2015/DEC/5 「10年ぶりのカイロ」

ダハブには結局8泊した。ダイビングのアドバンスを取ったのとシナイ山に登った以外はダラダラと過ごした。カイロから南アフリカまでの南下の下調べもすこししかしなかった。こんなにもあっという間に時間が経ってしまってのは久しぶりな気がした。

今日は他にもチホさん、ヨウコさん、シオリンがカイロに向かうがみんな夜行バスなので朝出発は独りだ。朝発にしたのはスエズ運河を見たかったからだ。

逆回りで旅してるカズくんからカイロの宿はサファリを勧められた。カイロはイギリスから日本に移住するときに訪れて以来なので10年ぶりだ。

バスは時間通りに出発して、砂漠と黄土色の山を眺めながらシナイ半島の海岸に沿ってはしる。シャルム エル シェイクでさらに客を乗せた。最初はキレイに見えた景色も一時間もすると飽きてしまった。

バスはシナイ半島とアフリカ大陸の付け根に近づいた。窓から運河の方を見るが運河は見えない。橋を渡るときに見れるのかなーと思っていると急に渋滞が始まった。検問があるのかなと運転手に聞くとトンネルだと教えてくれた。なんとスエズ運河は橋で渡るのではなくトンネルだった。もちろん運河はチラッとも見えない。残念すぎる。

バスはトンネルを抜けて大陸側にでた。そこからはカイロへ一直線でドンドンスピードを上げた。二時間ほどで町っぽくなってきて、再び渋滞にはまった。今度はカイロの日常の渋滞に違いなかった。

さらに一時間でバスは小さなバスターミナルに着いた。ここが何処だかは分からなかったが、ターミナルを出て警察に聞くと地下鉄の駅の場所を教えてくれた。前に来たときには地下鉄に乗った覚えはなかったのでこの10年で開通したのだろうか。記憶はかなり曖昧だ。

アタバ駅で降り、歩いてホテルへ向かった。ホテルは6階建ての雑居ビルの最上階で同じビルにもう2軒安宿が入居していた。カズ君曰くその2軒は南京虫がでるとのこと。カイロの町並みはビルの1階のショーウィンドウの明るさで、なんだか10年前よりも綺麗に見えた。こんなだったかなーと歩きながら10年前のことを思い出そうとしたが、あまり覚えていなかった。

とりあえず、荷物をベッドに置いてキッチンでお湯を沸かしてお茶を作った。ここの宿もダハブ同様に日本人がたくさんいて、夕飯を自炊してシェアしていた。さっそく誘われたのでシェア飯に参加することに。今夜は鯖の味噌煮のようだ。まさかカイロに着いてすぐに鯖の味噌煮を食べるとは思ってもいなかった。

少しするとダハブで会ったショウ君と綾ちゃんが宿に戻ってきた。1週間ぶりの再会だ。二人から東アフリカビザの申請方法を教えてもらった。彼らは明日ビザを受け取り、夜行でルクソールへ行くという。カイロは昔観光しているのでさっさとビザとって出よう。





2015/DEC/4 「緊急入院」

昨日シナイ山から戻るとすごい疲れを感じた。ご来光を見るので夜から登り始め、寝ずに戻ってくるので仕方ないが原因はカトリーナ修道院が開くのを待っている間にした筋トレだと思う。仕方ないのでシャワーを浴びて、しばらく休むことにした。

今日はダハブを出る準備をして、ゆっくりしようと考えていた。午後にチホさんが金曜に開かれるマーケットがあるというので、チホさん、シオリンと一緒に見に行くことにした。小さなマーケットで主にダハブに住む外国人がケーキや食材を売っていたが特にほしいものも無いのでロシア人のオバチャンの売ってるケーキを買った。少し見てから、チホさんの夕飯の買出しを付き合ってから宿にもどってきた。

しばらくすると本田さんが荷物をまとめているのが見えた。本田さんは少し前から謎の腹痛と微熱で寝込んでいて、いっこうに良くならず、食べ物もあまり食べられないので随分やせてしまっていた。みんなでベランダで話していると、本田さんはいつの間にか姿を消して、ベッドもかたづけ、レセプションにバックパックを預けてチェックアウトしていた。しばらくするとメールが来て、「病院に来て検査を受けたら入院することになりました」と書いてあった。

屋上にしまい忘れた本田さんの黄色いショートパンツが干してあったので、取り込んでバックパックに入れて、本田さんにそのことをメールすると「いつも助かります。これからも助けてください」と返信が来た。かなり弱っているようだ。











2015/DEC/2 「1本のビールのために」

ダハブに来たらダイビングとシナイ山に登ろうと遥か昔から考えていた。シナイ山はモーゼが十戒を授かった場所だ。

ホテルのレセプションに聞くと交通費、入場料、ガイド代込みで130ポンドだというので、別の代理店で100で申し込んだ。昨夜、出発予定だったが、出発時間に代理店に行くと人が集まらなかったからキャンセルになったと言われた。ダハブの観光客不足は深刻でツアーに申し込んでも人数が揃わなくてキャンセルというのがよくある。昨夜は二人しか集まらず、もう一人のフランス人と通りで観光客を客引きをして集めようとしたが、ダメだった。最後はエジプト人も誘ったが結局、最低定員に満たなかった。

