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2015/JUN/25 「PNG」

ヴァニモまで乗せてくれるといっていたサラの会社へ8時半に着くために7時にパンとコーヒーのホテルの朝食を食べ715分にホテルを出た。すこし雨が降っていたが歩いているうちに止んだ。
サラはパプアニューギニア大使館で偶然会ったインドネシア人で彼女は会社の社員のVISA申請に来ていた。昨日VISAの受け取りに行ったときにまた会って、社員たちも今日パプアニューギニアへ会社の車で向かうと言うので乗せてもらえないか頼んだのだ。

会社は住宅街の中で見つけづらかったが、スクーターに子供を乗せたおばさんが途中で乗せてくれ3ケツで連れて行ってくれた。最近親切に触れることが多いなーとワメナとの違いを実感した。

会社は入り口から人であふれていて、中は多くの人が床で寝ていた。「サラはいる?」と聞くと上のオフィスだと言われ階段で上がる。上の階も大勢の人が寝ていたが、一角に仕切られた部屋があり、そこにサラは座っていた。サラに「おはよう」と話しかけるとかなり驚いたようで「迷って来れないかと思った」と言った。横にいた中華系の若い男を指して、「これがボスだよ」と紹介してくれた。気弱そうな感じだがPNGで植林と木の輸出をしているそうだ。

明日ヴァニモからの飛行機に乗りたいんだというとボスは1週間くらいヴァニモからの飛行機はないと言う。「え?そんなはずは無いんだけど」とサラにいって、サラのPCで確認したいと言うといいよと貸してくれた。Skyscannerでしらべると明日ヴァニモ発のエアニューギニが出てきた。なんの脅しだと思いながらサラにあるよと言うと、サラ「あら、そう」とだけ答えた。

9時半くらいにドライバーだという男がきて、荷物を積みこみランクルに乗り込んだ。どうやら空きがあったから乗せてくれるのではなく、無理やり乗せてくれたようで、後部座席に4人横並びで乗った。後ろはみんなの荷物で満載でなんでこいつが乗ってくるんだという視線が痛かった。だたドライバーは挨拶程度の日本語を話し、途中揚げバナナを買ってくれたり何かと親切だった。

10時に会社を出て、途中スーパーに寄り、みんなタバコやらお菓子を買って国境に向かった。なせかみんな傘を買っているのが不思議だった。

国境に着くとイミグレーションで100,000Rs払うように言われた。中に入りパスポートを見せると判子を押して日付を書き足した後に「100,000RSだ」と言われた。このことかーと一瞬払おうかと思ったが、「イミグレでお金を払うなんて聞いたことがない。レシートをくれ」と言うと「レシートはない」「じゃ名前を教えてくれ。後で大使館をとおして確認する」と言うとなにやら怒り出し、パスポートを取り上げようとしたので奪い返す。なにやらインドネシア語で怒って言ったが何を言ってるかはわからなかった。車に戻るとみんなから冷たい目線を浴びた。「インドネシア人も50,000Rs外人は100,000Rs払うルールなんだ」と言われた。ドライバーに話すと「お金を払うのがおかしいのは知ってる。でもしょうがないんだ」といった。「一応判子はもらえた」というとすこし驚き「じゃーノープロブレムだ」と言って、PNG側のイミグレへみんなで向かった。

PNG側の会社が手配したランクルはすでに人が乗っていて助手席と2列目に7人が乗る必要があり、乗り合いバンを使ってくれと言われた。これ以上迷惑をかけるのもと思い、国境まで送ってくれたお礼を言って、乗り合いバンに乗り込んだ。

PNGの人は意外にきれいな格好をしていて、わりと近代的なんじゃないかと思ったが、国境からの乗り合いバンはヴァニモまで2回河を渡る必要があった。PNGはインフラがおそろしく未発達でヴァニモからは道路はなく、他の町へは飛行機で飛ぶ必要があった。

