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2016/OCT/6 「新たなパスポートと新たな旅」

今朝、日本領事館にパスポートを取りに行くと、真新しいピカピカのパスポートが出来ていた。こう見ると古い方はボロボロだ。何故か顔写真の輪郭回りがギザギザでフォトショップしたように見え、他の国に入るときに疑われないか心配になった。でも一番疑われるのは、きっと日本に帰国するときだろうと思った。

ナミビアのウィントフック行きのバスを調べると水曜、金曜、日曜の週3本しかなく、明日が金曜なので、それに乗らないとヴィザの切れる10/8までに出国できなくなることが分かった。結局、ステレンボッシュやヘルマナスには行けなかったが、喜望峰で鯨も見れたし、ワインは毎日飲んでるのでいいかなーと思った。

ケープタウンは多分南アフリカの中では、やはり一番綺麗な町で、お洒落なバーやレストランも多く、良いところだった。ウォーターフロントはよく整備されていて、食べてはないが、なかなかのクオリティのデリが揃うフードモールや倉庫をかなりモダンに改装したクラフトモールなど、南アの粋を集めたような場所だった。ここから見る、港越しのテーブルマウンテンは、まさにケープタウンを象徴するような景色で、ビールを飲んでゆっくりするには最高だった。

ここにいる間に、幾つか解決しなければならないことがあり、一つはエルサレムからダハブまで一緒に旅したシオリンから頼まれた、カメラのレンズの返金の回収で、もう一つは、自分のカメラのレンズを修理することだった。

返金の方は、少し時間がかかったが、無事に返金を受け取ることができた。シオリンはウォーターフロントのカメラ屋で9万円もするレンズを買ったが、いざナミビアで使おうとしたときに、レンズがNIKON用だったためにCANONのカメラに付かない事が発覚したらしい。なかなか信じられないことをする子だ。それでもナミビアから店に郵送して返金の受取りを頼んできたというわけだ。

自分のカメラレンズ修理はレンズ修理をやっている店を数日聞いて回り、なんとか修理できる店を見つけ出した。今日の夕方に修理が終わったレンズを受けとることになっている。このCANON 24-105 f4はイスラエルでも一度おかしくなり修理をしたが、今回全く同じ症状がでた。明らかにハズレレンズを手にしてしまった。修理の度に二万円もかかるし、フォーカスもおそい。(これはカメラ本体のせいで、5Dでは動きが見違えたが6D24-105も今思うとイマイチだった。旅には単焦点とズームを1本づつ持っていくことを勧める)

午後は食料などの買い出しをして、宿でゆっくりした。アフリカ南部はテント泊が多く、こんなに長く、ベッドで寝ていたのは久しぶりで、ここを出るのは口惜しかった。

アンゴラ、コンゴ民主VISAを取った時点で、ケープタウンはアフリカ縦断の終点からアフリカ一周の折り返して地点に変わった。今まで南、南と進んできたのが、これからは北へ北へと進むことになる。この折り返して地点で、新しいパスポートを得たのもなにか運命を感じる。新たなパスポートと新たな旅の始まりだ。











2016/OCT/5 「喜望峰へはレンタカーで」

今のパスポートは既に40ページの追加をしたもので、それでも残り二ページを残すのみとなり、今後西アフリカを目指すなら全く足らない。コンゴやアンゴラでICチップ入りのパスポートが作れるかも怪しいので、ケープタウンで作っておくことにした。

日本領事館は、南アフリカのVISA10/8までだと話すと、「なるべく早く出せるようにします」と、とても協力的だった。昨日の朝にメールをチェックすると、「新しいパスポートが出来たのでご都合の良いときに取りに来てください」とメールが届いていた。そのため、今日はパスポートを取りに行って、午後に出発する岡田さん達を見送ろうと考えていたが、同室のドイツ人が、起きると、「明日は雨だから、喜望峰へは今日行った方がいい」と言うので、急遽喜望峰へ向かうことにした。

喜望峰へ行くときは普通、朝早く出発すると聞いていたが、既に8時半を過ぎていたので、岡田さんとミキちゃんに別れを告げて、直ぐに宿をでた。喜望峰の行き方は色々あるが、一人なら、サイモンズタウンまで電車で行き、そこからレンタサイクルが最安だ。昨夜、新しくやって来た日本人の男の子も今日、レンタサイクルで喜望峰へ行くと言っていた。

