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2015/OCT/12 「図々しい乗客」

リヴィウからの列車は国境の町ウジホロドに早朝に着いた。駅の目の前のバスターミナルでコシツェ行きのバスを聞くと20分後だという。値段は165フリヴニャだったが手持ちが微妙に足りないのでカードで払い、残った現金を近くのお店で使いきることに。赤ワイン、サラミ、チーズ、ロールケーキ、トマトジュースを買って、さらにバスターミナルの売店でサンドイッチとコーヒーを買って、ちょうど消化できた。これでも6ドル程度だ。ウクライナはやはり安い。

バスに乗り込むとほとんどの座席には荷物が置いてあった。空いてる席に座って出発を待っていると、そのままバスは発車した。待たないでいいのかなーと不思議がっていると、すぐ近くのバス停に止まり、そこでたくさんの乗客が乗り込んできて、荷物の置いてあった席に着いた。彼らはバスターミナルでチケットを買わず、車掌に直接お金を渡している。そのお金は車掌のポケットに行くようで、値段は当然バスターミナルで買うよりも安い。両者とも得をするシステムだ。出発したときに席が荷物で埋まっていたのは、彼らが途中乗車で席がなくなるのを心配して、バスターミナルであらかじめ自分の荷物を座席に置いて確保したためだ。なんて図々しい連中だ。

町を出てしばらくすると出入国検査があった。EUになるのでバスから降りて、しっかりした税関の検査を受けた。バスの乗客たちは大量のウォッカを持っていて、入国ゲートに近づくと騒がしくなり、どうやってみんなで手分けして持ち込むかという相談をはじめた。

バスは昼過ぎにコシツェに着いた。雨が降っていたが、全身ゴアなのでそのまま宿まであるいた。ゴア大活躍だ。

宿は悪くなかったが、13ユーロとウクライナの4倍以上の値段でがっかりした。コシツェの町はきれいな古い町並みだったが、ウクライナの町と比べるときれい過ぎて、特に興味はわかなかった。ウクライナの町は荒廃感が良かったなーと急いだことを少し後悔した。





2015/OCT/11 「ハリークリシュナ!」

リヴィウの町は他のウクライナの町よりもさらに哀愁漂う町だ。こういった崩壊感は旧ソ連の町に多く見られるが、リヴィウのように町が古い建物でいっぱいだとホントに百年くらい前なんじゃと錯覚するほどだ。鉄板を繋げて作ったようなトラムは日本なら博物館に飾られてるだろう。

リヴィウの町はかなり気に入ったので、少し長居をしようかとも思ったが、スロヴァキアのタトラ山脈で雪が降り始める前に登山をしたかったので早く進むことにした。

町を歩いていると妙な衣装で音楽を奏でながら踊っている集団を見かけた。よく聞くと「ハリークリシュナ、ハリークリシュナ」と謳っていた。これはヒンドゥーのクリシュナ信仰だ!と思って、昔リシュケシュで1週間ヨガを習ったときのことを思い出した。ヨガの前に必ず「ハリークリシュナ!」と復唱させられた。そのヨガのクラスは他にはイスラエル人しかおらず、彼らはユダヤ教なので神様はヤハウェのみでクリシュナは認められないので、先生が「ハリークリシュナ!」と言っても誰も復唱しなかった。結局、毎回先生と二人で「ハリークリシュナ!」と言い合った。まさかウクライナでハリークリシュナを聞くとは思いもしなった。ただし、音楽はわりとヨーロッパ的で踊ってるのもウクライナ人なのであまりインドっぽさは感じられない。

