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2015/NOV/22 「エイラットを駆け抜けろ」

今日はバスでテロ予告の出ているエイラットへ行き、なるはやで国境を越えてヨルダンへ入る。ヨルダンのアカバからぺトラのあるワディ・ムーサへのバスに乗るには早朝に出る必要があった。8時発のバスに乗るためにイブじいの息子の車でバスターミナルへ送ってもらうことになった。

バスターミナルに着くとなんとチケットは売り切れで10時のバスしか乗れないと言われた。こんなにたくさんの人がバスで移動するとは思わなかった。仕方なくターミナルのカフェで時間をつぶす。エスプレッソとブラウニーを食べた。

バスは快適だったが予想通りアカバ13時発のバスには間に合いそうもなかった。エイラットのバスターミナルに着くとシオリンと綾ちゃんには「先に通りに出てタクシーを捕まえておく」と伝えてゲートを出た。通りにはタクシー数台が停まっていたがローカルもどんどん捕まえるので少し手間取った。二人を探すと二人して下を向いて携帯に見入っていた。そういうことだと誘拐されるぞと思ったが、二人を呼んで早くタクシーに乗るように伝えた。テロ予告が出ているのでエイラットは駆け抜けたかった。

15分も走るとイスラエルのイミグレーションの前で止まった。これでもうテロは心配ないだろうと安心した。出国税を105シュケル払い、あまった小銭でスプライトを買った。出国スタンプはなく、入国のときに貰った紙を回収して終わり。そのあとは歩いて国境を渡った。殺風景な国境だ。グッバイイスラエル、ハローヨルダン。

ヨルダンのイミグレにパスポートをわたすと入国スタンプを押された。これが唯一イスラエル入国の痕跡になるがイスラエルのスタンプが押されるよりはマシなはずだ。次に綾ちゃんがパスポートを渡す時にシオリンは「ここも確か別紙にスタンプを押してもらえるとブログに書いてありました」と言った。そうなの?なんで俺がパスポート出す前に言ってくれないの?と思ったが綾ちゃんがイミグレに聞いてみると「何故押したくないんだ!」と威圧的な返事が返ってきた。やっぱりダメなのかなーと思うとその後、緑色の紙が出てきて記入するように言われた。そして隣の部屋の偉そうな人に確認した後、その緑の紙に入国スタンプを押してくれた。シオリンも同じことをしてもらい、結局俺だけパスポートに押されてしまった。「えーー!そりゃーないよー。俺のも別紙にしてよー」とゴネるとパスポートに押されたスタンプの上からさらにスタンプをゴリゴリと押してなんだか分からないようにしてくれた。これはかなり不自然でスタンプ自体は残っているので微妙なラインだが、そのままスタンプがあるよりはいいはずだ。。

イミグレを出るとタクシーの運ちゃんたちがやってきて、アカバからのバスはもう無いといった。確かにバスは13時発でないのでここはタクってワディ・ムーサへ行くかタクってアカバの町へ行き明日のバスでワディ・ムーサに行くかしかない。宿代を考えればワディ・ムーサへ言ったほうが良さそうだった。値段は50ディナールだというがすぐに45に落ちた。「40ならワディ。ムーサへ行く。嫌ならアカバまでだ」と言うと折れてくれた。

タクシーはガンガン飛ばして、砂漠の真ん中の道を夕日をバックに走った。赤く染まった岩山はキレイでドライブのようだった。陽気な運ちゃんは途中のみやげ物屋で止まり、その屋上で写真をとるといいと連れて行ってくれた。

ワディ・ムーサの手前の村で何故か道をそれて路地に入っていき、一軒の家に着いた。そこは彼の家だといい、後でバーベキューをしようといいバーベキューセットを積み始めた。「腹は減ってないからいい」と断っても「いいからいいから」と言いホテルに着くとまた「今から近くでバーベキューをしよう。お金は取らないから」とひかなかった。だいぶ怪しくなってきたのでタクシー代を払ってレセプションに駆け込んだ。中に入るまで後ろから話しかけてきてしつこかった。レセプションのオヤジはそれを見て「ヨルダンではタダのものは無いよ」と言った。

夕食の後、シオリンと綾ちゃんは明日ぺトラ遺跡に行く前にインディージョーンズが見たいといいだした。ぺトラはインディージョーンズ最後の聖戦のロケ地だった。そういう客が多いのか宿にはDVDがあり見始めたが、英語だったのでシオリンと綾ちゃんは終始うつむいて携帯をいじっていた。宿のオヤジは100回以上見てるらしく、殆どの台詞を覚えていて、俳優が話す前にすべて台詞を言ってのけたが、映画鑑賞には邪魔でしょうがなかった。

 


2015/NOV/21 「クレイジーイブラヒムハウス」

今日はまたシャバットだ。シャバットの朝は嘆きの壁に多くのユダヤ人が集まるというので早朝に見に行ってきた。ついでにキリストの墓も見てオリーブ山を登って昼頃に宿にもどるとシオリンと綾ちゃんがダイニングにいた。二人は確か今日アンマンへ行くと話をしていた。