今朝、同じ代理店に行くと今日は本当にあると言うが今度はこちらも人数を増やして確率を上げようと宿で行く人を募った。3人ほど興味を示したが、元ディーラーのヨウコさんだけが参加することになった。代理店にお金を払いに行こうとすると宿のレセプションは「何故うちで頼まないんだ?」とうったえてきた。「100なら申し込むよ」と言うと「じゃー100でいい」と言うので申し込むことにする。するとガイド代は別途かかると言い出した。「じゃーやめる」と言うとガイド代込みでいいとすぐに変えた。「全部込みだな?他には出費はないんだな?」と念を押すと「入場料は現地で払え」と言うのでそこを立ち去ろうと歩き出すと「入場料も込みでいい!」と背中越しに叫んだ。

ここでは物事1つに常に時間がかかる。2日前にも酒屋で買ったビールの炭酸が抜けていて変な味がして、みんな「それは、新しいのに交換させるしかないですね」と言うので酒屋へ新しいのと変えてもらいに行くとオヤジは「それはメーカーのせいで俺のせいではない」と譲らなかった。こっちも「お前が売ってるのに責任がないわけないだろ!」と怒るがオヤジは全く悪下もなく「知らん!メーカーに行って返品してもらえ」と言う。一緒にビールを買いにきた本田さんも目を点にしている。「じゃービールを1本もらってかえる」と言って冷蔵庫から持ってきた新しいビールを掴むとオヤジは警察を呼ぶと言い出した。こっちも「呼んだらいいよ」と言うと電話で何やら話始めた。

暫くすると二人の男がやって来て、警察だと名乗った。IDを見せてくれと言うと躊躇なく警察のIDのようなものを見せてきた。アラビア語なので全く読めないが、周りの連中は腰の装備を指して、警察だと言う。事情を説明すると警官は「それはオヤジの言う通りで店には責任は無い」と言いきった。もう一人の警官は「ガスが抜けてるのは開けてから時間が経っているからかも知れないだろ。半分近く飲んでしまっているので今から返品は無い」と言う「そんなのおかしいだろ!味も明らかにおかしいよ。飲んでみなよ」と言うと警官もオヤジも「俺はモスリムだから飲めない」と言い、都合のいいときだけモスリムらしさを発揮する。

警官たちは「もういいか?帰るぞ」といい始めたのでこのままでは終わってしまうと店のオヤジに「お前がファックメーカーのファックビールを仕入れたから悪いんだろ!」と強く言うとオヤジも「ファックっ言うなファック野郎!」とキレてきた。そこから悪口の応酬になり、警官にも飛び火し始めた。本田さんは俺とオヤジが交互に話すたびにオヤジを見て、俺を見て、またオヤジを見てと首だけを動かして眺めていた。一人の警官が「もう警察署に連れて行く」と言い始めたのでこれはまずいと思い、みんなに「ちょっと整理してみよう」といって、みんなの主張を纏めるように順序立てて話し、最後に「警察がダメだと言うので諦めます」と言うと、警察は何やらオヤジに話をした。オヤジに新しいビールのお金を渡そうとするとオヤジは「いや、金はいいと言う」そして、新しいビールを差し出す。こっちも「警察がダメだと言うからお金は払う」と言うと、向こうも「いや、いいです。どうぞ」言う。こっちももう払う気なので「どうぞどうぞ」という。何やら日本でよく見かける会計の時の光景みたいになってきた。

オヤジは「警察もあなたが怒こっているので1本くらいあげろと言ってる」と説明した。
警官にありがとうと言って、固い握手をすると「ここのルールを理解してくれてありがとう」と言った。オヤジにもまた固い握手をしてお礼を言った。激論の最中に増えた野次馬たちとも握手して店をでると皆、拍手して手を振って見送ってくれた。

持ち帰ったビールは激論のせいで時間が経ってすこしぬるかったが、それ以上に特別な味がした。今度は炭酸が抜けてたわけではない。




2015/NOV/28 「ITバックパッカー」

昨日は宿に着いてすぐに寝て、昼過ぎに起きて洗濯したり、スーパーに行ったりして終わった。本田さんはジャケットを渡すと喜んでくれ、お礼にビールを8本もくれた。

日本人宿のDEEP BLUE HOSTELは1泊20ポンドと破格で、夕飯はみんなで自炊をしてシェアをするのが慣習なのでだいぶ節約できそうだった。ビールは近所で11ポンドで売っていて瓶を返すと1ポンド返ってきた。なんとも居心地の良い物価だ。

ダハブには少しゆっくりしてからカイロへ向かおうと考えていた。アフリカ縦断の情報収拾やダイビングのアドバンスライセンス取得をしようと思う。10年前にエジプトを旅したときはシナイ半島に来なかったので少し観光もしたかった。

ダイビングライセンスは幾つかの店で聞き込みをすると、この宿で取るのが一番安そうだった。シオリンも取りたいというが彼女はPADIではないオープンウォーターライセンスしか持ってなく、そのうえライセンスカードも紛失していた。明日オーナーが朝に来るのでそのときに話そうということになったが、彼女はすでにもういいかなと言い始めていた。

ここについて、綾ちゃんに「実はシオリンとはアフリカ南下しなくなりました」と告げられた。驚くとダハブに来るまでにちょくちょく言い合いがあったこと、シオリンがもう一緒には行けないと決めていること、すでに二人の仲は悪いことを話してくれた。細かに何があったかは分からないが、綾ちゃんはショウ君と予定通りアフリカ南下をし、シオリンは別でまわるということらしい。ここに来るまであんなに仲良かったのにとそんなことが起きていたのに気がつかなかったことにショックを受けた。