ヴァニモに着くと野外市場のような開けた場所に止まって、みんなバンを降りた。運ちゃんに「ヴァニモか?」と聞くと「そうだ。」と答えた。とりあえず「お金が無いからバス代が払えない。ATMを教えてくれ」と言うと、「乗せてってやるから待ってろ」と言って銀行前に連れて行ってくれた。「この後何処に行くんだ?」と聞かれて「一番安い宿」と言うと、「親戚がやってるバンガローがバロー村にあって50キナだ」と言う。50はここでは安いなと思い「そこに泊りたいというと」「市場からバスで行ける」と教えてくれた。

ATM1000キナほどおろしたが、手数料15キナ取られた。とんでもなく高い手数料だ。運転手にお礼を言ってバス代10キナを払った。明日のマダン行きの航空券を予約しに行こうとすると、運ちゃんはエアニューギニのオフィスまで乗せていくといい、またバンに乗り込んだ。

エアニューギニのオフィスは冷房が効いていて、丁寧な受け答えのパプア人女性が2名カウンターに座っていた。明日のマダン行きを聞くと650キナだと言う。PNG大使館の警備は400-500と言ってたのに高いなーと思い。「もっと安いのは無いか?」と聞くと「Travel Airという航空会社があるから聞いてみたら」と行き方を教えてくれた。近くなので歩いて向かっていると道にいる目の合う人みんなが挨拶をしてくる。そのほとんどは握手もしてくる。なんだかとてもフレンドリーだ。黒人100%で道端に座ってボーとしてる人がおおいので一見かなり危険に見えるがすごいウェルカム感だ。

まっすぐ歩いて曲がり角に立ってるおじさんに道を聞くとそこの建物だと教えてくれた。何処から来たんだと言うので「Japan」というと「おおー」と喜び、「昔、日本企業で働いてた」といって「おはようございます!ピサです!ハイ!ハイ!」と威勢よく日本語を披露したが知ってるのはそれだけのようだった。

Travel Airのオフィスはエアーニューギニに比べると3ランクくらい落ちた設備と対応でホントに飛行機飛ばせるの?という感じだったがマダンまで530キナだった。ただし明日は無く、明後日の昼の便と言われた。時間はあるのでそ航空券を買いたいと伝え、すぐに発券してもらった。隣のおばさんが発券中ずっと「それは格安よ」と話しかけつづけてきたのでたぶん安いのだろう。おばさんにマダンからカルカルアイランドに行くと言うとカルカルアイランドに親戚がいるからいったらたずねなさいと名前と住所をノートに書いてくれた。

お礼を言って外にでて、マダンに飛ぶ前にインドネシア大使館でVISA申請を済ませてしまおうと思い、さっきの角のおじさんに聞きに行くと、「まっすぐ行って、右に曲がりしばらくしたら、また右だ」と教えてくれたが、それだけでは物足りないようですこし離れて話をしている3人組みに話しかけガイドをするように話をつけた。「俺は今仕事中でここを動けないけど、こいつが連れて行くから安心しろ」といい。3人組の一人を指差した。どうやら車の誘導の仕事でその角から動いてはいけないらしい。紹介された3人組の一人に連れられまっすぐ歩いてるときに何度も手を振ってきたが、その角から離れることは無かった。

インドネシア大使館はすでに閉まっていたが、警備に頼むとスタッフを呼んでくれた。申請受付は午前中だといい、明日朝申請すれば明日の午後にVISAをくれると約束してくれた。とれも丁寧な対応でディリのインドネシア大使館とは同じ国の大使館とは信じられなかった。とりあえず用事はすべて済んだので宿を探さねばと案内してくれたパプア人と市場前の乗り合いバン乗り場へ戻った。するとまた何処へ行くんだと回りに人だかりができ、「バローバンガロー」と言うと、「あっちのバス停だ」と連れて行ってくれ、そこのバス待ちの人に聞くと間違いなさそうだった。みんなにお礼をいい「もう大丈夫だから」と解散してもらった。バス待ちのおばさんは「ここからは私に任せろ」といわんばかりに「ここでしばらく待ってなさい」と言った。しばらくするとマイクロバスが停まり、そのおばさんが運転手に話をし始めた。「これでいいの?」と聞くと乗りなという仕草をしたのでバックパックを背負ったまま乗り込んだ。するとおばさんは「これは私が働いている身体障害者施設の車だからタダでバローバンガローまで送ってあげる」と言う。みんなすごい面倒見の良さだ。