鉄道駅に着いて聞くと、次の電車は9:45までないという。一時間近く待たなければならない。もう一人の日本人の男の子は朝7時には宿を出たときいた。こんな時間に出発して、帰ってこれるか不安だ。スーパーで昼飯を買い、時間を潰して駅に戻ってきた。

電車は時間通りに出発して、ゆっくりと走り出した。まー何とかなるだろうと道中、窓から外をボーと眺めた。途中から海沿いを走り、11時頃にサイモンズタウンに着いた。取りあえず、近くの店で何処で自転車を借りれるか聞いて回り、ツーリストインォメーションにたどり着いた。そこで自転車を持ってる人に電話してもらい、何とか自転車を確保。ここにはレンタサイクルの店があるわけではなく、個人から借りるようだ。数が少ないので運が悪ければ、出払ってしまっていることもある。運よく、小さな商店を営むインド人が、自転車を貸してくれ(有料)、何とか走り出すことができた。時刻は既に正午だった。だが、店を出るときにインド人オーナーは喜望峰までは45分だと言ったので、少し安心感がわいた。

少し走った所で、ペンギンの看板が出ていて、ペンギン押しのカフェや商店が並んでいたので、地図を見るとボルダーズビーチという、ペンギンのコロニーがすぐ近くにあることが分かった。

坂を下って、右に入ると駐車場があり、近くに入り口が見えた。てっきり無料だと思っていたが、しっかり60ランド(438円)も取られた。しかも、お金を払って入る敷地の外にもペンギンはいて、中に入るか悩ませた。だが、中に入るとウッドデッキの道がビーチに続いていて、ビーチには何十ものペンギンが寝たり、歩いたりしていて、なかなか良かった。ここのペンギンはそんなに大きくはないが、歩いてる姿は愛嬌があっていい。
あまり長居すると喜望峰から戻って来れなくなるので、ボルダーズビーチをでて、またペダルをこぎはじめた。急がなければ、という思いからかなり早く走ったが、15分もするとすぐにバテた。車なら全く気にならない、微妙な登りと下りが、延々と続き、更に海からの強風を受けるので、かなりシンドイ。だが、そうも言ってられないので、取りあえず前に進む。「ホントにみんな自転車でくるのかー?」と自問しながら、一時間くらいたったときに、ようやくゲートが見えた。

喜望峰は国立公園になっていて、このゲートはその入口だが、地図を見ると喜望峰まではまだ13キロ以上ある。多分ここで半分といったところだろう。公園の中はやはり、アップダウンの連続で、最後の灯台のあるケープポイントまでの登りは自転車を押して登った。着いたときは喉が乾いて仕方なく、観光地価格の冷えたコーラを買わずにはいられなかった。

自転車を停めたところで、宿にいた日本人の男の子に会った。彼は一時間ほど前に到着して、灯台を見て降りてきたところだった。これからCape of Good Hopeという最南端の碑を見に行くと話した。

こっちは、まず灯台を見に行き、そこから先端に延びる崖まで、歩いていった。先端には数人の観光客がいて、何かを見て叫んでいるので、海を眺めると少し離れた所で、イルカのような物が三頭ほど跳び跳ねるのが見えた。しばらくすると、また水面に上がってきて潮を吹くのが見えた。まさかと思い他の観光客に聞くと「クジラだよ」と教えてくれた。まさか、ここでクジラを見られるとは思わなかった。

灯台へ戻り、自転車を置いた駐車場に降りて、今度はCape of Good Hopeへ向かうことにした。トレイルには往復二時間半とあるが、この分だとここを出るのは4時を過ぎそうだ。

Cape of Good Hopeまではよく整備されていて、景色も素晴らしかった。眼下には白いビーチが見える。降りる道もあるが、さすがにビーチに立ち寄る時間はもうないだろう。サイモンズタウンからの終電が何時まであるか怪しい。しかし、このときハプニングが起きた。なんとサンダルの鼻緒がキレてしまった。「ここで切れるかー」と途方にくれそうになったが、その辺にある草で鼻緒を結んで、なんとか進むことができた。道中三回ほど、草が切れて、取り替えたが、なんとかCape of Good Hopeにたどり着いた。