シオリンと綾ちゃんはイスラエルからヨルダンに行ってそれからエジプトで友達と合流して、アフリカを南下するらしいが、イスラム国が大きな障害となっていた。

数日前にイスラエルのエイラットにイスラム国がテロ予告を出した。具体的な町の名前を出してのテロ予告は初めての事らしい。シナイ半島にはイスラム国勢力が潜んでいるといわれていて、先月にはシェルム エルシェイク発のロシアの航空機が爆破されていた。つい数日前にパリで同時多発テロがあったし、同じ日にベイルートでも内戦後最大のテロがあった。

二人はエイラットを避け、キングフセイン橋を抜けてアンマンへ行きぺトラだけ見てアンマンからカイロへ飛ぶと話していたが航空券代が3万以上して悩んでいた。「田付さんはどうするんですか?」と聞かれて「キングフセインを抜けるにはイスラエルでヨルダンビザを取らないといけない。それだとイスラエル入国の痕跡がパスポートに残るし、出国税もエイラットから抜けるより倍近くするからエイラットから抜けるよ」というと一緒に行っていいかと言ってきた。特にシオリンは遠くからでも目立つのでテロの標的にされかねないと思って悩んだが、国境へのシェアタクシーなど協力できることも多いのでダハブまでは一緒に行くことにした。

「じゃー出発は明日だ。あまり目立つ格好は避けよう」と二人に伝えた。その日は特に予定もなく出発の準備をする予定だった。イブじいは昼ごはんを作ってくれた。初めての魚料理だったが塩辛くて、一つ以上食べると身体に悪そうだった。イブじいは女の子がいるので一日中家にいていろいろな話をした。昨日やってきたアイルランド人のおばあさんが出てきて挨拶をした。とても品のあるおばあさんでよく一人できたなーと思えるほど歳をとっていた。イブじいはおばあさんに「なにか不自由はないか?食べ物は足りているか?」と親切に話をした。72歳のイブじいが85歳のおばあさんを心配する姿はどこか感動的だった。

イブじいは「彼女は初めロシア正教会に泊ろうとしたがお金を一銭も持ってないので断られて、ここへ連れてこられた」と言った。どれくらいの滞在か?と聞くと「ずっとだ」と答えたらしい。彼女はここで死を迎えるためにやってきたと。「エルサレムで最後を迎えよと神様が言った」という。イブじいはそれは困ると説得して帰ってもらうことになった。

イブじいはそういうキリスト教徒が後を絶たないという。今までにも100人以上ここで死にたいという人がきたらしい。そのたびに説得したり、大使館に電話して引き取ってもらったりしているらしい。イブじいは「この家はクレイジーイブラヒムハウスだ」と言った。

以前1泊だけ泊ってどこかへいなくなったオーストラリア人がいて、ある日警察に呼び出されていくと、彼は牢屋に入っていて「イブラヒム!俺だ!」と話しかけてきたという。彼は髯も伸びて最初気づかなかったが、思い出して「君か?どうしたんだ?」と聞くと警察は「この男は岩のドームのなかで隠れていたので捕まえた」と言った。「何故そんなことをした?」と聞くと男は持っている大きなバックの中の箱にキリストが再び降りてくるといい。そのために岩のドームで待機しなければならないと真剣に話したらしい。警察を出るには保釈金が必要でそれをイブじいに頼んだ。イブじいは払ってやったと言った。

イブじいは宿代(寄付制)を払ったかはよくチェックするがお金のない人からはお金をとらない。アイルランドのおばあさんも払ってないし、韓国人カップルはイスラエルに来る前ハンガリーでお金もカードも盗難にあってしまったのでタダだ。しかもイブじいは毎日小遣いを与えている。韓国人は調子に乗ってイブじいに「ポテトチップスが食べたいー」などと催促を始めるし、アイルランドのおばあさんはイギリスのアパートのデポジットを払ってくれとイブじいに頼んでいた。

この宿の管理をしているピーターは前任のアメリカ人がトイレで心臓発作で亡くなったためにやってきた。彼はかなりフレンドリーで食材の買い物や洗濯もしてくれるが、2面性があることに気づき始めた。ある夜、彼は外出していて深夜1時くらいに帰ってきた。入り口の鍵はピーターが持って行ってしまったので用心のため鍵ではなく内側からフックで扉のロックをしていた。彼は夜帰ってくると鍵で開けようとしたがフックがかかっていて開かないことに気がついた。みんなまだダイニングで話していたので何か音がすると言って、こんな時間に誰だろう?と恐る恐る扉に行き、「誰ですか?」と聞くと抜こう側から急に扉をすごい強さで叩かれた。とてつもない大きな音とともにガラス窓を閉めるために内側から引っ掛けて固定していたフォークが吹っ飛んできた。強盗だ!と思ったがその後、扉の裏から聞いたことのある「ハッハッハー」という笑い声が聞こえて、扉を開けると笑顔のピーターが立っていた。何だったんだ?と思ったが笑いながら上の階へ上っていった。それ以来、いつかピーターは切れてイブじいを殺すんではないかと心配になった。


