2016/OCT/11 「クラッシュ」

今日はDune45の更に先にあるビッグダディと呼ばれる最も大きな砂丘から日の出を見ようと考えていたが、昨夜キャンプサイトに帰ってきたときに、ガソリンが無いことに気がついた。キャンプ場の横にはガソリンスタンドがあるが、既に閉まっていて、開くのは朝の7時。これでは日の出には間に合わない。まー仕方ないかーと思ったが、あまり遅くに行くと暑くて登るのが大変そうだ。

朝の5時半にテントの外でケンドリックの声がするので出てみると、彼らはすでに起きて外にいた。やはり夜は寒くて車の中でも、一睡も出来なかったらしい。だから、あれほど言ったのに。レンタル代金をけちるからだ。彼らは食器も用意して来なかったので、昨夜のラーメンもキャンプサイトのバーから紙コップをもらって、それで食べていた。折角ここまで来て、あんまりけちると良い思い出にはならないだろう。飯もいつもスーパーで買ったブライドチキンだったり、ソーセージだったりと残念な食事を繰り返している。キャンプファイヤーも飯を食べ終わると早々に車に入ってしまい、あまり楽しんでいなかったようだし、折角の自然を満喫しないてはないと思うのだが。

一応ガソリンスタンドが開いているか見に行ってみたが、やはり、閉まっていた。その帰りに会ったセキュリティと話をすると、「国立公園のゲートのすぐ外にもう一つガソリンスタンドがあって、そっちはやってるよ」と教えてくれた。このキャンプ場は、国立公園の中にあり、砂丘へ行く道はこの先のゲートの。この砂丘へのゲートは朝5時半に開くのだが、国立公園のゲートは7時半にならないと開かない。そのため日の出を砂丘で見るには国立公園の中のキャンプ場に止まる必要があるのだ。

国立公園のゲートに行き、ガソリンスタンドに行きたいから通してくれと頼むと、通してくれた。6時前なのにゲートの外にはすでに10台以上車の列が出来ている。ガソリンいれて戻ってくると列は更に長くなっていた。

ヨータカップルを起こして、6時半に出発した。既に太陽は上がろうとしていて、ソススフレイ(ビッグダディのある場所)につく前に太陽が上がってしまった。
ソススフレイまでは普通の車では行けなく、5キロくらい手前で国立公園の運行するシャトルジープに乗り換える必要がある。往復130NAD949円)は距離の割りには高いが、道中四駆でやって来たヨーロピアン達が、次々と砂にはまったのを見て、それだけの価値はあると思った。ただ、なぜ最後の5キロを鋪装しなかったのは、やはり商売目的だろう。
砂地を走るには、それなりにテクニックが必要で、ただ四駆があれば走れる訳ではない。シャトルジープの運転手は、道中、砂にはまって身動きの取れなくなったヨーロピアンの四駆を、運転を代わって何度も出してやって、着く頃には英雄視されていた

ソススフレイは、周りを砂丘で囲まれ、いかにも砂漠という雰囲気が良かった。まず、デッドフレイと呼ばれる、干上がった塩湖に立つ枯れた木を見に行き、それからこの辺りで最大の砂丘ビッグダディに登り始めた。デッドフレイはネットで写真を何度も見たことがあり、カメラマンの撮った、幻想的な写真以上の感動は得られなかった。ビッグダディはDune45より遥かに大きく、稜線からの景色が素晴らしかった。ここまで登ると周りはどこまでも続く砂丘で、先程のデッドフレイも上から眺めることができる。近くでは気がつかなかったが、デッドフレイはかなり奥行きがあり、砂丘の間にある真っ白な皿のような大地は不思議な光景だ。

ビッグダディ頂上からは、大西洋まで続く砂丘が眺められ、遠くに大きな岩山が、裏側にはもう一つの塩の皿が見えた。Dune45よりも遥かにスケールが大きく壮大な眺めだ。
暫く上で過ごしてから、一気にデッドフレイ目掛けて砂丘の斜面を下った。ゴビ砂漠でもやったが、後先考えず走って砂丘を下るのは楽しい。

