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2015/NOV/4 「ホステル・ベニ 」

今日で3泊目のホステル・ベニは東ヨーロッパのホステルで一番のホスピタリティだ。2日前にチェックインしてからずっと客はなく、ベッドもリビングも独占状態だ。ただし、エディという居候のようなオーナーの友達のおっさんが管理人としてドミに住んでいた。チェックインするとエディはワインを出してくれ、宿の説明をしてくれた。ドイツで働いていたというエディは流暢な汚い英語を話し、一応客対応のようだがとてもむいてるとは思えなかった。4階建ての建物は2階にベニの家族が住んでいる以外はすべて客室だが、客がいないので3階の1室以外は閉めているようだった。ベランダにはソファがありアドリア海が眺められ、気候も良くとても気持ちよかった。オーナーのベニは後から3L のワインボトルを持って現れ、3人で乾杯した。「好きなだけどんどん飲め」と言う。しばらくして夕飯に行こうとすると、「何処行くんだ?飯はあるから心配するな」と言い、夕食を持って来てくれた。朝食付き5.7ユーロの宿は実質ワイン飲み放題で夕食も着いているようだ。さらに昨日は昼間宿にいるとバーベキューをしてくれた。これもすべてタダだ。完全に赤字だろうがまったく気にしていない。意味不明な宿だ。

サランダは古い町並みがあるわけではなく、民主化以降、住民たちがこぞって家やホテルを建て始めたのでコンクリートの無秩序な建物が並ぶ残念な街並みだ。皆お金がないのでできるところまで作って、あとはお金が貯まるまで放置という状況だ。丘の斜面に広がる建物群は鉄筋コンクリートの躯体だけがいくつも建っていて夕日を浴びてとてもシュールだ。アドリア海に面したリゾートではあるが、まだ外国人観光客が少なくどこかやり切れてない感じが良かった。

夕方にベニは今日は地酒を飲もうと言って、俺とエディから100レキずつ集めた。30分ほどするとベニは料理と無色の酒をもって戻ってきた。アルベニアのジンだというが薬草っぽい匂いがした。料理は肉なし肉じゃがとグリークサラダだった。もちろんタダだ。


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人で乾杯して飲み始めると、ベニは日本のいろいろなことを聞いてきた。ベニはアルバニアから出たことがなく、日本のことは第二次世界大戦で原爆を落とされたこととトヨタとソニーくらいしか知らなかった。なにより原爆を落とされたのだから日本人はアメリカが大嫌いだと思っていた。ドイツで働いていたアンディはどこかそういうベニを馬鹿にしたところがあり、ベニの話にいつも横槍を入れた。ベニは日本が2年位前まで世界で2番目の経済規模だったことを知り驚き、「何故世界に影響力がそんなにないのか?」と聞いた。「基本的にアメリカの言うとおりに行動してきたから、独自の意見がほとんど発信できてなかったからかな」と言い、「今は中国がすごい影響力を持ったね」と言うと、アンディは「ノーウェイ!」と叫び、「中国はただの工場だ。安い労働力だけで、自分たちのブランドや技術は無い。世界中からもただの安い工場としか見られてない」と言いきった。かなり時代後れの考えだ。いまやヨーロッパの各国首相が中国との会談を懇願する状況だ。「ここにも中国人がやってきて、中国人のツーリストだらけになるよ」と言うと、ベニは「それはない。アルバニアには中国人観光客はいない」という。「アルバニアは開国して20年でろくな観光キャンペーンもしてないし、LCCもアルバニアには飛んでない。でも東ヨーロッパの地方都市がそうだったように、いづれここにもLCCが飛んで西側から大量のホリデーツーリストが来る。金持ちの中国人たちがある程度旅行した後にアルバニアにも来るようになるだろう」というとベニは納得とまではいかない顔でそうなって欲しいと言った。3人でアルバニアにもう一度乾杯をした。






2015/NOV/2 「アンジェロ キャッスル」

石の町と呼ばれるジオカストルの町はイマイチで、丘の上のほうの旧市街も昔の姿をとどめている部分は限定的で統一感に欠ける街並みだった。ベラト同様ここも旧市街の一番上には城がそびえていた。

ホステルだと思って予約した最安値の宿は古い旧市街のホテルで客は誰もいなかった。レセプションのおじさんは隣のカフェの唯一のスタッフなので、ほとんど宿には居なく、宿の中は電気もついてないので静まり返っていた。おじさんはシングルルームに通してくれたが、電気が壊れてつかなかったので隣のダブルルームを使わせてくれた。荷物を置き扉を閉めると今度はドアノブが抜けてしまった。予約するときにはWifi有りとあったが、実際には裏のレストランのWifiを使えということらしく、おじさんはレストランへ行ってそこのスタッフからパスワードを聞きだした。かなり強引に。ただし、さすがに距離があり部屋ではベランダに出ないと使えなかった。夜はベラト同様に寒く、寝袋に毛布をかけて寝た。秋から冬に東ヨーロッパを旅するなら寝袋は持っていったほうがいい。

翌日、とりあえずお城を見に行くことにする。広い石畳の折り返し道を登り城の入り口に着いた。ジロカストル城は石造りの建物がだいぶ残っていて、入り口からの石のアーチの連なる内部空間が迷路のようでカッコよい。鎖国時代の大砲や撃墜させたアメリカの戦闘機が展示してあった。城のテラスからは旧市街の石の屋根が良く見えて、石の町と呼ばれているのがまー理解できたが、新しい建物も入り交ざっているのでもったいない感じがした。