昨日、駅でリヴィウからスロヴァキアのコシツェまでの列車の値段を聞くと758フリヴニャと信じられない値段が返ってきた。しかもバスは無いという。

今朝、再度駅へ行き国境の町までの値段を聞くと116フリヴニャだった。位置的には中間だが、値段は七分の一だ。ここは刻んでいこうと決めた。駅から出ると外の温度計は4度だった。昼過ぎでこの気温はやばい。今日からはスノボの時にはいているメリノウールのスパッツにレインパンツ。上はベースレイヤー+化繊中厚長袖+ダウン+ゴアジャケットとほぼフル装備にした。マーケットではおばちゃん達が編んだ、ウールの靴下や腹巻があり買うか悩んだが、ニット帽だけの補強にとどめた。

夜行列車の時間までホテルのリビングでビールを飲んでいると、ホテルのスタッフはなにやら外を見てからこっちへ来て「雪だ!今年初だよ」と嬉しそうに言った。何故うれしいのまったく理解できないニュースだった。ここに来て完全に冬に追いつかれた。今夜は零時58分発の列車で移動だ。外はさぞかし寒いことだろう。






2015/OCT/9 「旅は若いうちに」

オデッサからリヴィウへの夜行列車のチケットは21:30発が売り切れで仕方なく16:30を買った。到着は朝4:30だ。

朝の3時半に車掌に足を叩かれて起きた。まだ一時間も前の筈だがと、外を見るが真っ暗でなにも見えない。戻ってきた車掌は「ここがリヴィウだ!急げ」と急かす。急いで荷物を詰めて、靴を履いて列車を降りた。

外はこの旅始まって以来の寒さで駅の掲示板には気温2度と表示されていた。外は真っ暗で寒すぎたし、駅が町のどこにあるかも分からなかったので、駅で明るくなるのを待つことにした。こんな時間なのに駅は人で溢れて、椅子取りゲーム状態だ。

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時過ぎにようやく明るくなり、駅の近くのバスターミナルで市内までの行き方を聞くが、全く英語が通じない。周りの人に一人ずつ聞いてゆくと、一人の女の子が町の中心へ行くトラム乗り場へ連れていってくれた。

朝日を浴びるリヴィウの町はまるで映画のセットのようだった。中心部で降りて、予約した宿を探すが、ここでもホステルの看板はなく、ホステルの入り口があるコートヤードへのドアを開ける暗証番号が分からないのでホステルの扉までもたどり着けない。ウクライナの安宿はこんなのばっかだ。仕方ないので出てくる人を待って、扉が開いたときに中へ入った。

その日は疲れで午後まで寝てしまい、夕方にスーパーに買い出しにいって休んだ。最近は夜行明けはこんな感じが多い。疲れがなかなか抜けない。旅は若いうちにしたほうがいい。








2015/OCT/7  「オデッサ作戦」

もはやキシニョウの町でやることはなく、昨日は公園で筋トレに励んだ。

次はウクライナのリヴィウまで行こうと思ったが、バスは14時間もかかるというので、オデッサへ行き、そこから夜行列車でリヴィウへ行くことにした。オデッサまでは5時間でバスは頻発していた。また沿ドニエステル共和国を通ることになるのかと思ったら、折角なので沿ドニエステル共和国の首都ティラスポリを見てみたくなった。

ティラスポリまではバスで1時間半。また沿ドニエステル共和国の国境ゲートがあり、今度はその横のイミグレの建物へ行き、パスポートを見せて、名前やパスポート番号の書かれた紙を貰った。それを出国までもっていなくてはいけないようだ。自称独立国家なのに相変わらず面倒なやつらだ。案の定、モルドヴァ出国スタンプはもらえなかったが、入国スタンプもないので、これで辻褄が合うなと思った。ルーマニアへ抜けるか空路で出国ならどうなるのだろう?

