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2017/FEB/10 「読めない移動」

ヤムスクロからマリへのバスは朝の5時発と言われたので4時半にバス会社に向かった。ところが、オフィスは閉まってるし、バス待ちの人達が床で寝ているだけだ。バスが出発したのは7時。何のために4時に起きたのかわからない。

このバスはマリとの国境を越えて、シカソという町までいく。距離にすると500kmくらいだが、シカソまでは14時間半かかった。コートジボワール側の国境では、もう出国するのに髄膜炎のワクチンを接種させられた。髄膜炎の予防接種が必用な国は多分世界でコートジボワールだけだが、入国の時でなく、なぜ出国の時に受けなければならないのか不明だ。こんな衛生的でない国境の掘っ立て小屋でワクチンを打たれることに抵抗したが、ここを通るものは打たなければ通さないと言われて観念した。

シカソに着くと、モプティまでのバス会社の客引きが待機していて、夜23時発のバスに乗ることが出来た。ナイスな連携プレイだ。

マリに入るとイスラム色がぐっと上がった。そしてバスのクオリティがぐっと落ちた。
シカソからモプティも460kmの距離に13時間もかかった。この辺りは本当に移動時間が読めない。ヤムスクロから実に30時間の移動となった。

モプティは砂漠の国の雰囲気があり、なかなかよい雰囲気だった。麦わら帽子のフラニ族の男がヤギを連れて歩き、口の回りに泥棒髭のような刺青をしたフラニ族の女が頭に籠を乗せて売り物を運んでいる。通りにはバイクと中国製のトゥクトゥクのような乗り物が行き交っている。

調べていた宿はいかにも昔は旅人で賑わっていたと言う感じで、今は客の姿は一人もいなかった。そして、呼んでもないのに、どこからともなくツーリストが来たと聞きつけて売り込みにやって来るガイド。ここは明らかに廃れた観光地だ。































2017/FEB/9 「バジリカ」

ヤムスクロは新しくできた首都だ。以前はアビジャンだったが、首都機能だけヤムスクロに移したのだ。こういった例はタンザニアのドドマなど他にもあるが、ヤムスクロもそれらと同じく、何もないサバンナの中にポツンと佇む小さな町だった。

何もないヤムスクロの見所は通称バジリカと呼ばれる世界一高いクーポラを持つバジリカ式カトリック大聖堂だ。これまた周りには何もない所にいきなり建っていて、遠くからでもクーポラが見える。

一体なぜここにこんなものを建てたのかわからない。これを建てたのは初代大統領だが、ヨーロッパのゼネコンが何社も協力して、フランスやイタリアから半端ない量の大理石や木材を持ってきて建てたらしい。家具はイタリアの会社がつくり、彫刻や絵もイタリアのアーティストが制作した。こんなに巨大にする必要があったのか?さぞかしヨーロッパの会社には利益が転がり込んだのだろう。

この教会は独立後20年間奇跡的な発展を遂げたことの神への感謝とした建てたと言うが、これが完成した頃にはクーデターが勃発して、経済成長はお先真っ暗だったことだろう。そんななか海外の会社を使い、海外の材料で国にお金のあまり落ちないこんな事業をするとは、さぞかし財政を圧迫したはずだ。

ガイドは建物について丁寧に色々と説明してくれたが、建設費だけは教えてくれなかった。多分なぜそんな金をかけてと批判の対象になるので秘密なのだろう。どちらかと言うとモスリム人口がキリスト教徒より多いコートジボワールで、これだけの金を特に市民の生活の向上にもならない巨大な建造物に使ったというのはスゴい。そんなことを大統領の一存で決められてしまうほどにアフリカの大統領制は大統領に権力が集中するのがアフリカの民主主義の大きな問題点だ。


町は湖に分断された敷地にあり、ゴミだらけの異様な緑色をした湖からは異臭が立ち込める。夜には水際にテーブルが並べられ、金のある現地人とNGOの白人が、異臭のなかビールと魚を食べる姿がみられる。こんなに緑溢れているのにこんなに臭い町は他にはないかもしれない。











2017/FEB/8 「総攻撃」

アビジャンの3泊目の夜に南京虫は総攻撃に転じた。昨日もそんなに寝れてないのに、今夜は朝の四時までベッドに上がってくる南京虫を退治した。電気を消すとさらに出てきそうで、消すに消せない。うっすらと意識があるまま、気がつくと朝7時を過ぎていた。今日はヤムスクロへ移動だ。そろそろ荷物を纏めなければならない。