ラウンジに戻ると本田さんがシュノーケルを貸してくれると言うので泳ぎに行くことにした。ダハブにはビーチは無く、どこも岩場から水に入る感じだが、小さな町で近いところなら宿から5分で泳ぎに行けた。他の客に聞いたライトハウスと呼ばれるシュノーケリングのポイントまで歩いて行くことにした。

シェリム エル シェイクからのロシアの航空機が爆破されたことによりダハブにはほとんどツーリストがいなかった。海岸沿いにはレストランが隙間なく並んでいたが、何処も歓呼鳥が鳴いていた。レストランに行くとメニューではメインで45~60ポンドと書いてあったが、交渉すると20ポンドで肉か魚の前菜とメインが食べられた。それでもゼロよりはいいとどの店も割りきっているようだった。通りにも活気はなく、たまにツーリストを見かける程度でやることのないエジプト人が溜まっている。テロはエジプトのツーリズムに壊滅的なダメージを与えていた。

ライトハウスでシュノーケルをして、さらにもう2ヶ所で泳いでみた。魚は多く水は透明だが珊瑚はそうでもなかった。海底にはタイヤやゴミが沈んでいて珊瑚も死にかけているように見えた。

その日のシェア飯は親子丼だった。久しぶりの日本食は染み入る美味さだ。日本人だけ10人くらい集まっているのはかなり違和感を覚えたが色々な事を聞けたので良かったし、アフリカ南下組はかなりリサーチをしていて、その情報量には驚ろかされた。旅の仕方はどんどん進化を遂げ、ほとんどの旅人は他の人のブログで情報を集め、それを携帯のアプリに保存してネットなしでも見れるようにしているようだ。オフラインで使える地図アプリがあるので地図も必要ない。みんな同じ複数のアプリを使い、宿選びで一番大事な事はWifiのあるなしになっていた。これはITバックパッカーとでも名付けられそうな旅人だ。


実際この宿にいる旅人にはWifi、スマホ、ノートパソコンのない世界で、ネットカフェと情報ノートを頼りに旅をしたことのある人はいなさそうだ。でもまー便利になったので助かるし、その時代にあった旅を楽しめば良い気がした。このぶんなら10年後には更に進化した旅のスタイルが出てきていることだろうし、そうすることで出来ることも出てくるだろう。その時代にまだ旅をしていれたら幸せだ。










2015/NOV/27 「三人旅の終点」

アカバ発の船はエジプト人達の乗船に予想以上に時間がかかり、港を出たのは深夜2時過ぎだった。外国人は皆2階のVIPラウンジに移されたが、冷蔵庫の中のような空調と煙草の煙がきつく快適とは言い難かった。しかも下の階のエジプト人も結局入ってきて、VIPの定義は曖昧なものになった。

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時間もするとすでにエジプト側に着いたようで外には人気のない港が見えた。外国人は集められてイミグレーションのある建物に向う。申請用紙を記入し25ドルを払うとアライバルビザの貼られたパスポートが戻ってきた。これでエジプト入国完了。

本田ノートには外は危ないのでバスの時間まで建物の中で待機とあったが、イミグレの職員がATMとバスターミナルまで同行してくれた。タクシーの運ちゃん達からバスは無いよー攻撃があったが、それは真っ赤なウソだと本田ノートに書いてあったので無視して進む。他の外国人はシェアタクシーでダハブに出発していったが、バスは6時半にあるのでバスターミナルで待つことにした。

時間通りにバスは出発して、1時間半でダハブに着いた。シナイ半島はイスラム国が潜んでいると聞いていたが道路には検問もあり、ダバブは安全そうに思えた。

ダハブのバスターミナルから宿は遠いのでタクシーを捕まえ交渉。本田ノートの20ポンドを下回る15ポンドで交渉成立。なんか得した気分。この宿はとても有名な日本人宿らしく、シオリンと綾ちゃんからもエルサレムからの道中何度も宿の話を聞いた。そして、この宿が彼女達の友達ショウくんとの合流場所でもあった。


ショウくんはベランダからこっちを見つけてすぐに二人と話始めた。二人は久しぶりの再会を楽しんでいるようで急ぐように色々な事を話している。エルサレムからダハブまでの引率のような旅はここで終わった。誰かと一緒に旅するのは苦手だが、悪くない旅だったなーと少し遠くから二人を見守った。

この宿には本田さんもいるはずだ。アテネからの船で回収した本田さんのジャケットを届けて、このジャケットとの旅もそろそろ終わりにしよう。




2015/NOV/26 「本田ノート」

昨夜はかなり早く寝たので5時には目が覚めて寝袋のなかでもごもごしていた。たいして眠くも無かったので起きて扉を開けると外はうす明るくなっていた。ウロコ雲が地平線から伸びて空を覆い朝日を浴びて美しい赤いグラデーションをつくっている。太陽は岩山の裏から昇って来るのでまだ見えない。

同室のシオリンと綾ちゃんは話しかけても反応が無いので一人で裏の山にのぼりはじめた。頂上にはすでに5人ほどツーリストが昇ってくる太陽を待っていた。まわりの岩山や砂は朝日でオレンジ色を帯びている。砂漠の朝だ。