ティラスポリは「ここが町のメインストリートですか?」と何度も聞かないとわからないくらいの町で、2時間で切り上げて、オデッサ行きのバスへ向かった。ティラスポリの見所を挙げるなら、ロシアでも見なくなったレーニン像とよくわからない戦車の置物だろうか。町の繁栄をみるかぎり、別に独立することもなかろうにと思えたが、彼らには彼らの主張があるのだろう。しかし、自国通貨を持っていたことには驚いた。その名も沿ドニエルテル・ルーブル。少しだけ両替したが、結局余ってしまったのでまたワインを買った。キシニョウでは見かけなかったワインなので沿ドニエステル共和国のワインかもしれない。楽しみだ。

オデッサには夕方に着いた。町はキエフ同様に古く崩壊感があり、良い感じだ。
宿に着いてから、すぐに外を歩きに出た。薄暗くなる空を見ながら港へ行き、そこからオペラハウスと一番栄えているデリパスカ通りを見て帰ってきた。この町はリゾート地だけあって、観光客用のレストランがおおく、中心部の通りはとてもキレイに整備されていた。物価も弱冠高めだ。

宿に帰ると部屋に日本人客がいた。話しかけると、長期旅行者だった。22年間のサラリーマン生活を辞めて、東南アジアに1ヶ月旅行に行ったら、それが半年になり、その後日本から再出発して陸路と船でアフリカを目指すことになったという突発的な旅だ。バックパックが妙に新しいのが始めての旅を物語っていた。
久しぶりに日本人の旅人に会ったので、沿ドニエステル共和国で買ったワインを空けた。どうやら貴腐ワインだったようで甘かったが、そこそこいけた。

先にビールを空けていたので、だいぶ酔いがまわってきた。ノートパソコンを持ってラウンジへ行き、機動戦士ガンダムの「オデッサ作戦」をネットで探して観始めた。オデッサと言えば多分これだろうという満足感がこみ上げてきた。













2015/OCT/4  「沿ドニエステル共和国」

キエフはとても気に入ったし、ウクライナはインド並みの物価なので、もう少し長く居ようと思ったが、モルドバへ行くことにした。バスターミナルでキシニョウまでのバスを聞くと、10時間かかるが夜行があるというので夜発にした。(ロシア語なので実際にはかなり苦戦している)
キエフはこの二日間で散々歩き回ったので、今日は遅く起きて、近くの綺麗なカフェで優雅な朝食にした。宿が1泊80フリヴニャなのに朝食は95フリヴニャもかかってしまったが、先進国にもまったく引けをとらないクオリティだった。

宿の客とも仲良くなり(娼婦は除く)、ナイジェリア人から実家の写真を見せられたが、塀で囲まれていて、刑務所のようだった。ナイジェリア人たちは外出する時にはいつも洋服にアイロンをかけてから出かけて行った。几帳面なやつらだ。ナイジェリアは、ほんの数日前にボコ・ハラムによるテロで100人以上の死者を出したばかりで、ウクライナに引けをとらない混乱具合の国だ。彼らはボコ・ハラムよりはロシア軍のほうがまだマシと考えているようだ。

20:00に宿を出て、バスターミナルへ行き、ケバブと飲み物を買ってバスに乗り込んだ。21:45にバスは出発し、すぐに寝ようと思ったが、国境までにいくつかの町に寄り、人が乗り降りしたので寝れなかった。夜の2時くらいにウクライナのイミグレで停まり、職員が乗り込んできた。終わって少し走るとバスはまた停まった。モルドヴァのイミグレかと思ったら、沿ドニエステル共和国だった。

これはモルドヴァのソ連大好きな人達が一方的に独立を宣言した自称独立国家で一丁前に国境ゲートを作って、入国審査もしている。モルドヴァ、ウクライナ国境沿いのドニエステル川周辺なので、ウクライナから入る場合はたいていこの国を通ることになる。

パスポートを預けて、入国カードを記入する。カードは上半分が入国用で、下半分が出国用になっていて、職員は上半分を破って回収した。そのあとバスは自称沿ドニエステル共和国の中をしばらく走り、今度は出国審査で停まった。同じように職員が入ってきて、パスポートをチェックし、出国カードを回収した。ツーリストは別室に連れて行かれてお金をたかられると聞いていたが、何もなかった。ただ、問題はモルドヴァの入国スタンプも無いということだ。あまりの睡魔で深く考えることはできず、難しいことは着いてから考えることにした。