車は途中の村で何人か降ろした後にバローバンガローに着いた。宿はおんぼろのリゾートバンガローのようだった。スタッフに値段を聞くと55キナだと言う。聞いてたより5キナ高いなと思ったがすでに5時だったので部屋を見せてもらった。部屋はかなりぼろぼろで窓の網戸も破れ放題だった。外にある共用のトイレシャワーはかなり使うのをためらう代物で水は無いからタンクから自分で水を持って入ってくれと説明された。隣の小屋は共用キッチンだと言われたが、火は薪を燃やさなければならないので保温ジャーのお湯くらいしか使えないと思った。電気、ガス、水道は無く、7時くらいに発電機を回すから部屋の電気はつくよと言われた。55キナは2500円くらいで今までで一番高い宿ということになるなーと簡単に計算できた。あのシャワー室は使いたくないなーと思いバケツ3つにタンクの水を汲んで、水着に着替え、外で体を洗った。バンガローのほとんどはオーナー家族が使っていて、空いているのは4部屋くらいだったが現地人の家族が一組いるだけで他には客はいないようだった。

保温ジャーのお湯でジャヤプラのスーパーで買ったカップラーメンとパン、サバ缶を開けて食べた。なんとかすべてのやるべきことを済ませたという安心感と長い一日からの疲労で睡魔に襲われたが、このへんはマラリア汚染地帯だということを思い出して、蚊取り線香を焚いて、長袖長ズボンに靴下を履いてベットに横になった。










2015/JUN/22 「ネズミ宿」

良いホテルに泊れて安心していたが、このホテルには壁の裏や天井裏にすごい数のネズミがいた、それが夜中に走り回るので天井からも壁からもネズミの足音が聞こえる。薄いベニヤの裏を歩く音はかなり大きくトレッキングの疲れがなければとても寝れたものではない。夜中にサイドテーブルあたりでガサガサ音がして、まさかと思ったが朝起きるとビスケットの袋がちぎられて、中のビスケットが3分の1くらい無くなっていた。オーナーに部屋を変えてくれというと「他は空いてない」といい、ディスカウントしてくれたこともあり、しぶしぶ部屋に戻った。

取り合えずPAPUA.COMの藤原さんに会いに行き、トレッキングの報告をした。藤原さんは相変わらず忙しそうだったが、WIFIをまた使わせてくれてたのでワメナからジャヤプラ行きの航空券を取った。

夕食を一緒に食べる約束をして宿へ戻ると部屋の入り口脇のテーブルに置いていた、ビスケットの残りが袋ごとなくなっていた。そして奥のクローゼットの下からガサガサと音がした。覗き込むとビスケットの袋があり、その奥で黒い動物が動いていた。急いでレセプションに行き「まだ部屋の中にネズミがいる」と伝えると中華系のオーナーはパプア人スタッフを与えてくれて、そのパプア人と大急ぎで部屋に戻りクローゼットを持ち上げた。するとネズミはすでに逃げていてビスケットの袋だけが転がっていた。壁のコーナー部分の巾木が一部なくなり、いくらでも出入りできそうな穴が開いていた。オーナーに伝えると、薄い小さなベニヤ板を2枚持ってきてその穴を上から塞ぎ巾木と壁の間に差し込んで止めた。しかし壁のベニヤは下地がないのか押せば凹むようで、どうしてもまた他の隙間ができてしまう。釘もないのでしっかりと止めることもままならない。そもそも持ってきたベニヤも正形ではなく腐って千切れていた。それでもオーナーは「これでもう大丈夫」と万遍の笑みを見せた。パプア人スタッフは周りをほうきで掃いて持ち場へ帰っていった。


とりあえず、前に勧められたジウィカにでもいくかと、通りでベモに乗り、パサールバルと呼ばれる市場まで行ってみた。そこでジウィカ行きのバスを探したが、それよりも市場が活気があり楽しいそうだった。

市場の中へ入り見てまわると大勢のダニ族の女の人が野菜や果物を売っている。買い物をしてるダニ族もたくさんで、少数だがコテカをつけた男性もタバコの葉を売ってたりした。ここはダニ族の市場という感じで彼らの生活の雰囲気が感じられ実に楽しい場所だ。


