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2015/JUN/12 「結核」

午後のVISA受け取りに間に合うように朝のバスでディリの宿に戻ってきた。
どういうわけかドミトリーにはベンしかいなくなっていた。聞くとインド人のラジは今朝急に宿を出て、スイス人2人は昨日1泊だけして片方はBaucauへ向かい、もう一人は病院に行くためにクパンへ向かったそうだ。

ベンは体調を崩して昨日、今日は寝ていたらしい。ベンもスイス人たちのような咳をしていたが隠すように咳をしていた。レセプションに行くとスタッフがスイス人の一人は咳がひどく、血を吐いたのでバリ島の大きな病院にいくためにクパンへ向かったと教えてくれた。かなり恐ろしい事態だ。ベンも否定しているが明らかに感染したのだろう。

もうインドネシアに帰ろうかなとも思ったが週1便のAtauro島へのフェリーが明日あるので島だけ見に行ってから明後日クパンへ戻ることにした。

VISAの受け取りに大使館へ行くと問題なくVISAはもらえた。帰り道で何処の国の軍隊かといういでたちのバイクに乗ったラジが偶然やってきた。彼は昨晩ドミトリーでスイス人2人とベンが咳をしまくっているのを見て、危険を感じて宿を出たという。ラジは昨日なんとかVISA申請を終え、今日VISAをもらえたのでもうインドネシアへ向かうという。しばらく立ち話してからメールアドレスを交換して分かれた。

とりあえずベンのいる宿にいるのは危険極まりないと市内観光をして、夕飯を食べてから宿に戻った。明日は島に行くから感染リスクは低いだろうと思い、寝る前にドミトリーに戻るとベンが自分も明日島に行くから一緒に行こうという。なんとも厄介なやつだ。感染したくないからと断るのも悪いのでそうかとだけ伝えて、ベンのベッドから一番遠いベッドに横になりゆっくりと呼吸をした。あとで東ティモールの人は3人に1人が結核だと聞いた。



2015/JUN/11 「東ティモールのキリスト教」

インドネシアのVISAの受け取りは2日後の午後と言われたので12日で東ティモール第二の都市Baucauへ行くことにした。ポルトガル植民地時代の旧市街があると宿のスタッフが教えてくれた。

朝食を食べていると、クパンの宿で会ったスイス人の若い女の子2人組がやってきた。彼女達は今ボランティアをしてる知り合いの家に泊まっているが明日には知り合いが別の場所へ行くのでこの宿に移りたいらしい。二人はクパンにいたときから妙な咳をしていて、どう見ても何かの病気のようだった。一度医者に行くように進めたが病院には行きたくないと聞かなかった。ドイツ語圏の出身なのでクパンではベンと遅くまでドイツ語で話をしていた。

宿のスタッフにバスターミナルへの行き方を教えてもらい、ミクロレット*を乗り継いでターミナルへたどり着いた。着くと客引きがどんどん押し寄せてBaucau行きのバスに半ば強引に案内した。このへんはインドネシアとまったく変わらない。

30分ほどでバスは出発して3時間でBaucauに着いた。途中いくつもの集落が見え、それらはインドネシア側で見た集落とそこまで変わらないが、東ティモール側のほうが伝統的な住居の割合が圧倒的に高く、伝統的な建物だけの集落もいくつかあった。

バスが止まったのは掘っ立て小屋が並ぶ汚いマーケットのようなところでBaucauだと言われた。
とりあえず旧市街の中心の市場の場所を聞くと、そこからはだいぶ遠いいのでミクロレット*に乗れといわれた。ミクロレット*に乗り10分でどうやらこれだろうという建物に着いた。

旧市街の市場Mercado Municipalは市場としては使われてなくポルトガル植民地時代の遺構として修復された建物だった。そこから遠くないはずのホテルの名前を近くの商店で聞くと聞いていたホテルにすんなりたどり着けた。今歩いてきたあたりが旧市街ということらしい。確かに建物は古いが古いというよりは汚い。そして第二の都市にしてはあまりにも小さい町だ。商店が3件、食堂が2件、宿が4件くらいであとは教会くらいしかない。これをみてポルトガル時代の建物と判断できるひともそうはいないだろう。

宿はたぶんコロニアルな建物のひとつに数えられている古い洋館のような建物で、給水が無いので桶に貯めてある水を使うしかなかった。床には塩ビシートのようなものが敷かれていたが、その下の木が腐っているようでところどころ歩くと沈んだ。この宿はUN職員の目には留まらないようで宿泊者は他にはいなかった。

町を歩くと教会で多くのひとが集まっていた。何かの行事のようで民族衣装を来た人が両脇に並び打楽器のようなものをたたいていて、教会からマリア像を載せた神輿のようなものを担いだ人達が出てきた。民族衣装とキリスト教というのがなんともいえないコントラストだ。教会のそとには荷台にたくさんの子供を乗せたトラックが5台くらい並んでいた。マリア像はトラックに載せられ、警察の車が先導して、スクーター、人を満載したトラック、マリア像を載せたトラックの順で隊列を組んで新市外のほうへ向かっていった。マリア像がなければ何かのデモにしか見えないパレードだ。