岩山から降りて部屋に戻ると二人はまだ寝ていたので無理矢理起こした。何のために高いお金を払ってここまで来たのだろうか。

昨夜夕飯を食べたテントでシンプルな朝食を食べて荷物を纏めて、ジープに乗り込んだ。ジープは颯爽に砂漠の道をラム村へ向かってはしる。途中ロバにまたがり、山羊を追う羊飼いが見えた。朝日を浴びたワディ ラムは昨日より美しく見えた。

ツアー会社のオフィスに戻るとタクシーがすでに待っていた。砂漠に持っていった物をバックパックに戻して、詰め直した。ニュージーランド人のロビンとメキシコ人の彼女に別れを告げてタクシーに乗り込んだ。彼は12月から3月まで野沢温泉のスキーリゾートで働くと話していた。野沢温泉スキー場には行ったことがなかったので、帰国したら行ってみようかなと思った。

タクシーは軽快に飛ばしアカバには1時間で到着した。ワディラムよりはるかに暑く、久しぶりに温暖な場所にきたなーと感じた。リゾートらしく海岸沿いにはヤシの木の生える道路が通っている。エジプト行きの船は夜の11時頃に出るのでアカバには泊まらずに今夜の船に乗ろうと考えていた。オデッサであった本田さんがメッセンジャーでイスラエルからエジプトまでの国境事情や船チケットやタクシーの値段、チケットオフィスの場所を送ってくれていて大いに助けられた。敬意を評してみんなで`本田ノート'と呼んでいた。

チケットオフィスに行くと本田ノートのとおりチケットは54ディナールで、夜8時にターミナルへ行くように言われた。

市場を歩いて、果物を物色するとワディ ムーサよりはるかに物価が安いことに気がついた。ワディ ムーサでは全ての金額が0.5ディナール単位でそれより細かな数字は無かったが、ここでは0.1単位でより細かい金額設定だ。1ディナールした缶ジュースは0.25ディナールで、6ディナールした缶ビールは1.5ディナールだ。さらにこの町はTax freeなので煙草、酒は何処で買っても安い。3人は目を輝かせた。ホントにペトラは馬鹿げた物価だったんだなーと驚いた。

とりあえずビールとプラムを買い3人で公園で乾杯。イスラエル以降物価が高く、飲めなかった久しぶりのビールはすこぶる旨かった。かなり時間があったのでビーチへ行ったり、史跡を見に行ったり本田ノートにあったWifiのあるマックにいって過ごした。物価が安くなったのでみんなで話して、ヨルダン最後のディナーはレストランで食べようということになった。ただし、残りの現金が3人で12ディナールしかなく、慎重なメニュー選びとディスカウントが必要だった。

夜の8時にチケットオフィスに置いた荷物をピックアップして、タクシーを拾って港へ向かった。本田ノートどおり値切ると4ディナールになった。フェリーターミナルの入り口はすごい大きな荷物をもった大勢のエジプト人が入り口に雪崩れ込んで詰まっていた。中に入れない大勢のエジプト人達は押合いへし合いして荒れ狂う海のようだ。だが、外国人と分かると警備の人がエジプト人の人だかりを一喝した。すると人だかりの真ん中に辛うじて歩けるだけの隙間が出来上がった。それはまるでモーゼが海を割ったような光景だった。モーゼは出エジプトで紅海を割ってイスラエル人を導いた。ここはまさにモーゼが渡った海だ。3人でその道を通って中に入った。出発まであと3時間、明日にはいよいよアフリカ大陸だ。











2015/NOV/25 「アメリカのプラネタリウムよりすごい星空」

昨日は国に対するストライキがあり、バスなど交通機関が停まっていた。その日はぺトラをまた観光したから特に影響は受けなかったが、今日動くのか不安だった。

朝、宿のオヤジに話すとバスは問題ないといい。しばらくするとホテルまでバスが来た。ヨルダンにはぺトラとワディーラムという観光名所があり、後者はそれほど興味は無かったが、シオリンは「友達がそこで見た星空がアメリカのプラネタリウムよりもすごいといってたんですよ」とまったく説得力のないことを言ってきたので行くことにした。

バスはラム村まで行き、そこでツアー会社に行き他のツーリストとジープでワディーラムの見所を回るというツアーに参加したこれらはすべてぺトラの宿で手配したものだ。他にはルーマニアのカップルとニュージーランド人とメキシコ人カップルが一緒だった。ルーマニア人女性は見所についてもあまり出歩かず、楽しんでいるようには見えなかったし、途中からは話もしなくなった。ここまで来て楽しめないのは辛いだろう。ニュージーランド人の青年は毎年冬に野沢温泉スキー場で働いているといい、彼女もとても好感が持てて、一緒に回っていて楽しかった。

ガイドは厳格なモスリムらしく、ツアーの途中でも祈りの時間は砂の上で礼拝をした。砂丘や岩のブリッジなどの見所を見た後、今夜の宿泊場所のベドウィンのテントキャンプについた。テントはツアー客用に個室になったしっかりした骨組にテント地を張ったものだったが、食事用のテントは本物っぽかった。

みんな疲れていたので3人でテントで横になっているとまんまと夕日を逃してしまった。あわててテントを出ると赤く染まった岩山と目の前にあり、暗くなるのをすわって眺めた。どの砂漠でも夕焼けの時間は例外なく綺麗だ。1時間もすれば終わってしまうこの景色はまるで無声映画を見ているようで、じっと見入ることができた。夕食の時間になり食堂テントで皆でご飯を食べ、ベドウィン楽器演奏を聴き、またテントに戻ろうと外へ出ると空はすでに星空だった。ただシオリンの言うアメリカのプラネタリウムよりいい星空は天気と月のせいでアメリカのプラネタリウムには到底およばないようだった