外へ出て、通りの角に出る屋台でサンドイッチを食っていると、偶然そこにいたナイジェリア人がヤムスクロ行きのバスのオフィスまで案内してくれた。

宿から遠くない場所にあり、助かったと思ったが、そこから出発すると、バスはアビジャン北部のアジャメのバスターミナルに着き、おろされた。どうやらさっきのバスはここまでの送迎用らしい。聞くとヤムスクロ行きのバスは10時半には出るというので30分後だ。
ところが、このバスはバスターミナルを出たり、入ったり不穏な動きを繰り返し、出発したのは11時半過ぎで、さらに車でごった返しているアジャメを出て、ガソリンスタンドで止まり、ようやく幹線道路に出たときには12時半だった。最初のバスに乗ってから既に2時間半。因みにアビジャンからヤムスクロはたかだか200kmちょっとだ。南アなら2時間で到着しているだろう。

ヤムスクロに着いたのは午後の3時半。既に5時間半が経っていた。

コートジボワールで思ったことは、最初、アビジャンの遠景にビックリはしたが、発展を遂げた独立直後から、内戦を経て、経済が停滞し、アビジャンの高層ビル群は古くボロボロ、インフラも後退して、今ではこんな非効率な移動を強いられるようになってしまったというところだ。仮にコートジボワールが内戦をせずに、経済成長を続けていたら今とはかなり違った姿になっていたに違いない。後者を見てみたかった。

ヤムスクロに着いたときには寝不足と空腹で吐き気さえしていた。バスがアビジャン市内で動かなかったときは暑さで顎から汗がポタポタとズボンに絶えず落ちていたことを考えれば軽い脱水症状だったのかも知れない。とにかく、先ず近くのレストランで飯を食い、水分を補給して、最初に見つけたホテルにチェックインした。

宿は相変わらず、連れ込み宿のようで、少し後に入ってきたカップルは一時間のみの利用で1000CFA(200)だけ払っていた。一時間のみで利用出来るところがスゴい。シャワー付でトイレ共同の部屋で14000CFA(800)だったが、相変わらず網戸も蚊帳もなく不安になるつくりだ。コートジボワールの安宿は蚊対策が全くなされてない。マラリアはないのだろうか?

宿の近くにはスーパーがあり、なかなか便利だった。水を買い、シャワーを浴びて休むことにした。もう今日は観光は無理だ。アビジャンの寝不足をここで回復してから、マリに向かわなければ、ここからの長距離移動に耐えられないだろう。今日は夜にビールを飲みに行くだけで安斉にしていよう。


平屋の鋼板屋根の客室は夜になっても全く室内の温度が落ちず、外で寝たほうが遥かにましだった。




2017/FEB/7 「アビジャンの中身」

アビジャンの町の中心、プラトーは遠景には高層ビルが建ち並び近代的な町だが、実際にはかなり建物が老朽化していて、道路や歩道の整備も今一つだった。もう少し華やかな繁華街でもあるものだと思ったが、街中を歩いてみるとかなり廃れていて、立派なのは銀行の建物くらいだった。

コートジボワールは独立後、イボアールの奇跡と呼ばれるほどの発展を遂げた。だがそのあとはクーデターが続き、2度の内戦で国は後退した。内戦が起きるとどんな国でも経済活動がとまり、国は停滞する。これはアフリカの多くの国が経験し、歴史が証明している。そもそもアフリカではクーデターの成功率が異様に高いのが問題だ。軍事政権が樹立し、いつも数年後の民政移行が約束されるが、ほぼ100%守られることはないのが、大まかな流れだ。それからは別のクーデターが起きるか、仕組まれた選挙による形だけの民政移行後に独裁が始まる。アフリカ諸国はそんなことを1960年代の独立ラッシュ後、50年も続けている。別に無理して民主主義を語らないでいいのではないかと思う。

地図で見るとよく計画されたハイウェイ網と碁盤の目の街区、それぞれのエリアごとにバスターミナルが計画されていたが、今はバスが殆ど走っておらず、バスターミナルは空き地になり、市民は町中を走る行き先の決まったシェアタクシーを利用していた。ラグーンに分断されたアビジャンの町は、タクシーだけでは到底不十分で、明らかに公共の交通網が不足していた。なぜこのようになったのか分からないが、アビジャンは昨夜ラグーン越しに見たほど、中身は発展してなかった。

プラトーの東側ではモロッコの援助による水際開発のプロジェクトが計画中のようで、近代的な予想図が掲げられている。だがそれ以前にこの交通網をなんとかしなければ、市民はこの移動に無意味に時間を浪費する生活を強いられ続けるだろう。

プラトーの東のココディーでも開発が進んでいるようで、大使館や大使公邸はプラトーからココディーにどんどん移っているらしい。このお陰でリベリア大使館に行くにはだいぶ苦労することになった。