沢山のツーリストが看板の前で記念写真を取っている。横にはツアーバスが止まっていて、記念撮影には軽い列ができている。流石は有名観光地だ。海の近くの岩まで行き、大西洋を眺めた。波は荒い。水飛沫がバシバシはねる。アフリカ大陸の先端はこんなところなのかーと何も見えない海の向こうを眺めた。

帰りも気の遠くなるような道のりだったが、行きよりも下りが多く、二時間もかからずにサイモンズタウンに戻ってこれた。それでもインド人オーナーの言う45分には程遠かったが。


店に着いたのは6時少し前で、インド人オーナーはこっちに気がつくと、「おー、大丈夫だっか?良かったか?」と笑顔で迎えてくれた。「全然45分じゃねーじゃねーかよ!」と怒鳴ろうかと思ったが、その笑顔を見るとどうでもよくなった。「スゲー疲れたよ」と言うと「そのエナジードリンク飲め。効くぞ」と冷蔵庫の中を指差したが、大きく「high coffein contain」と書いてあるのでやめておいた。茹で玉子を2つほど買って、オヤジと話ながら食べて、疲れが落ち着いてから駅に向かった。駅に着くとギリギリで電車を逃し、40分後の終電に乗ることになった。今日は全く電車運がない1日だ。何にもない簡素な駅でボーと電車をまった。次にまた喜望峰に行くなら、絶対レンタカーだ。













2016/OCT/1 「ケープタウン」

昨日の夕方、ブラームファウンテン発のインターケープバスに乗った。南アフリカの3つの首都の内の一つのはずのブルームファウンテンの魅力の無さには驚いたが、ついにケープタウンだ。数日前に、5か月前にダルエスサラームで再会を果たした岡田さんとミキちゃんからメールがあり、10/5までケープタウンにいると言っていたので、ここでも会うことが出来そうだ。

夜行バスはリクライニングが壊れていたのと、隣のおじさんが絶えず話しかけてきたので一睡も出来なかったが、朝の7時にケープタウンに着くと、それほど疲れは感じなかった。隣のおじさんはデボネーズピザのトリプルデッカーを食べていて、半分分けてくれたので夕食代がういた。このトリプルデッカーとはピザの生地が三枚重なって、その間に具が挟まっているもので、もはやピザの領域を越えた食べ物だ。実はずっと気になっていたが、高くて食べたことが無かったので、食べれて良かった。

ケープタウンのバスターミナルから出ると隣に鉄道駅があり、目の前は広場になっていた。アフリカ縦断を終えケープタウンに着いた旅人が口を揃えて、「アフリカ縦断のご褒美のような町」と言っていたので、どんな町かと思ったが、駅前はあまり綺麗ではなく、黒人ばかりしかいない。と言うか、彼らは浮浪者達のようで、治安もけっして良くは見えない。駅もヨハネスのパークステーションに比べて、遥かに汚く、メンテも悪い。

まー、こんなものかと、岡田さんたちに教えてもらったキャット&ムースという安宿に向かうことにした。なんでもその宿は日本人割引があり、165ランド(1,204円)のドミが、日本人は120876円)で泊まれるという。あまり日本との関係のない南アフリカで、そんな親日な宿があるのは驚きだ。

キャット&ムースはLong Streetというレストランやバーが集まる通りの端っこにあり、ウォーターフロントからは距離があるが、少し歩けばスーパーもあり、なかなかよい立地だった。客はツーリスト半分、アフリカ人の学生や仕事をしてる人、正体不明な人が半分といった感じで、他の大きな町のホステルとかわらなかった。

まだ朝早いので、岡田さん達は寝ているようなのでスーパーに行って、食料を買って、朝御飯にした。しばらくすると、ミキちゃんがキッチンにやって来た。「あー田付さん!」といい、「久しぶり。ダルエス以来だね」と挨拶をして、近況を報告しあった。岡田さんもやって来て、カイロ、ダルエス、ケープタウンと3度目の再会を喜んだ。

二人にアンゴラとコンゴ民主のVISAが取れたと言うと、かなり驚き、ケープタウンから西アフリカへ北上した人は聞いたことがないと話した。宿には他に二人ほど日本人がいて、その内の一人カイさんは、同じく西を目指していると言うので、取り方を教えてあげた。