二人に折角なのでライトを使って写真に文字を入れて撮ってみようと言うと、二人は面白そうだと言い、3人で分担を決めた。カメラのシャッタースピードを15秒にして、12文字づつを携帯のライトで書くことにした。なかなか文字がきれいに書けなったが10回くらいトライしてようやくJORDANと夜の砂漠に浮かぶ光の文字が書けた。明日はアカバへ向かいエジプト行きの船に乗る。二人にとってこれが良い思いでになればよいなと思った。












2015/NOV/23 「ベドウィンの求婚ダンス」

ぺトラはまだ見ぬ有名遺跡のひとつだ。昔から見てみたかったのでとても楽しみにしていた。ただし入場料は50ディナール(8300円くらい)とかつてない金額だった。入り口が開く前に入ればタダで入れるとヨシ君から聞いていたので悩んだが、37歳にもなって入場料を払わないのは無いと払うことにした。遺跡は広大で1日では主要な部分しか見れないので55ディナールの2日間券を購入した。

入り口からはひっきりなしに駱駝使い、ロバ使い、馬使いの客引きが来る。落ち着いて見学は不可能。少し歩くと岩の谷間のシークと呼ばれる渓谷へ入る。この先にインディージョーンズで使われたエル・ハズネという遺跡が見えてくるはずだ。わくわくするが、この道は意外と長い。そろそろかなーと歩いているとインディージョーンズの音楽が何処からとも無く聞こえてきた。どこかにスピーカーがあり、演出かな?と思って後ろを振り返るとシオリンが携帯からインディージョーンズのテーマを流し、ペプシを飲みながら歩いていた。目があうと「ダメですか? 」というので「他の客もいるから大音量はさけようね」とだけ伝えた。

そうこうしているうちに渓谷の隙間から遺跡が見えた。でたー!といろいろな距離から見てみる。そしてその先の広場に出ると急に明るくなりエル・ハズネがドーンと構えていた。そして駱駝使いや、物売りたちもドーンと構えていた。

エル・ハズネは建物自体はそれほど繊細な装飾があるわけではなく大味でどちらかと言うと谷間の壁面に作られているロケーションも含めて面白いという感じだ。

ぺトラ遺跡は本当に広く、途中からメインルートを外れて、トレッキングルートのような道をすすみ、もとの道へもどろうとすると迷ってしまった。他のツーリストに聞いてなんとか戻れたが、下手をすると閉まるまでに戻れなくなりそうだ。それからはメインの道を進み、一番奥のアル・ディールまで行き、5時のバスに合わせて入り口まで戻ってきた。

ワディー・ムーサの宿、ヴァレンタインのホットシャワーは18時から20時までだったが、お湯が出るのは最初の一人までであとはほぼ水だった。標高の高いワディー・ムーサは寝袋に入らなければ辛いくらい寒かった。

昨日の夕飯は宿のビュッフェだったので今日は外食をしようということになり、レストランを探しに出た。最初スーパーで食材を買うことも考えたが信じられないほど物価は高く諦めた。ビールもあったが500ml缶で7ディナールと1000円以上もしたのでやめた。このスーパーは成城石井よりもはるかに高い。突然日本人らしき女の人が出てきた。話しかけると彼女はこの町に住んで3ヶ月になるといい、2軒隣のカフェで働いていた。後でカフェに寄るといって別れた。

結局夕飯はケバブレストランでシャワルマとポテトを食べて済ませた。先ほどの日本人の女の人の働くカフェへ行ってみると、チャイを出してくれた。彼女は最初ワディー・ムーサの町が気に入ってここへ来たといったが、聞いてもいないのに始めて観光に来たときにカフェのオーナーにナンパされて付き合うことになったと話始めた。結局ここに来た理由はその彼氏のためらしい。大丈夫だろうかと思ったが言うのはやめておいた。

カフェにはオーナーの知り合いがたくさん出入りしていたが、シオリンに気がつくとやたらと絡み始めた。シオリンは髪と目が赤いのでぺトラでもいたるところでベドウィンから絡まれた。目の前にあるホテルのオーナーの弟だという男はシオリンの前でベドウィンの求婚のダンスだといってローブの前を開いて腰を振り出した。男はシオリンに一緒に踊るように手を引いたが、シオリンはドン引きで拒み続けた。男は引かずにどんどん腰の動きをエスカレートさせた。もう一人の男も踊りに加わったが踊りにベドウィンの伝統色はまったく感じられない。ベドウィンが聞いたらきっと全否定することだろう。これであの女の人は恋に落ちたのだろうか。















2015/NOV/22 「エイラットを駆け抜けろ」

今日はバスでテロ予告の出ているエイラットへ行き、なるはやで国境を越えてヨルダンへ入る。ヨルダンのアカバからぺトラのあるワディ・ムーサへのバスに乗るには早朝に出る必要があった。8時発のバスに乗るためにイブじいの息子の車でバスターミナルへ送ってもらうことになった。

バスターミナルに着くとなんとチケットは売り切れで10時のバスしか乗れないと言われた。こんなにたくさんの人がバスで移動するとは思わなかった。仕方なくターミナルのカフェで時間をつぶす。エスプレッソとブラウニーを食べた。