市場で時間を使いすぎて、ジウィカ行きのバスに乗ったのは12時過ぎになってしまった。ジウィカはトレッキングでたずねたキリセの100倍腐った村だった。他に客はいないようだったがこちらに気がつくなり年寄りたちは着替えてきて、いっきに20人くらいに囲まれた。驚いたことにおばあさんたちも胸をさらけ出して写真撮るか?見たいな調子だ。年寄り以外もいろいろなものを家から持ってきて、聞いてもないのに馬鹿げた値段を言ってくる。


この村にはミイラがあるようで「ミイラか?見たいか?300,000Rsだ」という感じだ。村の中のみやげ物屋まで引っ張られていったが、どれも古いものには見えなかった。「うん。写真も撮らないし、ミイラも興味ないから」と言って村を出た。近くに塩田があり昔ながらの塩の精製が見れると聞いていたが、雨が降ってきたので露天に避難した。しばらくするとランクルのヒッチに成功してなんとかワメナに戻ってこれた。もう夕方だった。


6時半にPAPUA.COMに行くと藤原さんは店を閉じているとこで、シャッターの鍵を閉めると古いランクルに乗りこんだ。聞くと初代のランクルで1978年製だ。同じ年生まれかーと感傷にひたる。36年経っててもまったく問題ないそうだ。ただしパワステがないのでUターンのときに異常に回転半径がふくらんだ。

藤原さんがよく行くという食堂でメシをご馳走になった。藤原さんが始めてワメナに来たのは1981年でその時は町で服を着てる人はいなかったという。1991年に戻ってきたときにはすでに8割がた服を着ていたそうだ。彼はもともと登山家でヨーロッパやヒマラヤの8000m級の山も登ってたらしい。10年前にタスマニアンタイガーがまだニューギニア島にいると聞いてワメナにやってきたらしいが結局タイガーは絶滅していた。「日本には帰らないんですか?」と聞くと「もう家族もいないしね。ずっとここにいると思うよ」と答えたが声には寂しさが感じられた。藤原さんは宿までランクルで送ってくれた。


ジャヤプラへの飛行機は明日だ。今夜もネズミの足音を聞きながら寝るかとベッドに横になった。穴も塞がったし、どこからでもかかって来いと大の字になり天井を見つめた。







2015/JUN/21 「ひさしぶりのたんぱく質」

昨夜の雨は朝には止んでいた。ウグン村はすこし離れたところにも集落があり、こちら側からみると谷に突き出た丘の上に集落が集まっていてとても絵になる村だ。若い娘が石の塀に腰かけ編み物をしていた。

調理小屋にいき、コーヒーを頼んだ。ガイドとポーターはやたらとコーヒーを飲むので、コーヒーと砂糖はもうなくなりそうだった。最初砂糖は入れなかったが、疲れてくると砂糖はスプーン3杯が当たり前になった。

また白米、野菜炒め、焼きそばが朝食にでた。基本的に飯は常にこれだ。この焼きそばにコンビーフが入ったり、豚の缶詰が入ったりするがそれ以外の料理が出たことはなかった。食べ終わり荷物をまとめて調理小屋に戻るとポーター達が朝食を済ませたところだった。ふと見ると魚の缶詰をみな片手に持ち中身をすすっていた。その中にはゆで卵のようなものも見えた。ポーターは固まりなんとなく気まずい雰囲気が流れたが、昼にはワメナに戻るしもう食材も不要だと思い、「早く出よう」とだけ告げて外へでた。外ではイケジーがコテカの老人にポーズと取らせようとして家族ともめていた。


最終日だと思うと足取りも軽くどんどん進んだ。途中、谷からワメナの盆地が見える絶景ポイントがあり休憩したが、それ以外は歩き通して帰りのバスを拾うところまで着いた。そこからはガイドが「バスはないのでチャーター車を呼ぶしかない」と予想通りのことを言い出して、チェコ人たちともめ、結局呼んだ車を他の人たちとシェアしてワメナまで戻った。