カイさんは、オーストラリアやカナダでのワーホリを挟みながら、7年くらい旅をしているという。ボクシングをやっていたのでかなり体育会系で、毎日のようにライオンズヘッドに登っているらしく、「今日も登るので案内しますよ」と勧められて、さっそく登ることにした。

もう一人の男の子も行くと言うので、3人で登ることになった。登り口までは宿から歩いていけるらしく、3人で話をしながら歩いた。一時間くらいで、道路に沢山車の止まっている場所に着き、目の前にはライオンズヘッドが見える。

登山道は2つあり、海側の道から登ることにした。途中までは平坦で、岩山に差し掛かると一気に急になった。ただ、よく整備されているので、特に危険はないし、体力的にもキツいものではなかった。

頂上に着くとずいぶん沢山の人がいた。先端の崖からは大西洋が広がっていて、眼下にはケープタウンの町が、裏側には町のシンボル、テーブルマウンテンが見える。素晴らしい景色だ。先端の岩の上に立つと、まるでアフリカ大陸の先端にたっているかのようで、アフリカ大陸縦断の達成感が湧いてきた。ウォーターフロント、テーブルマウンテン、喜望峰、ステレンボッシュ、ヘルマナスとケープタウン周辺には見所がたくさんあり、時間が必要そうだが、南アのVISAはあと1週間しかないし、新しいパスポートを作らなければならない。少しゆっくりしたかったが、そうもいかないようだ。











2016/SEP/25 「アフリカで唯一のスキー場」

朝の7時にハリスが、タクシーランクまで送ってくれた。ハリスは朝5時から仕事に出たが、7時にわざわざ戻ってきて、送り届けてくれた。なんていいやつなんだ。

タクシーランクには、10人くらいのレソト行きのタクシーを待つ人がいたが、タクシーはなかった。一時間ほど待つとプレトリアやヨハネスで走っているハイエースの大きいバージョンのトヨタ・クオンタムがやって来て、皆乗り込んだ。アフリカ全土でミニバスとして活躍する中古のハイエースだが、狭くてあまり快適とは言えない。それが南アではクオンタムという一回り大きな車種になり、椅子の数しか人も乗せないので大分楽だ。

クオンタムは町から30分ほどのレソトボーダーへ行き、皆を下ろして帰っていった。南ア出国手続きをして、ゲートを出るとトレーラーハウスが止まっているだけで、何もない。ここでレソト側のバスが来るのを待つらしい。トレーラーハウスが軽食屋だったので、コーヒーとリンゴを買い、他の人達と一緒に座って待つことにした。ここはずいぶん景色のいい国境だ。

しばらくするとハイエースが一台やってきた。これがレソトの北部の町、ボタボテに行く。南アからレソトに入り、クオンタムからボロイハイエースになったのは、国の豊かさを反映した感じがした。


ボタボテまでは未舗装で、三回ほど橋のない川を渡らないと行けなかったが、道中景色がよく、素朴な村が見れて良かった。ボタボテで泊まろうかと思っていたが、モコトロン行きのミニバスがまだあるというので、そこまで進むことにした。

モコトロンは4時間半ほどかかり、着いたときには既に日が暮れかけていた。道中、噂にきくアフリカで唯一のスキー場が見えた。山あいの乾燥した大地に、1本のスロープが見える。幅10m、長さ500mくらいだろうか。リフトらしきものはない。雪は一切見当たらず、茶色の草に覆われた地面が広がっている。アフリカ唯一のスキー場というか、アフリカ唯一のスキースロープだ。どれだけの客が来るのか分からないが、下の方にスイスにでもありそうな、ロッジが見える。とてもシュールな景色だ。もう2ヶ月くらい早くここにくれば、アフリカでスノーボードが出来たなーと少し心が惹かれた。

モコトロンは宿を調べてなかったので、町の人に聞いて、数件あたり、Boikhethelo Guest Houseという宿が、150ロチ(1,095円)にまけてくれたのでそこに泊まることにした。ツーリスト用の高い宿でレソト伝統住居を模した建物になっている。大分大きな部屋でベッドが4つもあった。これで150ということは本当に客がいないのだろう。ここのおばちゃん達は人懐っこく、陽気で、一人しかいない宿泊客の為に色々と世話してくれた。