時計を見るともう4時だった。全く寝れなかったので寝むりたかったが、その2時間後にバスはキシニョウの北バスターミナルに着いた。予定よりも2時間も早く。

まだ朝焼けの中、バスを降りたが、ひたすら眠かった。自称沿ドニエステル共和国、本当に迷惑なやつらだ。




2015/OCT/2 「ウクライナの縮図」

ベラルーシ出国審査は夜の2時くらいに電車の中であり、軍服の職員に起こされた。
朝の8時にキエフに着き、電車の中で入国審査があり、終わるとプラットホームに降りた。

駅の中 も外も白タクの勧誘が盛んだ。朝早いのに路上には花や果物を売るおばさんが並んでいる。

予約を入れていたホステルは駅から2キロ程度だったので、町を見ながら歩いて向かった。BOOKING.COMの地図は少し間違っていて、探すのに苦労した。ホステルは通りから奥に入ったコートヤードに面した建物の4階だったが、エレベーターは動かず階段でのぼった。

扉のベルを鳴らしても応答はなく、そのあと扉を数回叩くと中の男が開けてくれた。中は真っ暗で男は全く英語を理解しなかった。男は懐中電灯片手に宿の中を案内してくれたが、客室は臭く、客はウクライナ人とナイジェリア人しかいないようで、モスクワで泊まったホステル同様みんなここで暮らしているようだった。ベッドを選ぶように言われたが、「まず何故真っ暗か教えてくれ」と言うと、停電だと教えてくれた。宿を間違えたと言って、出ようかと思ったが、値段は13.3ユーロとインド並みの値段だったので、とりあえず一晩泊まることにした。

しばらくするとみんな起きてきて、朝食を食べ始めた。出稼ぎがほとんどだが、学生もいるように見える。昼過ぎに女の子が二人起きてきたが、朝食のパンとチーズをビールで掻き込んでいた。たぶん娼婦だろう。

バスルームで洗濯をしてから、街を見に宿をでた。
キエフの街はかなり大きく活気があり、古いクラシックな建物が整然と建ち並ぶ景観はモスクワを連想させた。旧ソ連の都市に共通する、道路を渡るための地下道や、地下のショッピングモールもあったが、スターリンの建てたモスクワの7つの尖塔そっくりの建物まであり驚いた。

夕飯を食べてから宿に戻ると、ダイニングにいたウクライナ人達が話してきた。一人は英語を少し話した。この宿には日本人の旅人が月に一人くらいの頻度で来るようで、皆1年以上旅をしていたと言う。「何故日本人ばかりウクライナに来るんだ?」と聞かれたので、「日本人ばかり来るんでなく、他の国の人はウクライナが 今、ホット過ぎて来れないんだ」と言うと、クリミアの話題になった。若い男はルハンシク出身だといい、まさに親ロ派との紛争地帯だった。もう一人も反ロシアで、ニューヨークの国連総会でのプーチンの動向がTVで映るたびに文句を言った。前日、ウクライナ代表団はプーチンの演説前に紛争で燃やされたウクライナの国旗をかざす抗議のパフォーマンスをしたばかりだ。ここのTVは国連総会とクリミアをめぐる紛争のニュース、軍隊の兵器の紹介番組しかやってない。

少し部屋を出て、戻ると男たちは言い合いになっていて、さっきの二人は怒って出ていってしまった。残った男はハリコフというロシア国境近くの町出身で両親はロシア人らしい。なのでウクライナ人とは全く意見が合わないし、そもそもウクライナ語も話せない。TVにオバマの演説が出ると「ファック オバマ!ファック アメリカ!」と叫んだ。できれば常にTVは消しておきたいと思った。

この宿はまるでウクライナの縮図だ。













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