ホテルのロビーでガイド料の清算をしてガイドたちと別れた。またひと悶着あるかと思ったがガイドはあっさりと2日分差し引いた額で納得した。


マーチンはホテルに3人部屋がないか聞いてくれたが満室だった。あの汚くて高くて水も出ない現地人用ラブホテルにまた戻るのかと思うとトレッキングの疲れが倍増した。マーチンたちのホテルは一人だと1300,000Rsでそれはないなと思い、宿に預けた荷物をもらいにいくと宿の中華系の女オーナーはあっさり200,000Rsにまけてくれた。心からお礼をいい、荷物を部屋に運びベッドに横になった。シャワーを浴びるとなんとお湯がでた。そんなに熱くはないが水に比べれば100倍良かった。

ワメナは標高が高く夕方以降は寒くて水シャワーは修行にちかかった。夕食には早かったが昼飯を食べてなく、腹が減って気分が悪くなってきたので外へ出て以前食べた食堂でサテー*10本注文した。この4日間は炭水化物ばかりだったので久しぶりのたんぱく質は身体に力が戻ってくるような味がした。オバチャンに「もう10本ね!」というと任せておけという感じで炭火の上に新しい串を並べて団扇でバタバタと扇ぎ始めた。

*自分でググりましょう。








2015/JUN/20 「ラストコテカマン」

6時くらいに目が覚めたので、とりあえず外にでて歩くことにした。まだほとんど外に人はいなかったが、下のほうからコテカをつけた男が上がってきた。挨拶をして握手するとその男はまだ30代のように見えた。今までみたコテカマンはかなり高齢のおじいさんだけでもう長くはなさそうな人が多かったが、彼くらいの年齢のコテカマンは見たことがなかった。10年くらいしたら年寄りたちはみんな亡くなって、コテカをつけてるのは彼だけになっているんじゃないだろうか。ラストコテカマンだ。

写真を撮ろうとするとダメダメという感じの仕草を面倒くさそうにして、颯爽ときつい登りを上がっていった。しばらくすると子供たちも起きたようで周りに寄ってきた。みんなニコニコしているが言葉が通じるわけではないので微笑みあってるだけだ。

ガイドブックにインドネシアの地図が付いていたのを思い出して、子供たちに見せてやるとすごい反響で、みんな釘付けになった。そこでインドネシアの主要な島を指差して名前を言うと、子供たちは復唱した。小さな子供はたぶん地図を見たことがなかったろうし、自分が何処に住んでるかもわからないだろう。最後にニューギニア島の真ん中あたりを指してバリエム谷だと言うとみんな大きな声で「バリエムバレー」と復唱した。マーチンが起きてきて「今日は地理の授業か?」と笑いながら遠くから話しかけてきた。

朝食を食べて、ガイドと今日の宿泊地の確認をした。このペースなら4日でワメナに戻れそうだ。たぶんガイドたちは日数が減り、ガイド料も減るのであまりうれしくはないだろう。

その日は昨日よりも景色がよい道を歩き、橋を渡り谷の対岸に渡り、谷を折り返してウグン村まで歩いた。最後は雨にあい、駆け足で宿泊小屋に駆け込んだ。雨はところどころで晴れ間が見えてバリエム谷には大きな虹がかかっていた。身体が冷えたので調理小屋で火を起こして温まってポーター達が着くのをまった。

この小屋は真ん中で仕切られていて、反対側からは豚の叫び声がたえず聞こえた。つまり豚と一つ屋根の下というわけだ。

6日の予定が4日になり食料が余るのでその日の夕食は豪華にコンビーフの缶詰を全部開けた。残りは卵と魚缶詰、野菜、米、インスタント麺くらいだ。夕食後はまたポーターたちとトランプをしてから部屋にかえり寝袋にもぐりこんだ。雨が降ったのですこし寒い夜だ。







2015/JUN/19 「チームワーク」

翌朝起きてホナイ*から出ると村の人たちがなにやら前の芝生に布を敷いて準備をしていた。コテカのおじいさんたちもさすがに朝は冷えるようでスウェットやジャンパーを着ている。しばらくすると布の上にコテカ**やら髪飾りなどのお土産がずらりと並べられた。ここは本当に観光客用にできている村のでようでげんなりした、子供も母親も写真を撮ろうとするとお金と言うし、ほとんど笑うこともなかった。