プラトーのマリ大使館では30分ほどでVISAが取れたので、そのままリベリア大使館へ向かったのだが、リベリア大使館はココディーに移動していて、場所も分からないのでタクシーで行くことになってしまった。

リベリア大使館の中は不思議な空気が流れていて、ベストを着た黒人のスタッフが紳士的な態度で申請書をくれ、記入してその場で申請した。ソファセットと冷水器の置かれたよく空調のきいた飾りっ毛のない部屋には、ポスター一つない壁に首都モンロビアにあるホテルの写真が何枚か額にはいって飾ってある。普通は国の観光地の写真とかがあるものだが、そんなに立派でもないホテルの写真しかないのは、きっと観光資源がよっぽど無いことを示しているのだろう。うーん。いろんな意味で楽しみだ。


明日の午後に受け取りと言われ、冷水器の水を二杯飲んでから外に出た。相変わらずの暑さで3歩で汗が噴き出す。ここからどうやったらトレッシュビルへ帰れるのだろう。本当になんとかしてほしいものだ。
















2017/FEB/5 「西アフリカのNY」

ケープコーストから国境までは、タコラディでミニバスを乗り継ぐ必要があった。多分アクラからアビジャン直通のバスもあるので、それも考えたが、残り現金が少ないので刻むことにした。これが直通バスより安かったかは謎だが、ケープコーストタコラディ9.5セディ、タコラディ国境17セディでそれぞれ荷物代で2セディと3セディ取られた。ガーナではたいてい運賃の2割程度の荷物代を払った。

国境は歩いて越えて、コートジボアール入国。髄膜炎の予防接種を受けてないと、国境で受けることになると聞いていたが、黄熱病のカードを見せると「オッケー」と入国させてくれた。

アビジャンに着いたのは夕方5時過ぎで、歩いて調べていた宿へ向かった。アビジャンの町はラグーンで分断された土地にあり、西アフリカのNYと言われる高層ビル街プラトーが北側にあり、ラグーンを挟んで南側に庶民の住むトレッシュビルがある。安宿は当然トレッシュビルにしかなく、カオスな雰囲気のトレッシュビルの路地には小さな商店や屋台が出ていて旅人には便利なところだった。

調べていたHotel Madaniは久しぶりに見る本当に汚い宿で、シングルルーム4000CFA(800)と、多分この町では最安の部類なのだろうが、網戸も蚊帳もなく、シャワー室の窓が網戸もない穴なので蚊が入り放題だった。トイレ無しの部屋だと3500CFA(700)だったが、その部屋は何故か床が水びだしだったのでやめておいた。ベッドのマットレスは端以外はぺったんこで背中で底の木の板の形がおおよそ把握できるほどだ。そして、東アフリカ以来の南京虫が登場。大小合わせて10匹ほど殺したが、この部屋にはその10倍は潜んでいることだろう。ブログでこの宿を勧めていた旅人は本当にここに泊まったのだろうか?

アフリカの宿は3,4年前の情報で、まー普通の宿でも、今はボロボロということが少なくない。メンテを知らないアフリカ人の宿が綺麗なのは建って数ヶ月だ。ここもその旅人が泊まった時は開店直後だったのかもしれない。

時刻は既に夕方で、トレッシュビルの未舗装の路地は騒がしい。道路を思いっきりふさいで小さなゴールを置いてサッカーをしている。通行人はボールを避けながら、端っこを歩かないといけないし、そもそも車は通れない。随分無茶なことをするなーと思ったら、トレッシュビルのそこかしこで行われていて、大人も子供も参加し、ギャラリーも集まって大賑わいだ。そういえばコートジボアールは去年アフリカネイションズカップの優勝国だ。やはり、これくらいやらないと強くはならないのかも知れない。たしかに日本にはここまでの情熱はない。

北へ向かって歩いていくと碁盤の目のような路地の先に高層ビルの群れが見えた。あれが噂に聞く西アフリカのNYに違いない。ビルの景色へ真っ直ぐに進んでいくと、大きな橋があり、その向こう岸がプラトーだった。空は夕焼けから夜に変わっていた。ネオンや電光看板でビルが光っている。巨大なLEDスクリーンさえ見える。アフリカとは思えない光景だ。まさかこんな景色を西アフリカで目にするとは思わなかった。橋を渡るのは明日に取っておくことにした。

その夜はネイションズカップ決勝戦が行われ、カメルーンがエジプトを下して優勝した。コートジボアール人達はやはり黒人のカメルーンを応援してたようで、終了のホイッスルと共にトレッシュビルには歓声が鳴り響いた。












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