ここは本当にクレイジーイブラヒムハウスだ。






2015/NOV/20 「パレスチナ自治区」

昨夜メールを確認するとカメラ屋からレンズの修理が終わったとメールが来ていた。金額は1050シュケルと日本で直すのと変わらない値段だ。

9時前に宿をでて、カメラ屋に行きレンズを受け取った。また壊れないようにカメラのバッグを新調することにした。折角なのでしっかりしたバッグを買った。修理代と合わせて4万円。かなりの出費だ。

カメラ屋からまた旧市街のダマスカス門に戻り、そこからへブロンに行くことにした。カメラ屋で時間がかかったので少し遅くなったが、今日はパレスチナ自治区のへブロンとベツレヘムをまわることにした。

まず、バスでベツレヘムまで行きそこからへブロン行きの乗り合いバンに乗った。バンを探しているときに「今日はへブロンに行くな。危険だ」と何人かが話しかけてきたが乗り合いバンの客引きが「乗れ乗れ」というので乗り込んだ。乗り合いバンはすぐに出発して、へブロンに向かって南下していく。だが、街道からへブロンに行く道がイスラエル軍に封鎖されている。別の道に行くとまた封鎖されている。乗客は携帯で電話して、運ちゃんにアッチだコッチだと指示を出して、へブロンに行く道を探す。

しばらくして、コンクリートの腰壁で封鎖されている道の端をすり抜けて、へブロンに入っていった。「何処に行くんだ?」と運ちゃんに聞かれて、イブラハム モスクと答えるとモスクへの参道のような商店街の入り口で降ろしてくれた。町のお店のシャッターは全て降りていて、人もほとんど歩いていない。道路にはゴミが散乱していた。パレスチナ自治区はユダヤ教の休日シャバットも関係ないと聞いていたが、エルサレムよりも開いている店がない。パレスチナ人に聞いてみると「悪いイスラエル軍が来て、店を全て閉めさせた」と言った。よく分からないがイブラハム モスクを目指すことにした。

参道は全てシャッターが閉まっていて、かなり異様な雰囲気だ。しばらく行くと細い路地になり、道のすぐ上に金網が張られていた。金網の上にはイスラエル人が嫌がらせで投げた石やゴミがのっかっている。会うパレスチナ人は例外なく「ウェルカム」と言うので始めはとてもフレンドリーな人達だと思ったが、こっちの顔も見ずにウェルカムといって去っていく子供もいて、違和感を感じはじめた。この町はイスラエルの入植地が点在し、パレスチナ人とイスラエル人の衝突が起きている最前線だが、パレスチナ情勢に興味がある旅行者やジャーナリストが来る。パレスチナ人は旅行者にフレンドリーにすることでパレスチナ人はいい人だと宣伝をしているのかも知れないと思えた。

イブラハム モスクはイスラエル管轄エリアにありセキュリティチェックを通る必要があった。警備の軍人に話を聞くと昨日テルアビブとへブロンの北でパレスチナ人によるユダヤ人襲撃があり5人殺されたと教えてくれた。そのなかには巻き込まれたアメリカ人旅行者もいたそうだ。へブロンの町の店が全て閉まっているのも外出してる人が殆ど居ないのも襲撃を受けて、イスラエルがこの町を外出禁止にしたからだった。

モスクは金曜なのでムスリム以外は入れなかったので隣のシナゴークに行った。この二つは同じ場所に建っていて、そこにはイブラハムの墓があるといわれている。中ではユダヤ人が熱心に祈りを捧げていた。出るとまた同じ道を戻ってバス乗り場に着いた。バスにはイブラヒムハウスにいたシオリン、綾ちゃん、大学生が出発を待っていた。

バスはまもなく出発して1時間弱でベツレヘムに着いた。ここにはキリストの生まれた場所に建てられた教会があり、たくさんのツーリストがいた。へブロンに比べると明らかに平和な雰囲気だ。教会内のキリストが生まれた場所は巡礼ツアー客でごった返していて、入るのに一時間くらいかかった。巡礼ツアー客は祭壇に額を擦り付けて祈るので列はなかなか進まなかった。感極まって泣き崩れるひともいた。