飯を食いに出ると、通りで何処からか名前を呼ぶ声が聞こえた。暗かったので、誰がいるのか分からなかったが、声は近づいてきて、隣の敷地からだと気がついた。よく見ると女の人が立っていて、ウガンダのカンパラで会った、アヤさんだった。5ヶ月ぶりくらいだ。この暗闇でよくわかったなーと感心した。アヤさんはGrowという宿に泊まっていて、そこはテントが張れるらしい。さっき目の前を通ったときは看板がなく、宿だとは気がつかなかった。アヤさんのテントは、前に見たアフリカ縦断者御用達のチャイナテントではなくなっていた。フライシートの付いたちゃんとした物に見える。聞くと、前のは骨も折れ、雨で水没し、買い換えたらしい。あのテントは軽くて安いが、雨にも風にも弱いのが難点だ。

一緒に夕飯に行こうと思ったが、週末でレストランはすべての閉まっていて、辛うじて開いていたスーパーで食パンと鯖の缶詰を買って、Growのキッチンで食べた。

もう10年くらいワーホリやボランティアを挟みながら旅を続けているアヤさんは、この後、モザンビークのマプトで、魚市場の中にオープンする日本食居酒屋のオープニングを手伝うという。最近、マプトの魚市場の経営権を日本企業が買ったらしく、その会社が市場の魚を使って刺身とかを提供する店を出すという。アヤさんは知り合い経由で、3ヶ月ほど手伝ってくれと頼まれたらしい。

南アではスーパーでも寿司が売っているほど浸透している日本食だが、モザンビークでは見るとこはなかった。北部しか回ってないが、あの国はこの辺りでマラウィに並ぶ、貧しさだった。アフリカに山ほどいるJICA隊員と大使館員、南アからの出張者を目当てにしてるのだろうか。ただ、モザンビークはツーリストは少ないが、東アフリカで一番の海を持ち、かなりポテンシャルの高い国だ。ひょっとしたら今後の発展を確信しているのかもしれない。その日は、久しぶりの知り合いとの再会で、遅くまで旅の話で盛り上がった。






















2016/SEP/24 「プタディジャバのタクシー運転手」

昨日は疲れていたのに遅くまで寝付けなかったので、遅くまで寝ていようと思ったが、日が上がるとテントのなかは暑くていられなかった。

テントから出ると、アンディが、オランダ人のバックパッカーに昨日のカテドラルピークに登った話を話していた。相変わらずアンディは喋りまくっている。

食パンと目玉焼きに玉ねぎとトマトを炒めて、コーヒーといれて朝食にした。食料は今日いっぱいで無くなりそうだ。明日以降もここにいるなら買い出しが必要になる。車がないので買い出しもヒッチで行かなければならない。

昨日はあんなに疲れていたのに、思ったより疲れはなく、筋肉痛もなかった。洗濯を済ませると、ドミトリーに泊まっていた日本人の女の子がツアーの打ち合わせをガイドとするから、通訳してほしいと呼びにきた。この子は日本から南アに40日ほどの旅行で来ていて、どうしてもこのドラケンスバーグのグラントラバースというレソトとの国境を12日間かけて歩くロングトレイルを歩きたいと話していた。

外のテーブルでガイドと3人で話をすると、女の子とは全く話が噛み合ってなかった。宿を通して紹介してもらったこのガイドは、12日間のトレッキングのはずが、何故か5日間だと聞いてきたと言う。6日後に他のツアーがあるから、出来ないという。しかも、当初聞いていたガイドとは別人で、昨日行われるはずだったこのミーティングも今日にずらされたという。そもそもこの宿のツアーデスクはイマイチ信用がおけない。どこに行くにもツアーでないと行けないというし、黒人の下っ端ホテルスタッフには、客に何か聞かれてもツアーデスクで聞くようにと箝口令が敷かれている。ツアーの値段は南アの物価から考えると割高で、わざわざガイドが必要とも思えないトレイルをツアーで行くはめになる。彼女がグラントラバースに行きたいからガイドを紹介してくれと聞くと、ガイド料は12000ランド(14,600)と言ってきた。12日間なので17万円以上だ。これはガイド代だけで、食料や装備はすべて自分で用意して、荷物も自分で運ぶという条件でだ。先進国だってもっと安くできるだろう。

取り合えず、このガイドは行くことが出来ないので、他に行けるガイドがいるか探してもらうことにした。二日後までに彼女にメールで連絡してもらうことにした。金額もこの辺りの相場の1600ランド(4,380円)で探して、難しければ、少し値上げ交渉に応じるということにした。