バスは快適だったが予想通りアカバ13時発のバスには間に合いそうもなかった。エイラットのバスターミナルに着くとシオリンと綾ちゃんには「先に通りに出てタクシーを捕まえておく」と伝えてゲートを出た。通りにはタクシー数台が停まっていたがローカルもどんどん捕まえるので少し手間取った。二人を探すと二人して下を向いて携帯に見入っていた。そういうことだと誘拐されるぞと思ったが、二人を呼んで早くタクシーに乗るように伝えた。テロ予告が出ているのでエイラットは駆け抜けたかった。

15分も走るとイスラエルのイミグレーションの前で止まった。これでもうテロは心配ないだろうと安心した。出国税を105シュケル払い、あまった小銭でスプライトを買った。出国スタンプはなく、入国のときに貰った紙を回収して終わり。そのあとは歩いて国境を渡った。殺風景な国境だ。グッバイイスラエル、ハローヨルダン。

ヨルダンのイミグレにパスポートをわたすと入国スタンプを押された。これが唯一イスラエル入国の痕跡になるがイスラエルのスタンプが押されるよりはマシなはずだ。次に綾ちゃんがパスポートを渡す時にシオリンは「ここも確か別紙にスタンプを押してもらえるとブログに書いてありました」と言った。そうなの?なんで俺がパスポート出す前に言ってくれないの?と思ったが綾ちゃんがイミグレに聞いてみると「何故押したくないんだ!」と威圧的な返事が返ってきた。やっぱりダメなのかなーと思うとその後、緑色の紙が出てきて記入するように言われた。そして隣の部屋の偉そうな人に確認した後、その緑の紙に入国スタンプを押してくれた。シオリンも同じことをしてもらい、結局俺だけパスポートに押されてしまった。「えーー!そりゃーないよー。俺のも別紙にしてよー」とゴネるとパスポートに押されたスタンプの上からさらにスタンプをゴリゴリと押してなんだか分からないようにしてくれた。これはかなり不自然でスタンプ自体は残っているので微妙なラインだが、そのままスタンプがあるよりはいいはずだ。。

イミグレを出るとタクシーの運ちゃんたちがやってきて、アカバからのバスはもう無いといった。確かにバスは13時発でないのでここはタクってワディ・ムーサへ行くかタクってアカバの町へ行き明日のバスでワディ・ムーサに行くかしかない。宿代を考えればワディ・ムーサへ言ったほうが良さそうだった。値段は50ディナールだというがすぐに45に落ちた。「40ならワディ。ムーサへ行く。嫌ならアカバまでだ」と言うと折れてくれた。

タクシーはガンガン飛ばして、砂漠の真ん中の道を夕日をバックに走った。赤く染まった岩山はキレイでドライブのようだった。陽気な運ちゃんは途中のみやげ物屋で止まり、その屋上で写真をとるといいと連れて行ってくれた。

ワディ・ムーサの手前の村で何故か道をそれて路地に入っていき、一軒の家に着いた。そこは彼の家だといい、後でバーベキューをしようといいバーベキューセットを積み始めた。「腹は減ってないからいい」と断っても「いいからいいから」と言いホテルに着くとまた「今から近くでバーベキューをしよう。お金は取らないから」とひかなかった。だいぶ怪しくなってきたのでタクシー代を払ってレセプションに駆け込んだ。中に入るまで後ろから話しかけてきてしつこかった。レセプションのオヤジはそれを見て「ヨルダンではタダのものは無いよ」と言った。

夕食の後、シオリンと綾ちゃんは明日ぺトラ遺跡に行く前にインディージョーンズが見たいといいだした。ぺトラはインディージョーンズ最後の聖戦のロケ地だった。そういう客が多いのか宿にはDVDがあり見始めたが、英語だったのでシオリンと綾ちゃんは終始うつむいて携帯をいじっていた。宿のオヤジは100回以上見てるらしく、殆どの台詞を覚えていて、俳優が話す前にすべて台詞を言ってのけたが、映画鑑賞には邪魔でしょうがなかった。

 


2015/NOV/21 「クレイジーイブラヒムハウス」

今日はまたシャバットだ。シャバットの朝は嘆きの壁に多くのユダヤ人が集まるというので早朝に見に行ってきた。ついでにキリストの墓も見てオリーブ山を登って昼頃に宿にもどるとシオリンと綾ちゃんがダイニングにいた。二人は確か今日アンマンへ行くと話をしていた。

シオリンと綾ちゃんはイスラエルからヨルダンに行ってそれからエジプトで友達と合流して、アフリカを南下するらしいが、イスラム国が大きな障害となっていた。

数日前にイスラエルのエイラットにイスラム国がテロ予告を出した。具体的な町の名前を出してのテロ予告は初めての事らしい。シナイ半島にはイスラム国勢力が潜んでいるといわれていて、先月にはシェルム エルシェイク発のロシアの航空機が爆破されていた。つい数日前にパリで同時多発テロがあったし、同じ日にベイルートでも内戦後最大のテロがあった。

二人はエイラットを避け、キングフセイン橋を抜けてアンマンへ行きぺトラだけ見てアンマンからカイロへ飛ぶと話していたが航空券代が3万以上して悩んでいた。「田付さんはどうするんですか?」と聞かれて「キングフセインを抜けるにはイスラエルでヨルダンビザを取らないといけない。それだとイスラエル入国の痕跡がパスポートに残るし、出国税もエイラットから抜けるより倍近くするからエイラットから抜けるよ」というと一緒に行っていいかと言ってきた。特にシオリンは遠くからでも目立つのでテロの標的にされかねないと思って悩んだが、国境へのシェアタクシーなど協力できることも多いのでダハブまでは一緒に行くことにした。

