2016/SEP/24 「プタディジャバのタクシー運転手」

昨日は疲れていたのに遅くまで寝付けなかったので、遅くまで寝ていようと思ったが、日が上がるとテントのなかは暑くていられなかった。

テントから出ると、アンディが、オランダ人のバックパッカーに昨日のカテドラルピークに登った話を話していた。相変わらずアンディは喋りまくっている。

食パンと目玉焼きに玉ねぎとトマトを炒めて、コーヒーといれて朝食にした。食料は今日いっぱいで無くなりそうだ。明日以降もここにいるなら買い出しが必要になる。車がないので買い出しもヒッチで行かなければならない。

昨日はあんなに疲れていたのに、思ったより疲れはなく、筋肉痛もなかった。洗濯を済ませると、ドミトリーに泊まっていた日本人の女の子がツアーの打ち合わせをガイドとするから、通訳してほしいと呼びにきた。この子は日本から南アに40日ほどの旅行で来ていて、どうしてもこのドラケンスバーグのグラントラバースというレソトとの国境を12日間かけて歩くロングトレイルを歩きたいと話していた。

外のテーブルでガイドと3人で話をすると、女の子とは全く話が噛み合ってなかった。宿を通して紹介してもらったこのガイドは、12日間のトレッキングのはずが、何故か5日間だと聞いてきたと言う。6日後に他のツアーがあるから、出来ないという。しかも、当初聞いていたガイドとは別人で、昨日行われるはずだったこのミーティングも今日にずらされたという。そもそもこの宿のツアーデスクはイマイチ信用がおけない。どこに行くにもツアーでないと行けないというし、黒人の下っ端ホテルスタッフには、客に何か聞かれてもツアーデスクで聞くようにと箝口令が敷かれている。ツアーの値段は南アの物価から考えると割高で、わざわざガイドが必要とも思えないトレイルをツアーで行くはめになる。彼女がグラントラバースに行きたいからガイドを紹介してくれと聞くと、ガイド料は12000ランド(14,600)と言ってきた。12日間なので17万円以上だ。これはガイド代だけで、食料や装備はすべて自分で用意して、荷物も自分で運ぶという条件でだ。先進国だってもっと安くできるだろう。

取り合えず、このガイドは行くことが出来ないので、他に行けるガイドがいるか探してもらうことにした。二日後までに彼女にメールで連絡してもらうことにした。金額もこの辺りの相場の1600ランド(4,380円)で探して、難しければ、少し値上げ交渉に応じるということにした。

話を終え、今度は自分のために、ここからレソトに行く方法を宿のスタッフに聞きにいった。やはり、レソトはツアーで行けと言われたが、レソト北部のモノンツァという国境は、ここからそう遠くなく、「国境手前のプタディジャバまで行けば、そこから国境へのバスがあるんじゃないのか?」と聞くと「多分あるんじゃない」と曖昧に答えるだけだった。どうせプタディジャバまではヒッチで行くつもりなので、国境へのバスさえあれば、なんとかレソトへ行けそうだ。なにより現地の人が行き来してるのだから何かしら交通手段があるはずだ。これ以上何を聞いても、教えてくれなさそうなのでそれで行くことにした。レセプションで宿代を払い、テントをたたんだ。洗濯物が乾いてないので、残った食材で昼飯を作り、13時過ぎに洗濯物が乾いてから宿の前でヒッチをはじめた。

プタディジャバまではヒッチを三回ほど乗り次いでたどり着いた。さすがに日没直前で、すぐに宿を探し始めたが、中心部に宿がなく、連れていってもらった宿も高くて諦めた。タクシーランクに戻ってくると、運ちゃん達が、「宿はダメだったのか?」と聞いてきたので「高かったよ」というと、一人の運ちゃんが、「ウチでよければ泊めてやる」といい、泊めてもらうことになった。

ハリスと名乗るその男は一つ電話をしてから「俺はまだ仕事があるから、先に家に送っていくよ。家に奥さんがいるから世話してくれる」といい、車に乗り込んだ。

ハリスの家はマンデラパークというエリアにあり、見るからにタウンシップという感じの中の一軒家だった。道は舗装されてなく、道にはどぶ川がながれ、コンクリートブロックにトタン屋根の似たような家が並んでいた。かなり貧しいエリアのようで、ヨハネスのソウェトよりよっぽどタウンシップという感じがした。男は奥さんのプルーデンツと二人の子供を紹介してから仕事に戻っていった。

家のなかは外見からは想像できないくらい綺麗で、ソファセットに大きなテレビとパソコンが置いてある。シャワーはないが、トイレは庭にあった。ここは電気、水道などの公共料金を一切払ってないらしい。不法住居区ということだ。この辺りの人は1ヶ月500ランド(3,650円)程度しか収入もなく、それでも仕事につけてない人も山ほどいるという。孤児がおおく、孤児院もあるが、入れない子供もおおく、彼らはストリートチルドレンになってゆく。ストリートチルドレンはそのまま、ストリートで浮浪者へと育ち、町中には居場所のない歳いった浮浪者が、食べ物やお金を恵んでくれとせがむ。たいして大きくもないこの町でも10分も歩くと三回くらいそうした人に出くわす。白人の寄り付かないこのタウンシップでは仕事は殆どなく、どうすることも出来ない負の連鎖が続いている。

奥さんは夕飯にパパ(トウモロコシの粉のマッシュポテト)とビーフを煮込んだ物を出してくれ、食後に甘いミルクティーを作ってくれた。

ハリスは8時過ぎに返ってきた。彼は明日も朝5時から仕事だという。こんなに頑張って月500ランド。カテドラルピークからの帰りに寄ったピザレストランで見た、優雅な食事会を催していた白人達と、同じ国民とはとても信じられないこの世界で、この町の人々は必死に暮らしている。






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