話を終え、今度は自分のために、ここからレソトに行く方法を宿のスタッフに聞きにいった。やはり、レソトはツアーで行けと言われたが、レソト北部のモノンツァという国境は、ここからそう遠くなく、「国境手前のプタディジャバまで行けば、そこから国境へのバスがあるんじゃないのか?」と聞くと「多分あるんじゃない」と曖昧に答えるだけだった。どうせプタディジャバまではヒッチで行くつもりなので、国境へのバスさえあれば、なんとかレソトへ行けそうだ。なにより現地の人が行き来してるのだから何かしら交通手段があるはずだ。これ以上何を聞いても、教えてくれなさそうなのでそれで行くことにした。レセプションで宿代を払い、テントをたたんだ。洗濯物が乾いてないので、残った食材で昼飯を作り、13時過ぎに洗濯物が乾いてから宿の前でヒッチをはじめた。

プタディジャバまではヒッチを三回ほど乗り次いでたどり着いた。さすがに日没直前で、すぐに宿を探し始めたが、中心部に宿がなく、連れていってもらった宿も高くて諦めた。タクシーランクに戻ってくると、運ちゃん達が、「宿はダメだったのか?」と聞いてきたので「高かったよ」というと、一人の運ちゃんが、「ウチでよければ泊めてやる」といい、泊めてもらうことになった。

ハリスと名乗るその男は一つ電話をしてから「俺はまだ仕事があるから、先に家に送っていくよ。家に奥さんがいるから世話してくれる」といい、車に乗り込んだ。

ハリスの家はマンデラパークというエリアにあり、見るからにタウンシップという感じの中の一軒家だった。道は舗装されてなく、道にはどぶ川がながれ、コンクリートブロックにトタン屋根の似たような家が並んでいた。かなり貧しいエリアのようで、ヨハネスのソウェトよりよっぽどタウンシップという感じがした。男は奥さんのプルーデンツと二人の子供を紹介してから仕事に戻っていった。

家のなかは外見からは想像できないくらい綺麗で、ソファセットに大きなテレビとパソコンが置いてある。シャワーはないが、トイレは庭にあった。ここは電気、水道などの公共料金を一切払ってないらしい。不法住居区ということだ。この辺りの人は1ヶ月500ランド(3,650円)程度しか収入もなく、それでも仕事につけてない人も山ほどいるという。孤児がおおく、孤児院もあるが、入れない子供もおおく、彼らはストリートチルドレンになってゆく。ストリートチルドレンはそのまま、ストリートで浮浪者へと育ち、町中には居場所のない歳いった浮浪者が、食べ物やお金を恵んでくれとせがむ。たいして大きくもないこの町でも10分も歩くと三回くらいそうした人に出くわす。白人の寄り付かないこのタウンシップでは仕事は殆どなく、どうすることも出来ない負の連鎖が続いている。

奥さんは夕飯にパパ(トウモロコシの粉のマッシュポテト)とビーフを煮込んだ物を出してくれ、食後に甘いミルクティーを作ってくれた。

ハリスは8時過ぎに返ってきた。彼は明日も朝5時から仕事だという。こんなに頑張って月500ランド。カテドラルピークからの帰りに寄ったピザレストランで見た、優雅な食事会を催していた白人達と、同じ国民とはとても信じられないこの世界で、この町の人々は必死に暮らしている。






2016/SEP/23 「カテドラルピーク」

昨夜は宿にいた南アの白人たちと夜までお酒を飲んだので、朝起きると軽い二日酔いだった。今、カテドラルピークの登山口まで乗せてくれている白人の男二人とプレトリアから遊びに来ていた女の子たちが、夜まで騒いでホテルの警備を困らせた。夜中に裸で芝生を走っていたらしい。

そんなわけで宿を出たのも、登山口に着いたのも遅れて、歩き出したときには11時だった。アンディは片道10キロで高低差は600m程しかないといっていた。登山の説明と地図とGPSがあるので、問題ないと言うので、アンディに任せることにした。

が、この登山の説明と言うのがかなり、曖昧だし、彼の言う地図はGoogleMapでトレイルは載ってない。歩き始めるとすぐに迷い、すぐにかなりの素人だと判明した。仕方なくMapsmeを見てみると運よくカテドラルピークまでのトレイルが載っていた。