ガイドが朝食のコーヒーとパンを用意して、3人で外で食べ、荷物をまとめて出発した。ガイドにもう少し1日に歩く距離を増やすようにマーチンが話をした。

その日は何度か川を渡り、その度に谷からの登りがありきつかった。昼くらいに大きな村に着いたが、マーチンはなるべく先まで行きたいようでみんなを説得してすこし休憩しただけで出発した。ガイドはここで泊ろうと思っていたようで、反対したが前日が2時間しか歩かなかったので今日はもっと歩くということで納得した。どうやら彼らはあまり歩きたくないようで6日というのも彼らのペースでの話で4日くらいに短縮できそうだった。


さらに2時間くらい歩いたところで昼食を取った。この2時間は腹が減って力が出なくてしんどかった。ポーター達も文句を言いはじめ、途中何度も座り込んで抵抗した。


ガイドたちが飯の準備をしてるときにその家の人達が小屋に来て、一緒にガイドたちと火を囲んでお茶を飲んだり、村で取れたアボカドを買ったりした。コテカをつけたおじいさんも火にあたって、なにやらガイドと話をしている。キリセとは明らかに違う空気でようやく奥まで来たのかなと感じられた。マーチンは外で不機嫌そうに飯を食べ、イケジーは村人の写真を撮るのに夢中だった。このパーティーはお世辞にも良いチームワークとは言えなさそうだ。

飯の後にガイドとポーターを説得してさらにもう二つ先の村まで進んでその日は足を止めた。村にはトレッキング客用のトタン屋根の家があり、そこで寝ることになったが、ガイドたちは前日同様に調理小屋で寝るようだ。その村の人たちはとてもフレンドリーではじめはカメラを向けると逃げてた子供たちも最後はみんなで集合写真を撮るまでにいたった。子供たちは遅くまで遊んで欲しいようでずっとまわりをうろちょろし、こっちを見ていた。ただイケジーは写真を撮るのが強引で相手が怒ってしまってもお構いなしという無礼者なのでどの村でも基本的に嫌われていたし、マーチンは常に機嫌が悪そうで笑わないので村人は近寄らなかった。この二人は1ヶ月の休暇でパプアの少数民族を見にきているらしく、基本的に自分たちの目的が達成できればいいという感じで、コテカを着けたダニ族の写真をとることとトレッキングで身体を動かすこと以外には興味を示さなかった。


夕食後チェコ人たちが部屋に帰った後にガイドたちとトランプをした。彼らは昨夜から賭けトランプをしているようで、大貧民に似たゲームをしていた。ポーターの一人に教えてもらいながら参加したが、ルールがかなりランダムでほとんどポーターにやってもらう感じになってしまった。

* 自分でググりましょう。
**  自分でググりましょう







2015/JUN/18 「バリエム谷トレッキング」

夜トレッキングをするか考えて、せっかくだから谷へ入り、村を回ろうと決めた。

7時にホテルの朝食を食べにレセプションに行くとインドネシア式コーヒーと味のしないパンだけだった。歯を磨こうとすると蛇口の水が出てこない。スタッフに伝えるとホテルの裏のドラム缶の中の水を使えと言われた。200,000Rs払ってこんなホテルは他には無いだろうと笑えてきた。昨夜もいきなり女の人の叫び声が聞こえて、扉をたたく音がホテルに響き、その部屋からダニ人女性が飛び出していった。どうやら現地人にはラブホテルのように使われているようでトラブルも多そうだった。


トレッキングに行くからチェックアウトだと伝えて、チェコ人達の宿へ歩いた。チェコ人たちは歓迎してくれたが、ガイドは人数が増えるならガイド料を上げる言い出しもめることになった。1日のガイド料を300,000から400,000Rsにするのと市場で追加の食料を買って今のポーターの人数で足りるか決めるということで話がついた。チェコ人とガイドは昨日市場で食料を購入済みだったので、途中市場で俺の分だけ調達する必要があり、ガイドが必要なものを選びお金を払った。