ベツレヘムにはバンクシーの有名なグラフィティが幾つかある。既に夕方だったが、近いものから見に行くことにした。教会からさらに東へ進み坂道を下り、また東へ。途中でパレスチナ人の若者が「バンクシーか?」と聞いてきて、案内してくれた。そのグラフィティはガソリンスタンドの裏の壁にあり、思っていたよりはるかに大きかった。もう暗くなってしまったので、タクシーでバス乗り場へ戻ろうと思ったが、どうせタクるなら少し北にあるもう二つの絵も見に行くことにした。タクシーの運ちゃんにバンクシーの絵までと行ったが、運ちゃんはイスラエルの分離壁のコーナーで止まり、「ここからは閉まってるから絵は見れないよ」と言った。タクシーを降りると近くの男が「その先は今危険だ」と言う。金曜日はパレスチナの挑発がエスカレートする日らしく、別の日に出直したほうがいいといわれた。絵は二つあり一つはその先を通る必要はないので、そっちを見に行くことにした。少し歩くと防弾チョッキを着た鳩にライフルの照準が当たっている絵が壁にあった。見覚えのあるものだ。道路脇で何かが焼かれて煙がたちこめている。人は全く歩いてないが車通りはあった。そこからすこし行った先を折り返せば最後のバンクシーの絵があるはずだが、角には分離壁の監視塔とその横には閉まったゲートが見えた。折り返しの角付近では石や催涙弾のカスが地面に散らばっている。角まで行き、左へ曲がって最後の絵がある通りに入ると今まで以上に大きな石と催涙弾のカスがあたり一面散乱していた。ここも煙が立ち込めて鼻の粘膜が痛いことに気がついた。ただの煙ではなさそうだ。後ろで音がして振りかえると、石が地面に落ちて跳ねるのが見えた。催涙弾のような筒状のものも落ちてきて乾いた音を出した。次から次へと上から投げられている石や催涙弾がどんどん音を立てて地面にあたるが何処から飛んできているか暗くて見えない。さすがにこれ以上はヤバイなと思った。すぐに振り返り今来た道を角へ走った。そこから早歩きで角を曲がって元の通りにもどった。目の前にタクシーが止まり、扉を開けて「乗り込めー」と言うが無視して早歩きで鳩の絵の場所まで戻った。取り合えずイスラエル側に戻らないとと無意識に頭の中で繰り返した。そのまま歩いて分離壁沿いを北へ歩いてイスラエル兵が警備する塀の間を抜けた。イスラエル兵の後姿を見ながらイスラエル側をバス停へと歩くともう大丈夫だという安心感でおおきく息を吐いた。金曜の夜に来たのは失敗だったなーとすこし反省した。













2015/NOV/19 「死海」

ここに来て、調子の悪かったカメラは悪化して昨日からシャッターを切ることさえ出来なくなった。ヨシ君がまったく同じレンズを持っていたので借りて着けてみると普通に撮れた。問題はレンズにあるようだ。仕方ないので昨日新市街を歩き回ってカメラの修理屋を探して見積もりを頼んできた。

明日は金曜日でまたユダヤの休息日前日なので午後からはパレスチナを除く全ての交通機関が止まる。なのでパレスチナは金曜に行くのが良さそうだ。そんなわけで今日は死海に行くことにした。朝飯を食べているとヨシ君と女の子達が降りてきて、彼らも死海に行くというので一緒に行くことになった。

女の子はシオリンと綾ちゃんといい、バックパックではなくキャリータイプのバッグで旅をしていた。シオリンは髪を赤く染め、赤いコンタクトをした子で、まるで日本にいる時のような格好で旅をしていた。綾ちゃんはシオリンとは対照的な外観でおとなしそうな広島弁の女の子だった。二人とも英語が苦手のようで常に携帯をいじっていた。イスラエルからヨルダン、エジプトと周り、そこでアイスランドを一緒に旅したという男の子と合流してアフリカを南下するという。ぱっと見、大丈夫?と思えるが旅人のブログを山ほど見ていて、もう旅しないでもいいじゃないかと思えるほど詳しかった。それなのにイスラエルの問題は何も知らないで、彼女達にとってはイブラヒムハウスはただの日本人のよく行く安宿のようだった。それでも先日ヨシ君に連れられたてパレスチナ問題を知らずにパレスチナ自治区を見に行ってきたというので驚いたが、きっと彼女達は、みんな行く所=有名=行ってみたいという考えなのだろう。本当にいろいろな旅人がいるものだ。

イブラヒムハウスを出てオリーブ山をくだり、ダマスカス門からトラムでバスターミナルへ向かった。かなりぎりぎりで調べていたバスに乗りこめた。バスはエルサレム市街地を抜け、黄土色の山の間の道をすすむ。しばらくすると左手に大きな湖が見えた。水面がぼんやりしていて、奥にはヨルダンであろう山が見えた。Suuntoの時計で標高を見ると-425mと表示されている。死海は世界一標高の低い湖だったのを思い出した。

エイン・ゲディというパブリックビーチのあるというところでバスを降りた。周りにはホステルが一軒と国立公園の入り口に売店やトイレがあるだけであとは何もなかった。ビーチに向かう道路はフェンスで封鎖されている。おかしいなと思ったが、とりあえずビーチのほうへ歩き出した。フェンスはビーチのあるエリアよりも大きい範囲をすっぽり囲んでいたので、隙間から入りビーチのほうへ歩いた。おきな駐車場と売店、トイレのような建物があったが、しばらく使われてない様子で誰もみあたらない。死海へ階段を下りていくとビーチと海岸の間のような場所に出た。だが肝心のシャワーがない。これでは泳げないなーと足だけ入ってみる。でも浮力は感じられない。舐めてみるとしょっぱいと言うより苦かった。死海は水が常に蒸発してるせいか景色がぼんやりしていてとても不思議な光景だ。まっ昼間なのに朝霧のようだ。

みんなで相談したがシャワー無しで宿まで帰るのは危険という事になり、さっき見たホステルにシャワーだけ借りれるか聞きに行くことにした。ホステルは空調が効いていて快適そうだが1120シュケルと高かった。シャワーを借りたいというとすべての部屋が埋まっているのでとすぐにわかる嘘で断られた。とりあえず腹が減ったので国立公園の売店までいくことにした。サンドイッチを買い食べていると空のペットボトルが建物脇にたくさん落ちていることに気がついた。トイレにひとつ持っていき手洗いの蛇口をひねると真水がでた。これは!とペットボトルに水をいれて、外に出てヨシ君に見せると「いけますねー」といい空のペットボトルをもう3本持って来てくれた。女子トイレは満員御礼で長蛇の列なので男子トイレで3本のペットボトルに水を充填した。「これでシャワー代わりにしよう」とシオリン、綾ちゃんに言って、また元にビーチへ歩き出した。