Mapsme
のトレイルは正確で、なんとか進むことができたが、アンディの彼女は山登りをしたことがないと言い、かなりゆっくりしか進めなかった。二時間くらい進むと開けた草原にでて、その上の丘の上で昼飯を食べた。既に500mは上がったはずだが、あと100mで頂上とはとうてい思えない。アンディに確認すると1660mだと言い出した。1600以上登って戻ってくるには11時出発は遅すぎる。何より彼女のペースでは暗くなる前に戻ってはこれないだろう。

彼女に「ここで待ってたほうがいいのでは?」と聞くと「キツいがもう少しだけ進む」と言った。

昼飯の後、また登りが続いて、そこで彼女は引き返して、ランチを食べたところで待っていることになった。これはアンディが、彼女が歩くのが遅くて、もっと早く歩けと言ったことで怒ってしまったからだ。そもそもなぜ彼女と一緒に登ろうと思ったのか理解しがたい。どう見ても彼女には無理だ。それを分かってて連れてきたなら酷いヤツだ。

既に13時半を過ぎていて、ここから1000m登って、日が沈む前に戻れるかはかなり怪しい。だが、彼女がいなくなったので、アンディとふたり、一気にペースを上げた。

Orange Peel Gap
という急登を終え、稜線に出て、そこからは右手の谷を見ながらトラバースを進んだ。ここは斜度が殆どなく、ほぼ走るようにして進んだ。ガレ場の谷があり、そこを登ってゆくと右手に切り立ったピークが見えた。多分これがカテドラルピークだ。Mapsmeのトレイルはこのガレ場の上辺りで無くなっていた。かなりの斜度だし、最後の登りのルートが分からない。アンディは彼の読んだ説明だと右に巻くとあるから、右からだと言う。ガレ場からピークの右側へ回り込もうとするが、登山道らしきものはないし、垂壁に近い岩を登らなければならない。こんな所をツアー客が通るわけがない。

アンディに右は諦めて左側へ行こうといい、しばらく進むと登山道らしきものにつきあたった。多分これで間違えない。そこからは足場の悪い箇所や斜度のある岩肌の登りがあったが、なんとか梯子にたどり着いた。この梯子は事前に聞いていたもので、登山道があっている事を意味した。多分ピークまではそう遠くないはずだ。

梯子を登ると、そこからは分かりやすい道で、30分とかからずピークに到達した。長い登りだった。あいにくピークは雲で覆われていたが、下り始めると、ピークから下の景色は雲が晴れて眺めることができた。なかなかドラマチックな地形をしている。写真を取りながら下っていったが、アンディが彼女を待たしているので、殆ど駆け足になった。途中迷って、梯子の場所を探すのに手間取ったが、その後は来た道を下るだけだった。

アンディの彼女と別れた辺りで、アンディが大きな声で呼んだが、返事がなかった。既に5時を回ってしまっている。太陽も山の向こうに沈み、あと一時間で真っ暗になるだろう。

昼飯を食べた辺りで、再度呼ぶと、微かな返事があった。多分もっと下だ。更に呼びながら、下っていくと、トレイルの途中に立っているのが見えた。すれ違ってなくて本当に良かったと安堵の気持ちで一杯になった。

聞くと、5時を過ぎても戻らないので、暗くなる前に降りなければと、下り始めたと言う。その判断は正しく、彼女が歩き始めてなければ、暗くなる前に入り口に戻ることは出来なかっただろう。結局トレイルを抜けたのは6時で、既に暗くなっていた。あとは、南ア人の彼らが待っていてくれているかが、心配だった。3時半くらいに戻ると言ってきたので、帰ってしまった可能性もある。

だが、ゲートに戻るとゲートキーパーが彼らは敷地内のカテドラルピークホテルで、まだ待っていると教えてくれた。そして、ゲートキーパーがホテルに連絡をして、10分でゲートまで迎えにきてくれた。皆で抱き合って喜んだが、あと10分遅ければ、警備にレスキューを頼むところだったと教えられた。

南ア人の彼らは、ズット待っていてくれたので、帰りに夕食をご馳走した。カテドラルピークから宿までは120キロも離れていて、宿に戻ると夜11時を過ぎていたので、皆直ぐにベットへ向かった。今日は裸で芝生を走るヤツはいないだろう。













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