「じゃー出発は明日だ。あまり目立つ格好は避けよう」と二人に伝えた。その日は特に予定もなく出発の準備をする予定だった。イブじいは昼ごはんを作ってくれた。初めての魚料理だったが塩辛くて、一つ以上食べると身体に悪そうだった。イブじいは女の子がいるので一日中家にいていろいろな話をした。昨日やってきたアイルランド人のおばあさんが出てきて挨拶をした。とても品のあるおばあさんでよく一人できたなーと思えるほど歳をとっていた。イブじいはおばあさんに「なにか不自由はないか?食べ物は足りているか?」と親切に話をした。72歳のイブじいが85歳のおばあさんを心配する姿はどこか感動的だった。

イブじいは「彼女は初めロシア正教会に泊ろうとしたがお金を一銭も持ってないので断られて、ここへ連れてこられた」と言った。どれくらいの滞在か?と聞くと「ずっとだ」と答えたらしい。彼女はここで死を迎えるためにやってきたと。「エルサレムで最後を迎えよと神様が言った」という。イブじいはそれは困ると説得して帰ってもらうことになった。

イブじいはそういうキリスト教徒が後を絶たないという。今までにも100人以上ここで死にたいという人がきたらしい。そのたびに説得したり、大使館に電話して引き取ってもらったりしているらしい。イブじいは「この家はクレイジーイブラヒムハウスだ」と言った。

以前1泊だけ泊ってどこかへいなくなったオーストラリア人がいて、ある日警察に呼び出されていくと、彼は牢屋に入っていて「イブラヒム!俺だ!」と話しかけてきたという。彼は髯も伸びて最初気づかなかったが、思い出して「君か?どうしたんだ?」と聞くと警察は「この男は岩のドームのなかで隠れていたので捕まえた」と言った。「何故そんなことをした?」と聞くと男は持っている大きなバックの中の箱にキリストが再び降りてくるといい。そのために岩のドームで待機しなければならないと真剣に話したらしい。警察を出るには保釈金が必要でそれをイブじいに頼んだ。イブじいは払ってやったと言った。

イブじいは宿代(寄付制)を払ったかはよくチェックするがお金のない人からはお金をとらない。アイルランドのおばあさんも払ってないし、韓国人カップルはイスラエルに来る前ハンガリーでお金もカードも盗難にあってしまったのでタダだ。しかもイブじいは毎日小遣いを与えている。韓国人は調子に乗ってイブじいに「ポテトチップスが食べたいー」などと催促を始めるし、アイルランドのおばあさんはイギリスのアパートのデポジットを払ってくれとイブじいに頼んでいた。

この宿の管理をしているピーターは前任のアメリカ人がトイレで心臓発作で亡くなったためにやってきた。彼はかなりフレンドリーで食材の買い物や洗濯もしてくれるが、2面性があることに気づき始めた。ある夜、彼は外出していて深夜1時くらいに帰ってきた。入り口の鍵はピーターが持って行ってしまったので用心のため鍵ではなく内側からフックで扉のロックをしていた。彼は夜帰ってくると鍵で開けようとしたがフックがかかっていて開かないことに気がついた。みんなまだダイニングで話していたので何か音がすると言って、こんな時間に誰だろう?と恐る恐る扉に行き、「誰ですか?」と聞くと抜こう側から急に扉をすごい強さで叩かれた。とてつもない大きな音とともにガラス窓を閉めるために内側から引っ掛けて固定していたフォークが吹っ飛んできた。強盗だ!と思ったがその後、扉の裏から聞いたことのある「ハッハッハー」という笑い声が聞こえて、扉を開けると笑顔のピーターが立っていた。何だったんだ?と思ったが笑いながら上の階へ上っていった。それ以来、いつかピーターは切れてイブじいを殺すんではないかと心配になった。


ここは本当にクレイジーイブラヒムハウスだ。






2015/NOV/20 「パレスチナ自治区」

昨夜メールを確認するとカメラ屋からレンズの修理が終わったとメールが来ていた。金額は1050シュケルと日本で直すのと変わらない値段だ。

9時前に宿をでて、カメラ屋に行きレンズを受け取った。また壊れないようにカメラのバッグを新調することにした。折角なのでしっかりしたバッグを買った。修理代と合わせて4万円。かなりの出費だ。

カメラ屋からまた旧市街のダマスカス門に戻り、そこからへブロンに行くことにした。カメラ屋で時間がかかったので少し遅くなったが、今日はパレスチナ自治区のへブロンとベツレヘムをまわることにした。

まず、バスでベツレヘムまで行きそこからへブロン行きの乗り合いバンに乗った。バンを探しているときに「今日はへブロンに行くな。危険だ」と何人かが話しかけてきたが乗り合いバンの客引きが「乗れ乗れ」というので乗り込んだ。乗り合いバンはすぐに出発して、へブロンに向かって南下していく。だが、街道からへブロンに行く道がイスラエル軍に封鎖されている。別の道に行くとまた封鎖されている。乗客は携帯で電話して、運ちゃんにアッチだコッチだと指示を出して、へブロンに行く道を探す。