今度はみんなためらいなく水に入り、お決まりの水に浮いて本を読むポーズをとり写真を撮った。あとはみんなで浮力を楽しみながらしばらく泳いだ。浮力が強いので足が浮いてしまい、仰向けはいいが、うつぶせは背中が反って痛い。

しばらくすると近くで寝ていたイスラエル人のおっさんが向こうに泥があるぞーと言うのでついて行くと水辺の土が出ているところを掘り、その土を死海の水で揉んで泥を作ってみせた。これがマッドスパの泥かーと想像と全く違ったが、どんどん身体に塗ってみた。これで肌はすべすべになるに違いなかった。

死海からのバスは遅くまでないので日が沈むころには切り上げてペットボトルの水で身体を流した。完全に落ちてはないが宿までは問題ないだろう。

宿にもどると大学生がいて、死海に行ったんですか?と聞いてきた。彼はヨルダン側で行ったけどゴミだらけで汚かったらしい。死海からの階段を上がるときに振り返ると夕日に照らされたヨルダンの山々が幻想的だったのを思い出した。イスラエル側で行って良かった。


シオリンと綾ちゃんは大学生といろいろ話をしていたが、「話をする時にあんまりニヤニヤしないほうがいいですよ」と言われて凍り付いていた。29歳の女の子達が21歳の学生にだ。恐ろしい大学生だ。





2015/NOV/17 「エルサレムの渋谷」

昨夜、夕飯の途中で日本人の男の子が帰ってきた。彼はヨシ君といい、エジプトからヨルダン、イスラエルと廻ってきたという。ここには2日前から泊まっているらしい。さらに夜にアンマンから到着した日本人の男の子がやって来た。こっちの子はまだ学生でかなり若く見えた。

朝起きてダイニングに降りるとユダヤ人の老夫婦が朝食を食べていた。キッチンで昨日の夕食の残りを鍋で温めて食べることにした。彼らは観光ではなく、ワークショップに来ているといい、今日もパレスチナの学校でワークショップがあるという。暫くするとヨシ君が起きてきた。彼はキッチンの使い方(何でも食べてよい)を教えてくれた。彼が来たときにはイブラヒムは居なかったので自分で夕飯も適当に作ったそうだ。

エルサレム旧市街を歩きに行こうとするとヨシ君も来ると言うので一緒に行くことにした。エルサレムの旧市街は壁で囲まれていて、幾つかの門からしか入れない。なかはユダヤ人、アラブ人、キリスト教徒、アルメニア正教の4つの地区に別れている。中にはユダヤの神殿跡に建てられた岩のドームモスクやキリストの墓のある聖母教会など聖地が至るところにある。中でもキリストが十字架を背負って最後に歩いた道ヴィア ローサには世界中からのキリスト教徒が巡礼にやって来る。

人通り壁の中の見所をまわり、アルメニア地区の外の最後の晩餐の部屋を見に行った。ここは本当に聖書の中の出来事の現場だらけだ。それからヨシ君が昨日2日前に行ったという新市街の近くの超正統派の人がたくさん住むエリアに行くことにした。そこはエルサレムの中でも超正統派の人達の人口密度か高いと言うか、歩いている人はほぼ全て超正統派だった。すこし進むとスクランブル交差点があり、信号が青に変わると四角から一斉に超正統派の人が歩き始めた。まるでエルサレムの渋谷だ。目の前の光景に見入ってしまい3回も青を見逃していた。

さらにそのエリアを歩いているとヨシ君がユダヤ人以外は入れないエリアがあると言った。その周辺も独りでは心細かったらしく前回は行かなかったらしい。とりあえず行ってみようとその方向へいくと、シナゴークがあった。そこには大勢の超正統派の人が集まっていた。暫く眺めていると超正統派の人達は話しかけてきた。しかもめちゃくちゃフレンドリーだ。写真も撮れ撮れーとポーズもとった。だいぶ見た目とギャップがあり驚いたが、彼らもユダヤ教の勉強に勤勉なだけで至って普通の人達なのだろう。

その近くにヨシ君が見たという立ち入り禁止の看板が細い路地の入り口の上にあった。だがよく見ると'このエリアは聖なる場所なので正しい服装を着用し、写真も控えましょう`と書いてあるだけだった。ヨシ君に入れるよと伝えてその中に入った。中は団地のような建物と学校、商店があり町のようになっているだけだった。

夕方にまた嘆きの壁に戻ってみた。寒いせいか思ったより人はいなかったが、隣接するライブラリーのような部屋には超正統派のひとが溢れていた。彼らは政府からお金が出て仕事もしなくてよく、兵役もない。これだけの人達を税金で支えるのはさぞかし大変なことだろう。


