先を教えてくれ」といい、携帯の番号を教えてもらった。道中もうひとりヒッチのジンバブエ人を拾い、遺跡の横にあるキャンプ場に着いた。太っちょの奥さんはレセプションの男に彼が泊るからよろしく!と話して、また車に乗り込んでいってしまった。

キャンプ場はレセプション以外、まったく人気がなく。テントを張っている人もいないとうだった。テントなら17ドル。シャワーは期待してなかったが、テントに一番近いロッジの鍵を開けてくれ、中のトイレ、シャワーを使っていいと言われた。もちろんホットシャワーだ。すごい親切なスタッフでテント泊なのに、分厚いマットレスを運んできてくれて、「敷いたほうが寝やすいぞ」と渡された。「夜中に何かあればレセプションにいるから教えてくれ」と言って帰って行った。



真っ暗の中、無事、テント設営は終わったが、よく考えると、目の前のロッジはトイレ、シャワーを使うので鍵を置いていってくれた。これなら夜中にこっそりロッジに移動してもわからないだろう。かなりユルめのキャンプ場だ。

















2016/JUN/25 「インフレ率2億3000万%の国」

ルサカの宿にいたジンバブエ人が言っていた通り、ハラレは都会だった。てっきりお国自慢で大袈裟に言ってるのだと思っていたが、なかなかの町だ。ルサカのように驚くほど現代的なショッピングモールがあるわけではないが、街としての骨格ができているように感じられた。コロニアルな建物が多く、由緒ある町のような風格がある。これはイギリス植民地時代、ここに現在のジンバブエ、ザンビア、マラウィにあたるローデシア・ニヤサランドという連邦政府の首都が置かれたことが大きいと思う。ローデシアとはザンビア(北ローデシア)ジンバブエ(南ローデシアのことで、ニヤサランドはマラウィだ。この中で白人が多かったジンバブエに主だった行政機能は置かれ、ハラレがその首都だった。そのためハラレの町はイギリスらしい建物が残っているし、都市計画も白人達がおこなったのでそれらしくできている。ルサカもマラウィから来れば驚かされるが、ハラレのような都市計画に基づく町づくりは感じられない。しかし、実質アパルトヘイト政策を取っていたハラレは白人のための町だったので、郊外に黒人居住区があり、今でも街並みはハラレ中心部とはまったく異なる。

ハラレに着いたときは日が沈んでいたので、タクシーで中心部から北へ7キロほどのところにある調べておいた宿に行きチェックインした。ハラレで最も安いであろうこのIt’s a Small World Hostelは、裏の庭にテントを張らしてもらうのに9ドルもかかるところで、やたらとNGO関係の宿泊者が多かった。芝生の庭には、プールやソファがあり、暖かい季節に来れば快適な滞在になるのだろうが、冬に来てしまうと1600mもある標高のおかげで信じられないくらいの冷え込みをみせた。庭のプールには何故か水が張られていて、夜の冷え込みを一層厳しいものにした。調べると夜の気温は7度。昨夜、寝袋に入るときに着込むのを怠ったせいで、寒さで目がさめ、それから一睡もできなかった。

ジンバブエと言えばスーパーインフレが有名だが、2009年にジンバブエがジンバブエドルを捨て、自国通貨を米ドルにしておさまったので体験することはなかった。当時はインフレ率23000万%という意味不明な数字に達してたらしい。今、日本では、インフレ率2%まで上げようと目標をかかげているのに、ジンバブエでは23000万%。いったいどうしたらそんなことになるのだろう。商店では1日に3回くらい値上げが行われ、スーパーのレジの列で待っている間に値段がどんどん上がってしまったというから想像を絶している。そんなときにジンバブエを旅をする人はいたのだろうか?

宿のキッチンで朝食を食べている時にJICA隊員に出会った。ジンバブエ第二の都市、ブラワヨで体育を教えていたらしい。あと数日で帰国なのでハラレに来たと言う。この体育隊員の森さんから、今、ジンバブエのATMがまったく機能してないことを告げられた。ジンバブエはそもそも自国通貨を米ドルにしているので、自分達で新札を刷れない。国民がたくさん下ろすとATMの現金が不足してしまうのだ。少し前に政府が新しいジンバブエ紙幣を発行すると発表して、またインフレになるのではと心配した国民が一斉に現金を下ろし始めた結果、ATMは空になり、銀行窓口でしか下ろせなくなったと言う。それでも1週間に500ドルまでという制限が設けられたという。しかも下ろせるのはローカルの銀行の口座を持っている人だけ。つまり、外人は下ろせない。窓口には連日、朝から長蛇の列ができている。JICA隊員も現金調達に苦労しているという。まったく困った国だ。

こういう情報は大抵、少し手前の国で入ってくるはずだが、ジンバブエに最近行った旅人がいないので知らなかった。財布には、以前タンザニアで調達したドルがまだ250ドルくらいあった。コモロ行きの船のキャンセル料をドルに変えたものだ。こんなところで役に立つとは。これなら10日くらいは滞在できるだろう。

ハラレの町は散策してみるとなかなか楽しかった。まず、ジンバブエ人がすばらしくいい。マラウィやザンビアも人がいいと言うが、ここはそれ以上だ。あまり人が良くないと聞いていたが、すごいフレンドリーだし、みんないろいろ助けてくれて、困らない。英語も通じるからコミュニケーションも楽だ。ツーリストが少ないので、もてはやされる。

宿の近くには白人がたくさん買い物に来るショッピングモールがあり、キレイなスーパーやレストランがある。ここのFood Lovers Marketのクオリティは半端ない。パンや惣菜がヨーロッパ並み。アフリカのチェーンのスーパーマーケットでは一番だと思う。でもバスで中心に行くと黒人だらけ。つまり、白人は決まったところしか行かないし、住んでいるところもかたまっている。ここではあまり混在している感じはない。この隔ててるのが、なんかへんな感じだ。だったらヨーロッパへ帰れば良かったのに。

中心へ向かうときに通るジャガランタ並木は10月になると紫のトンネルを造り、圧巻らしいが今はまだ花は咲いてなかった。当然そのために戻ってこようとは思わないが。

そんなジンバブエはウィキペディアによるととんでもない国になっている。独立以来、独裁を続けるムガベ大統領は、白人の土地を没収し、白人を国から追放。外資系会社の株式の過半数を黒人に譲渡する法律をつくったり、反白人感情丸出し。自分の批判をしたライス米国務長官を「白人の奴隷」と侮辱した。国際社会の批判を無視し続ける姿は北朝鮮のようだ。失業率94%、平均寿命36歳(世界最低)。23000万%のスーパーインフレを含め、そんなことがあるのだろうか?という数字ばかり並ぶ国だ。ただ、町を歩いているとさすがにこの数字はないだろうと思える。失業率や平均寿命も他のアフリカの国々とそこまで変わるようには見えない。いったいどうなっているんだろう。調べれば調べるほど不思議な国だ。そして妙に明るい国民。


統計でわかることもあれば、わからないこともある。しばらく旅をすれば、統計とは違ったジンバブエが見えてくるのかもしれない。
















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