城を後にして、旧市街を歩いて回った。町は観光客もなくのどかだ。子供達が道で遊んで、おじいさんがカフェでビールを飲んでいる。旧市街の中心に石畳の5差路があり、石の屋根の建物が集まっていてなかなか良かった。たぶんここが旧市街の一番の見所だろう。ここには2泊してからサランダに行こうと思っていたが、宿がイマイチなので夕方にサランダに向かうことにした。サランダはギリシャとの国境に近いアドリア海沿いの町なのでもっと暖かいはずだ。

新市街の街道でサランダ行きのバスを拾った。バスで隣に座っていたおじいさんは日本人だというとどんどん話しかけてきた。ジロカストロの名前の由来は200年くらい前のアンジェロというお姫様の名前からだと教えてくれた。アンジェロ キャッスルがなまってジロカストルというわけだ。ジロカストルが少し良い町に思えてきた。









2015/OCT/31 「千の窓の町」

ベラトまでは思っていたより時間がかかり、着いたのは夕方4時くらいだった。バスの運ちゃんは旧市街の橋で降ろしてくれたので宿へは歩いてすぐに着いた。あまり期待してなかった旧市街は石畳と石積みの壁の路地が入り組みでとてもいい雰囲気だ。日が沈み始めそうなので荷物を置いてすぐに町を歩きに出た。

宿のすぐ近くに教会があり中を覗いてみた。教会の建物には鍵がかかっていたが、境内で掃除をしていたおじさんが開けてくれた。照度の低い、教会の中はとても良い雰囲気でかなり古そうなイコノシタシスもあった。

川を挟んで宿のある旧市街とは別に建物が山の斜面に積みかさなったような、もうひとつの旧市街があった。これが有名な千の窓の町かーと興奮していろいろな角度から眺める。かなり急な斜面にランダムに建てられた建物たちはまるでゲーリーの建築のようだ。橋の上のここだという角度で手すりに寄りかかりしばらく眺める。観光客らしき外人が後ろを通り過ぎてゆく。ベラトは西ヨーロッパではそこそこ知られた場所なのかも知れない。

しばらくすると暗くなり始め、千の窓の町には照明がつき始めた。積み重なった建物たちは立体感を増して浮かび上がる。まるで全部でひとつの建築のように見えた。


宿に戻ると客は他にはいないようで、ドミトリーの好きなベッドを選べた。オフリド同様、夜はかなり冷え込みそうなので窓からなるべく離れた内壁のそばのベッドにした。この宿は宿のオヤジが築400年以上と胸を張るだけあり、扉の気密がかなり甘く外気がつうつうだ。夜が来るのが恐ろしい。寝袋を出し、その上に毛布をかけて中に入ってみる。まだ厳しそうだ。今夜はダウンを着たまま寝袋に入ったほうがよさそうだ。








2015/OCT/24 「ショッカーの国」

コトルから7:38発のバスでアルバニアに向かう。アドリア海沿いを走るなかなか景色の良いルートだ。途中海岸から細い道で繋がった島にたくさんの建物が密集しているのが見えた。アマンだ。島まるごとリゾートとは豪華だが、石造りの建物達はキレイ過ぎて雰囲気に欠けるように思えた。アマンはわりとそういうリゾートが多く、ガッカリすることがある。

二度バスを乗りかえて、午後2時にアルバニア首都ティラナに着いた。アルバニアは1990年まで鎖国していた、東ヨーロッパの中でも特殊な国だ。元々社会主義で、開国と共に市場経済を導入したが、その後、長らくヨーロッパ最貧国と言われてきた。

バスを降りると、日差しが強く暑いくらいだった。アルバニアの南はもうギリシャだ。空を見上げて、しばし、日射しを浴び、だいぶ南下したなーと実感した。

小さな町でホテルは近いので歩いて探す。おみやげ屋にはアルバニア国旗やアルバニアグッズがたくさんあったが、残念ながらどう見ても悪者の国にしか見えない国旗だ。赤地に黒の双頭鷲はまるでショッカーのマークだ。大きなビルの屋上にも国旗がなびいているが悪の総本部にしか見えない。申し訳ないが汚職や腐敗が蔓延っているように見える。

ホステルは朝食付で7.9ユーロ。モンテネグロに比べるとはるかに良心的だ。ユーロもかなり流通しているが、通貨はレクといい、細かな買い物はレクで払う必要があった。

町を一通り歩いて回り、夕方に古代の墳墓に行ってみた。墳墓はコンクリートとガラスの屋根で覆われていて、改修中なので見れなかったが、子供たちが屋根に登って遊んでいた。屋根の斜度は30度くらいはあったが、石貼りの剥がれ落ちたコンクリートの躯体はかなりフリクションがあり容易に上まで登ることができた。下からはどんどん子供たちが登ってくる。転げ落ちれば死にかねないなーと登ってくる子供たちをしばし眺めた。夕日は裏側に沈み始め町を低い角度で照らした。気がつくと屋根の上はカップルや子供たちでいっぱいだった。ここは夕焼けを眺めるには一番の場所のようだ。












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