夜、宿に戻ると日本人がもう2人やってきた。女の子2人旅のようで旧市街の中の宿から移ってきたという。イブラヒムハウスはかなりの大所帯になった。ジーさんは女の子の到来で急に張り切り始め、その夜は遅くまで家に帰らなかった。











2015/NOV/16 「イブラヒムハウス」

テルアビブからのバスは夕方にエルサレムバスターミナルに着いた。バスターミナルにはたくさんの軍隊の姿が見られた。イスラエルは任務中でない制服姿の軍人がやたらといるのでバスや電車の駅は軍人だらけだ。駅舎に入るにはセキュリティーチェックがあり、常に緊張感がある。最近頻発しているユダヤ人襲撃事件の対応でエルサレムにはたくさんの警備が配備されたときく。治安はどうなのだろうか。

バスターミナルを出るとこれまではほとんど見ることのなかった、ユダヤ教の超正統派と呼ばれる白いシャツにブカブカの黒いジャケットとズボン、黒のハットもしくは皿のような帽子を頭に載せた人達が歩いていた。女の人も膝下までの黒いスカートとカーデガンが大半だ。想像していたイスラエルだーと通りの人を観察しながら、市バスのバス停まで歩いた。

ダマスカス門までのバスを聞くと周りの3人くらいが協力して調べてくれた。ただし、バスはなかなか来なくてダマスカス門に着いたときにはすでに辺りは暗くなっていた。

エルサレムにはイブラヒムハウスという有名な宿がある。イブラヒムさんはパレスチナ人でイスラエル、パレスチナの平和活動のための活動している。彼はオリーブ山にあるイブラヒムハウスを旅人のために解放していて、旅人は寄付をするシステムだった。

ダマスカス門から東へ歩いてオリーブ山行きのバスのターミナルに着いた。すると周りの人がイブラヒムハウスに行くのか?と話しかけてきた。そうだと答えると274番の運ちゃんに大きな声で話しかけたあとにそのバスに乗れと教えてくれた。よっぽどイブラヒムハウスを目指す日本人が多いのだろう。

バスはオリーブ山の上の方で停まり、運ちゃんがここで降りろと教えてくれた。お礼を言って降りたが、暗いし何処にイブラヒムハウスがあるかは知らなかった。周りの人に聞くとアッチだと言うのでその方向へ進み、その先で子供に聞いて連れていってもらった。

階段を昇り扉を開けると中国人っぽいカップルとかなり歳のいった欧米人夫婦が横たわったおじいさんを囲んでいた。こちらに気がつくとおじいさんは大きな声で「ウェルカム!」と言った。そして、おじいさんは老夫婦の旦那を指して彼がイブラヒムだと言って笑った。周りも笑っている。どうやらこの横たわったおじいさんがイブラヒムのようだ。じーさんはは大きな声で「イート!」と言った。キッチンから黒人の男がやって来て握手をした。「ハッハッハー ここにはもう一人の日本人がいるぞ」と笑いながら言ったが何処が面白いのか分からなかった。彼はピーターといいイブラヒムハウスの管理人的なことをしていた。じーさんはまた「イート!」と叫んだ。「ありがとう。でも荷物を置きたいんだけど」と言うとピーターがドミトリーに案内してくれた。

ダイニングに戻るとじーさんはすかさず「ウェルカム!イート!」と叫んだ。「ありがとう。食べるよ」と言って席に座ると中国人カップルの女の子が皿にライスと豆と芋をトマトソースで煮込んだ物を盛ってくれた。食べながら他の人と話をした。老夫婦はアメリカのユダヤ人でイブラヒムとは旧知の仲だといい、中国人だと思ったカップルは韓国人の旅人だった。彼らはハンガリーでお金とカードを盗まれてイスラエルから韓国に帰るまでここに泊めさせてもらっていると言った。イブラヒムじーさんの飯は量で勝負というのが正確な表現な感じだったがありがたくいただいた。食べ終えて席を立とうとするとじーさんがまた「イート!」と叫んだ。「え!もうお腹いっぱいだけど?」と言うと「イート!」と連呼する。韓国人にもイート!を連発する。仕方ないので皿に半分くらいよそって食べる。お腹がきついなーと思いながら平らげると、また「イート!」。何がしたいのか意味不明だ。韓国人達ももう食べられないとジェスチャーする。すると今度は老夫婦に「イート!」。老夫婦は笑っている。着いてからずいぶん経つのにじーさんはウェルカムとイート!しか言ってない。イブラヒムハウス強烈だなーとすこし不安がよぎった。









2015/NOV/14 「テルアビブ美術館」

テルアビブの宿には夜12時近くに着いた。ハイファでシェルートにバックパックを積んで近くのファラフェル屋に行っている間にバスが出発してしまうハプニングがあったが、テルアビブに着くと先に着いたバックパックを預かっていてくれた。スターミナルから宿へは歩いて40分以上もかかった。夜道には黒人やフィリピン人が多くておどろいた。