市場もスーパー同様すべてべらぼうに高かった。チェコ人は野菜も卵もチェコよりも高いと笑っていた。さらに一人100,000Rsずつ払って野菜を調達した。チェコ人は一人は30代半ばの背の高い男でマーチンといい、もう一人はイケジーという背の低い65過ぎのおじいさんだった。イケジーは英語が苦手だが、自分の見てきた民族の話をするのが好きで一人でどんどん話をし常にニコニコしていた。マーチンはあまり話さないし笑わないが英語がイケジーより上手いので基本的には彼がイケジーの通訳をした。面白いくらい正反対の二人組で面白かった。


彼らはワメナに来る前にデカイという町に行きそこからコロワイというツリーハウスに住む民族の村にトレッキングに行ってきたといい、写真を見せてくれた。コロワイの人は以前は2030メートルくらいの高さの木の上に家を建てて暮らしていた民族で写真で見たものはジャングルの上から屋根が見えるものもあり、見たことのない光景だった。ダニ族と違ってコテカもつけないで紐みたいなものでチンコを縛ってあるようだった。ただし、30mもの高さのツリーハウスは昔のもので今は45m程度の高さに建てられたものに住んでる家族が少数いるだけで訪れた村では地上で暮らしていたという。


ダニ族同様裸の人は皆無で年寄りが写真を取らせてお金をもらうようなシステムができているそうだ。コロワイはいくつかのダニ族の村と同じようになんでもかんでもお金を請求するという親切心のかけらもない場所のようで彼らはトレッキングの途中、川を渡るのを手伝うのに200,00Rs要求され、流れが強く荷物があったのでしぶしぶ払ったらしい。しかも2回。パプアのハイランド地方の村はお金の影響でほんとにぶっ飛んだ場所になってしまったようだ。

ガイドと買い物が終わり、俺とマーチンは自分のバックパックは自分で背負うということでポーターの数が当初の予定通り3人で済んだ。ポーターの3人は英語は話せないがかなり気のいいやつらで、裸足で歩き、市場で買ったズタ袋に食料、調理用具を入れて肩に担いで、時折「ホ、ホ、ホ、ホ」とみんなで掛け声をかけながら歩いた。掛け声をかけてるときは本当に人間とサルの間の生き物に見えた。一番歳のいってる緑のシャツを着たヤリスは首や肩を動かすたびに「ギィー、ギィー」という機械のネジが回るような音を発していたが、何が原因かはわからなかった。彼はバリエム谷の奥の村で唐突にケイタイを取り出して「ハローハロー?」と遠くを見つめる特技があり、みんなを笑わした。

1泊目の予定地のキリセにはバスを降りたところから2時間歩いただけで着いてしまった。途中休憩しているときに後ろからコテカのおじいさんが歩いてやってきた。コテカ以外は何も身につけてないそのおじいさんは何故か折りたたみ傘を左手に握っていた。裸でもやはり濡れたくはないようだ。

キリセは観光客のために作られた感がひどく、ガイドにここ以外に泊れないかと話したが納得しなかった。宿泊者用に作られたホナイという伝統住居には丁寧にマットレスが敷かれていた。


トレッキング客用のホナイとは別にキッチン用の小屋があり、そこでガイドは調理を始めた。夕食作りは3時間を要した。そしてできたのは白ご飯、野菜焼きそば、野菜炒め。焼きそばは野菜炒めにインスタントの麺を混ぜただけなので味はまったく一緒だった。山で食べることを考えれば豪華な食事だ。食事を終えると外はすでに真っ暗でなにもやることが無いのでホナイにもどり寝るために横になった。