夕方近くに、宿の息子のバイクを3ドルで借りて新市街を見て周り、町からすこし離れたビーチへ夕日を見にむかった。町は高台にあるのでビーチまでは荒れたオフロードの坂道を何度も曲がりながら降りていった。30mくらいはある巨大バイヤンツリーの下をくぐり、集落を通り過ぎて空が赤みがかったくらいにビーチにたどり着いた。

予想以上にきれいなビーチで先客が二人ほどいた。丘の上には石垣のような跡があり一番上に木が墓標のように刺さっていた。とても静かな良いビーチだ。

* 自分でググりましょう。





2015/JUN/10 「ラジとベン」

前日ディリの宿に着いたのは夕方7時。ディリまでの道は話に聞くよりはるかにマシな道のりだったが移動には聞いたとおり12時間以上かかった。

宿のドミトリーにはバイクで旅をしているインド人のラジとクパンの宿にいたドイツ人のベンがいた。ラジはオーストラリアの大学で建築を学び、その後1年程度設計の仕事をして辞めて、オーストラリアからインドまでのバイクの旅を始めたそうだ。大学の前にオーストラリアの永住権取得に8年を費やしたためすでに39歳だった。旅に出る前に隈研吾の事務所で働いていたと話すと「ホントかー」と喜んだが、パートナーだったと話すと目を丸くしていた。

ディリでまずやることはインドネシア再入国のためのVISA申請だ。5時半に起きて長ズボン、シャツに着替えてまだ暗い中宿を出る。インドネシア大使館は幸い宿から徒歩10分だった。情報だとこの大使館はあまりにやる気がなく、1日に40人程度しかVISA申請を受理できないという能力の低さらしい。そのため現地人含めて朝6時にまだ開いてない大使館にわれ先に来て警備員の持っている順番リストに名前を書くというおかしなことになっていた。しかもなぜか短パン、タンクトップでは中に入れてもらえないのでこの赤道からそう遠くない場所で長ズボンとシャツに着替える必要がある。65分に大使館の入り口に着いて警備員にリストを見せてもらうとすでに16人の名前が書いてあった。とりあえず17番目に名前を書いて宿に戻る。帰り道では空が徐々に明るくなっていくのがきれいだった。

コーヒーとパンの簡単な朝食を食べて、9時に大使館へもどると入り口が開いていて警備員にパスポートを見せて中に入れてもらえた。中で申請書をもらいその場で書いて、他の必要書類と一緒にして、窓口で渡すと「2日後の金曜日の午後2時だ」とだけ言われた。

町をぶらつきながら宿に戻るとベンも申請を受理してもらえたといって喜んでいた。ベンは10ヶ月の旅の予定でStar Alliance1年間有効の大陸間航空券を使って旅してるそうだ。彼は船とバス、鉄道で旅をして、陸路国境を越えてじっくり回りたいと会う人に熱っぽく語るが彼の航空券は場所と時間をあらかじめ決めて事前購入する必要があり、どんどん国を飛ばして回らないと間に合わないというまったく逆の用途である。この手の航空券は基本的には短期間でざっくり地球を回りたいという人用であり旅の柔軟性がなく値段も安くはない。大学卒業後に1年旅をするといった人向けだ。そして話を聞く限りベンはインドネシアの長距離フェリーをまだ一度も乗ってなかった。

2ヶ月VISAを申請したラジは書類不備で突き返されたと帰ってきた。彼は今日で4日目だという。

ディリはUNと各国のNGO活動くらいしか見所も無く、旅行者よりボランティアの外人のほうがはるかに数が多い。ほぼ唯一の観光名所のクリストル・レイと呼ばれる大きなキリスト像が半島の先端の丘の上に建っていた。そして、それは夕方に見るにはちょうど良さそうだった。

すこし早めに宿を出て、フルーツマーケットを見て、海沿いに漁師や子供たちを見ながら歩いていくことにした。ディリの人々は写真を撮るとどんどん集まってきて、こっちも撮れあっちも撮れと大騒ぎになる。見所はなくとも悪くない場所だ。

2時間以上かけて着いたクリストル・レイには多くのローカルが集まり夕日を眺めていた。帰りはバスで帰りたかったが、見当たらないので歩いて宿まで帰った。往復で14キロだ。途中大きなスーパーがあったのでのぞくと輸入の缶詰、瓶詰め、酒類、冷凍食材がびっしりと並んでいた。驚いたことにフルーツさえも輸入品だった。現地人が買い物してる気配はない。これもUNの職員用ということなのか。

日が沈んだ後のディリはメインストリート以外は真っ暗で暗闇の中から人の声がたくさん聞こえる。そこは現地人の粗末な家が建ち並ぶ場所だったなと昼間歩いたときの記憶をもとに宿への道をあるいた。





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