朝食付きの宿だったので朝、食堂へ行くと数人が朝食を食べていた。同じ部屋にいた人がコーヒーを注いでくれたのでお礼を言い「どこから来たの?」と尋ねると「ガザ」と答えた。何処の国だろうと思ってもう一度聞くと今度はもっとはっきりと「ガザだ」と答えた。 「ガザってガザ地区?」と聞くと「そうだ」と答えた。かなり驚いたがとりあえず「ふーん」と言ってそこを離れた。ガザの話を聞いてみたかったが自粛した。どうやってガザから出てこれるのか疑問だった。

テルアビブはビーチ沿いに栄えた町で、オシャレなカフェもありイスラエルでは一番近代的だが、町すべてがきれいというわけではなく、B級のLAといった感じだ。海沿いのプロムナードではイスラエル人がローラーブレードやスケートボード、自転車に乗っているし、ビーチでは日光浴をする人が寝転がっている。気温も高く11月でも海に入ることができるほど温暖だ。物価が安ければ悪くないところだ。イスラエルは外食が高く、ファラフェルで16シュケル、ケバブ(小)だと28シュケルする。大きいサイズなら32シュケルで1000円近い計算になる。昼にファラフェル、ポテト、ドリンクのセットを食べたが35シュケルだった。しかもぜんぜんオシャレではない店でだ。怖くてオシャレカフェには入れない。

テルアビブはショボイ旧市街みたいな場所があるが、あまり見所はないのでギャラリーをみたりビーチで寝て過ごした。そもそも土曜で市内バスも止まっているので遠くにはいけない。楽しみにしていたテルアビブ現代美術館は開いてはいるが遠くていけなかった。しかも何故か日曜は休館なので明後日まで物価の高いテルアビブに滞在することになる。日曜に閉館する美術館はイスラエルだけだろう


ロンドンで暮らしていた頃にArchitecture Designという雑誌に掲載されていたプレストン・スコット・コーエンのEyebeam Museum of Art and Technologyコンペの提案でとても衝撃を受けたのを覚えている。テルアビブ美術館はそのプレストン・スコット・コーエンの数少ない実現作だった。昔はそんなの建つのかなーと雑誌を眺めていたが今やどんなデザインでも建つ時代になった。彼は長らく実作のない建築家だったがようやく建てられるようになった。ある意味時代が追いついたということなのかも知れない。いい建築だといいなー。







2015/NOV/13 「ハイファとアッコ」

ハイファの町は温暖でなかなか雰囲気のよい町だ。古い建物が残されたGerman Colonyの目抜き通りには欧米人の旅行者もわりと見かける。町の斜面にはバハーイ教の聖地の庭があり、世界遺産にもなっていた。

朝から町を歩き、アラブ人地区を歩いてピザを買って朝食にした。スークのような通りを歩いて、方向は気にせずに進んでみた。なかなか生活感のあるエリアで面白かった。少し登ったところでパン屋があり、そこでエスプレッソを飲んで休んだ。パン屋にバハーイガーデンの行き方を聞くとケーブルカーで丘の上まで行けといわれた。イスラエルはケーブルカーも安くはないが、みんな歩いては無理と言うので乗って一番上まで行くことにした。

駅を出て歩くとすぐに海が見えた。海岸沿いに広がるハイファの街が見渡せた。そのまま景色を見ながら進むとバハーイガーデンの入り口に着いた。抜群の青空と風が本当に気持ちよい。沢山観光客がいて上から庭の写真を撮っている。しかしエントランスに行くと今日はバハーイの祝日で開いてなかった。ガッカリしたが庭は上から眺められるのでまーいいかと気を取り直して、ダウンタウンまで下った。途中からバスに乗りビーチの近くで降りた。海岸沿いには魚釣りをする人や海を眺める人が沢山いた。海は予想以上にきれいで水も透き通っていた。海の彼方にはタンカーが浮いている。

パブリックビーチだと思った場所はウインドサーフィン専用で入れなかった。時間はまだ昼だったので宿のスタッフが勧めていたアッカの町に行ってみることにした。駅まで歩いて、そこから電車でアッコへ向かう。駅も電車の中も兵隊だらけだ。彼らは移動中で任務中ではないが、軍服姿でライフルを携帯しているのでどうも落ち着かない。イスラエル人は大抵大学へ行く前に兵役に行くのでみんな18,19歳だ。テロリストがいたら彼らが撃ち殺すのだろうか。10代の若者には酷な話だ。

となりの椅子に座っていたイスラエル人が急に話してきた。アッコに行くと言うと着いたら教えてくれるといった。彼はウクライナ人でイスラエルに移住して2年だといった。最初の6ヶ月はヘブライ語の学校に行き、テストを受けてユダヤ人の認定を受けたという。今は大学に通っているらしい。ウクライナ育ちなのでロシア語、ウクライナ語をはなし、今話してる英語を含めると4ヶ国語だ。ヘブライ語は簡単だよと流暢な英語ではなす。2重国籍かと聞くとウクライナ国籍は捨てたといった。イスラエルに移住を決めたからもう不要だと言い切った。

アッコの旧市街は迷路のような路地が入り組み何度も迷った。スークにはおおくの人が買い物をしていて活気がある。観光地でもある旧市街の中で暮らす人たちの生活感がいたるところから感じられて、とてもいい場所だなーと思った。複雑に入り組んだ街路のなかにはハマムや十字軍のつくったトンネル、城などの史跡が点在していて、数日この旧市街に泊るのも悪くない気がした。ただ、イスラエルはそんなに長く居ようとは考えてなかったので今日中にテルアビブまで行くことにした。