ポーターたちが夕食を食べながら話している声以外は何も聞こえない静かな夜だ。








2015/JUN/17 「コテカマン」

クパンからのニューギニア島のワメナまでは飛行機を3回乗り換え、翌日の昼過ぎに着いた。1日半がかりの移動だ。チェックインの列に並んでいるときにクパン空港が停電になったときはもう行けないと思ったが、定刻より1時間遅れただけで飛行機は離陸した。1回目の乗り換えのスラバヤでかなり時間があったので市内観光をしたが本当につまらない町だった。2回目の乗り換えのマッカーサルは以前建ちもしないプロジェクトのために何度も来たことがあったので妙に懐かしかった。マッカーサルの空港は新しく、空調も他の空港の比ではなくMonbelの寝袋がまた活躍した。2500m級登山の3シーズン用の寝袋はマッカーサル空港にちょうどフィットした。価格優先で選んだ飛行機は深夜250発なのにさらに1時間遅れて350に出発した。早朝パプア州の州都のジャヤプラに着きそこでさらに乗り換えてワメナ行きの飛行機に12時半に乗った。

ワメナに着くとかなりぐったりしていたが、とりあえず宿を探すために15kgのバックパックを背負う。空港から近い順に宿を回ることにした。1件目はツインルームしかなく300,000Rsだという。全然高い。二件目の扉を開けるとコテカ*だけを着けたダニ族**のおじさん立っていた。あまりに唐突で呆然としてると握手をしてきたので応じた。ワメナの町にいるコテカマンは観光客に写真を取らせてお金を稼ぐため周辺の村から出て来てると書いてあった。面倒なことになりそうなので視線を外してホテルのレセプションに値段を聞くと280,000Rsというので宿を出た。どこも高いなーと3件目に向かうとコテカのおじさんはあとを付いてくる。3件目は200,000Rsだが他より格段に汚かった。宿から出るとコテカおじさんがあっちにもあるぞと歩き始めた。しかしコテカおじさんの連れて行ってくれた宿はしまっていた。すると別のがあるこっちだこっちだと他の宿へ案内を始めた。後でお金をたかられそうだと思いおじさんより前を歩く、おじさんも遅れないように一生懸命付いて来る。そんな感じでコテカおじさんに追いかけられながらもう3件ほど回ったが200,000Rs以下の宿はなく、3件目の宿に戻ることにした。コテカおじさんに戻ると言うとさよならと手をふってもう追っかけてはこなかった。そんなに悪い人ではなかったなとすこし悪い気がした。


ホテルにチェックインしてシャワーを浴びて町を歩くことにしたが、この町は小さく宿探しですでに町のほとんどを歩いていた。ワメナは4000m5000mの山に囲まれた陸の孤島で飛行機でないとアクセスができないので物価が以上に高い。スーパーには丁寧に数少ない商品が棚に陳列されていて、他の町の3倍くらいするビスケットや飲み物はほとんど売れることがなさそうだった。クパンのスーパーで5000Rsで売られていた1.5Lの水は22,000Rsだった。

この辺鄙な町に10年以上住んでいる冒険家の日本人がいるというので会いに行くことに。彼はPAPUA.COMというこの町で唯一のネットカフェをやっていて、店の中には所狭しとPCやプリンターが置かれていた。4つくらいのモニターに囲まれて座って店のスタッフに指示を出しているその日本人は冒険家というよりはITエンジニアのようだった。日本語で話しかけるとひさしぶりの日本人の訪問という感じでうれしそうだった。ただひっきりなしに来るPC音痴のダニ族やPCトラブルで忙しそうだった。「ホテルも物価も高いですね」と言うと「インドネシアで一番物価の高い町だよ。だからバックパッカーは来ないよ」と笑って答えた。ジウ゛ィカという村なら自力でいけるし泊れるからそこに行ってみたらいいよと薦められ、戻ったら夕飯でも食べようということになった。御礼を言って夕食を食べる食堂を探しに出た。

そんなに食堂の数も無いので目に入ったところに入って、いつものナシチャンプル***を頼んだ。食事もやはり他の都市より割高で旅しづらいところに来てしまったなーと気が重くなった。すこしすると欧米人が2人入ってきて隣で食事を食べ始めた。話してみるとチェコ人で明日からバリエム谷へ6日間のトレッキングへ行くという。ガイドとポーターは手配済みだから加わりたければ明日の朝ホテルに来ればいいという。3人ならガイドとポーター代を3で割るからすこし安く済むので歓迎だという。とりあえず今夜考えて加わるなら明日の朝、彼らの宿に行くと伝えて店を後にした。

*自分でググりましょう。
**自分でググりましょう。
***自分でググりましょう。


 





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