しばらくして、コンクリートの腰壁で封鎖されている道の端をすり抜けて、へブロンに入っていった。「何処に行くんだ?」と運ちゃんに聞かれて、イブラハム モスクと答えるとモスクへの参道のような商店街の入り口で降ろしてくれた。町のお店のシャッターは全て降りていて、人もほとんど歩いていない。道路にはゴミが散乱していた。パレスチナ自治区はユダヤ教の休日シャバットも関係ないと聞いていたが、エルサレムよりも開いている店がない。パレスチナ人に聞いてみると「悪いイスラエル軍が来て、店を全て閉めさせた」と言った。よく分からないがイブラハム モスクを目指すことにした。

参道は全てシャッターが閉まっていて、かなり異様な雰囲気だ。しばらく行くと細い路地になり、道のすぐ上に金網が張られていた。金網の上にはイスラエル人が嫌がらせで投げた石やゴミがのっかっている。会うパレスチナ人は例外なく「ウェルカム」と言うので始めはとてもフレンドリーな人達だと思ったが、こっちの顔も見ずにウェルカムといって去っていく子供もいて、違和感を感じはじめた。この町はイスラエルの入植地が点在し、パレスチナ人とイスラエル人の衝突が起きている最前線だが、パレスチナ情勢に興味がある旅行者やジャーナリストが来る。パレスチナ人は旅行者にフレンドリーにすることでパレスチナ人はいい人だと宣伝をしているのかも知れないと思えた。

イブラハム モスクはイスラエル管轄エリアにありセキュリティチェックを通る必要があった。警備の軍人に話を聞くと昨日テルアビブとへブロンの北でパレスチナ人によるユダヤ人襲撃があり5人殺されたと教えてくれた。そのなかには巻き込まれたアメリカ人旅行者もいたそうだ。へブロンの町の店が全て閉まっているのも外出してる人が殆ど居ないのも襲撃を受けて、イスラエルがこの町を外出禁止にしたからだった。

モスクは金曜なのでムスリム以外は入れなかったので隣のシナゴークに行った。この二つは同じ場所に建っていて、そこにはイブラハムの墓があるといわれている。中ではユダヤ人が熱心に祈りを捧げていた。出るとまた同じ道を戻ってバス乗り場に着いた。バスにはイブラヒムハウスにいたシオリン、綾ちゃん、大学生が出発を待っていた。

バスはまもなく出発して1時間弱でベツレヘムに着いた。ここにはキリストの生まれた場所に建てられた教会があり、たくさんのツーリストがいた。へブロンに比べると明らかに平和な雰囲気だ。教会内のキリストが生まれた場所は巡礼ツアー客でごった返していて、入るのに一時間くらいかかった。巡礼ツアー客は祭壇に額を擦り付けて祈るので列はなかなか進まなかった。感極まって泣き崩れるひともいた。

ベツレヘムにはバンクシーの有名なグラフィティが幾つかある。既に夕方だったが、近いものから見に行くことにした。教会からさらに東へ進み坂道を下り、また東へ。途中でパレスチナ人の若者が「バンクシーか?」と聞いてきて、案内してくれた。そのグラフィティはガソリンスタンドの裏の壁にあり、思っていたよりはるかに大きかった。もう暗くなってしまったので、タクシーでバス乗り場へ戻ろうと思ったが、どうせタクるなら少し北にあるもう二つの絵も見に行くことにした。タクシーの運ちゃんにバンクシーの絵までと行ったが、運ちゃんはイスラエルの分離壁のコーナーで止まり、「ここからは閉まってるから絵は見れないよ」と言った。タクシーを降りると近くの男が「その先は今危険だ」と言う。金曜日はパレスチナの挑発がエスカレートする日らしく、別の日に出直したほうがいいといわれた。絵は二つあり一つはその先を通る必要はないので、そっちを見に行くことにした。少し歩くと防弾チョッキを着た鳩にライフルの照準が当たっている絵が壁にあった。見覚えのあるものだ。道路脇で何かが焼かれて煙がたちこめている。人は全く歩いてないが車通りはあった。そこからすこし行った先を折り返せば最後のバンクシーの絵があるはずだが、角には分離壁の監視塔とその横には閉まったゲートが見えた。折り返しの角付近では石や催涙弾のカスが地面に散らばっている。角まで行き、左へ曲がって最後の絵がある通りに入ると今まで以上に大きな石と催涙弾のカスがあたり一面散乱していた。ここも煙が立ち込めて鼻の粘膜が痛いことに気がついた。ただの煙ではなさそうだ。後ろで音がして振りかえると、石が地面に落ちて跳ねるのが見えた。催涙弾のような筒状のものも落ちてきて乾いた音を出した。次から次へと上から投げられている石や催涙弾がどんどん音を立てて地面にあたるが何処から飛んできているか暗くて見えない。さすがにこれ以上はヤバイなと思った。すぐに振り返り今来た道を角へ走った。そこから早歩きで角を曲がって元の通りにもどった。目の前にタクシーが止まり、扉を開けて「乗り込めー」と言うが無視して早歩きで鳩の絵の場所まで戻った。取り合えずイスラエル側に戻らないとと無意識に頭の中で繰り返した。そのまま歩いて分離壁沿いを北へ歩いてイスラエル兵が警備する塀の間を抜けた。イスラエル兵の後姿を見ながらイスラエル側をバス停へと歩くともう大丈夫だという安心感でおおきく息を吐いた。金曜の夜に来たのは失敗だったなーとすこし反省した。













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