夕方前にハイファに戻ろうと駅に行くと閉まっていた。シャバットだといわれた。ユダヤの休日だ。金曜の日没から土曜の日没まで交通機関は閉まってしまうと聞いていたが、こんなに早く閉まるとは思ってなかった。周りの人に聞くとハイファまでのバスはまだあるようでバスターミナルへ歩いた。しばらくするとバスが来てハイファまで戻ることができた。宿で荷物をピックアップして、シャバットのときでも運行しているシェルート乗り場の場所を教えてもらった。宿のスタッフ含め町であった人たちは皆親切だった。物価は高いがイスラエルは旅しやすい国だとおもった。








2015/NOV/12 「待つ日」

昨日の夕飯のときにイスラエル人のモミはイスラエル到着は6時だと教えてくれた。

6時前に起きて窓から外を見るとどう見てもまだ海の上。モミ情報はイスラエル人というので最初は信じてたがたいてい間違っている。食堂に降りて朝食を取ってから一番上の甲板に上がった。朝日の中、遠くに見えるのがイスラエルには間違いなかった。

8時過ぎに船はハイファ港に入港した。港には軍隊の船が沢山停まっていて、まるで軍港のようだ。船長はみんなに写真を撮ると問題になるので撮らないように伝えた。到着を待ちわびでいたみんなは甲板の上で並んでハイファの港を見下ろした。船はゆっくりと着岸し、エジプト人スタッフは急にあわただしくなってきた。モミはすぐに自分のピックアップトラックへ向かい、カールとパポも他のトレーラーがすべて下へ降りると自分たちのトラックへ向かっていった。彼らのトラックが下りていくのを見守ってから、船のスタッフに別れを告げて下の階へ歩いて降りた。

下の階は重機でコンテナを次々と船の外へ出していて忙しそうだった。乗船したときに話をした太っちょのギリシャ人スタッフに入国審査を聞くと入国審査官が来て船の中で審査をするから待てという。壁にバックパックを立てかけて船の外のベンチへ行くとモミもカールもパポもトラックに乗って待っていた。どれくらい待つのかはだれも知らないのでベンチに横になり空を眺めて待つことにした。いくら待っても来る気配はない。モミは朝、「お前は車がないからすぐに港から出られるよ」と言ったが、そんなふうにはならない気がした。

腹が減ったなーと思って時計を見るともう昼過ぎだった。船のキッチンへ行きシェフに腹が減ったというとランチを出してくれた。ここには他に食料を手に入る場所はないので沢山食べることにした。でもひょっとしたら夕飯も船でたべることになるかもなーと心配になった。

さらに3時間を待った。カールはIntelから沢山のグッズの提供を受けていてT-shirt100枚くらい持ってるからくれると言い、トラックから3枚持って来てくれた。ブルー地に白でIntelとかかれたT-shirtは意外に活躍しそうだった。

少しして、遠くから小さな乗用車がやってきて、サングラスをかけた若い女の子が2人降りて、入国審査官だと名乗った。まだ20代前半にしか見えないし、怖いぐらい放射状に伸びる長い睫毛と濃すぎるアイラインは完全にギャルだ。しかも態度がでかく威圧的だ。こんな入国審査官は見たことがない。モミはとても喜んですぐに話しかけにいったが冷たくあしらわれている。

入国審査は船の入り口近くの部屋で始まった。まず船のクルーから始まり最後から2番目に部屋に入るとさっきのケバイ女が足を組んで肩肘をついて、「何処からきたの?」と聞いてきた。「日本」と答えると「なんでイスラエルに行きたいんだ?」という。「観光だ」と答えると「イスラエルのことを知ってるのか?」と聞いてきた。「60年位前に国連の承認を受けて建国されたユダヤ人国家で、中東戦争で周辺国と関係がこじれてしまっている」と答えると笑って「そうだ」と答えた。あとは両親の名前や住所、職業などありふれた質問だったが、既婚かと聞かれ「シングルだ」と答えると「なぜだ?」と言われた。大きなお世話だと思ったが「ポピュラーではないからだよ」と答えると「わかった」と言って終了した。「入国スタンプは別紙がいいのか?」と聞かれ「もちろん」と答えるとスタンプの押された紙をくれた。

これで港を出られるのかと思ったが、そこからさらにセキュリティーチェックがあり、また待たされた。セキュリティーチェックの係りも若いバッチリメイクの女性でそれを若い男が警備するというのがイスラエルの人事のようだ。トラックドライバーたちはさらに税関にいく必要があったが、車がないなら港から出ていいよと言われて一人で歩いて港のゲートを出た。時計を見るともう5時をまわっていた。

調べていた宿に向かいドミにチェックインした。175シュケル。2400円くらいだ。イスラエルは高いと聞いていたが、西ヨーロッパ並みだ。日本人のバックパッカーがエルサレムだけしか行かないですぐに逃げ出すというのもうなずける。


今日は朝から待つだけの1日だった。でもようやく中東に入った。





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