帰りもシャトルジープにのり、更に一時間くらい車で運転してキャンプサイトに戻ってきた。既に12:30を過ぎていて、今日車を返すのは厳しそうに思えた。EUROPCARのオフィスは夕方5時までだ。無理なら翌朝の9時に返せばいい。テントをたたみ、荷物を詰め込むと既に1時だった。まーもう間に合わないし、ゆっくり帰ろうということになった。

帰りはヨータ君が鋪装されている街道まで運転を志願してくれ、任せることにした。ケンドリックが、何処からか仕入れた情報にしたがい、帰りは来た道と違うもっと楽な道を使うことにした。だが、これは全くのガセネタで、カーブの多い峠道のようなところをひたすら走るとこになってしまった。ケンドリックは道に詳しいわけでもなく、何かで帰りは別の道にすると登り坂が少なく楽と読んだらしいが、来るときにどっちの道を通ったかもわからない状況で、違う道へと案内していた。ケンドリックの頼りなさはこの2日間でまざまざと見せつけられた。キャンプでも木を拾って来るわけでもなく、調理も一切手伝わないし、火の番さえ名乗りを上げなかった。どうやってソススフレイを見て回るかも殆ど事前情報を持たずにここまで来た彼らはこれから1年近く旅するというが本当にやっていけるのだろうか。

ケンドリックは、出発の前日にスーパーで買った、ソーセージとフライドポテトを分けてくれた。腐りはしてないが、さすがに二日前に揚げたポテトは、なんとも言えない味で砂漠の真ん中でなければ絶対食わないであろう代物だった。

ようやく、峠道を越え、もと来た道に合流した。そこからは直線で60kmも行けば鋪装道路に出られるはずだ。分岐でヨータ君に「代わろうか?」と聞いたが「大丈夫です」と言うので鋪装道路まで行ってもらうことにした。だが、結果的にこれが大きな災いを招くこととなってしまった。このころヨータ君は未舗装道路に慣れを感じはじめていて、片手でハンドルを持つようになっていた。それでも直線だし大丈夫だろうと思っていたが、とうとう最悪の事態は起きてしまった。少し左によった車を中央に戻そうハンドルを切ったときに、轍の間の砂を乗り越えコントロールを失った。ヤバっと思ったが、パニクってブレーキを踏んでしまい、車は道路の脇の土手に乗り上げ、さほど大きくない岩にぶつかって止まった。

スピードはだいぶ殺されていたので、そこまでの衝撃ではなかったが、車からはブーブーという音がなり続けている。車体はだいぶ傾いて止まっている。車のエンジンを切りブザーを止めて、全員外に出た。フロントバンパーがかなり、凹んでいるのと、フロントタイヤの上のシャーシのカバーが、ねじ曲がって取れている。よく見るとフロントガラスにもヒビがあった。

通りがかった車の男達の力を借りて、なんとか車を道路に下ろした。幸運にもエンジンはかかった。すこし、走らせてみると、車体の下のカバーがねじ曲がり、地面引きずられてしまっている。男が頑張ってそれをもぎ取り、なんとか走って戻れそうな感じになった。男達が警察署に行って、事故証明を貰うんだと教えてくれた。
皆、怪我もなくなんとかウィントフックに帰れれば、修理代はさておき、問題はそれ以上にはならないだろう。レホボスで警察署に行き、事故証明を貰った。車の修理代がかなり、心配だったが、警察官たちは5000NAD36,500円)を越えることは絶対ないと口を揃えて言うので、少し安心した。

ケンドリック達は明日の飛行機でヨハネスブルクに飛ぶので、空港に近いホテルに予約を取っていたので送ってあげた。残念なことに彼らは、明日、レンタカー屋との協議には加わらない。多分損害額はそこまで大きくならないので、ウィントフックに残るかどうかは自分達で決めていいよと言うと、彼らは予定通りヨハネスブルクに行くと答えた。ヨータ君の彼女は、レンタカー屋との話が完了するまで、全員ウィントフックに残るべきだと、かなり反発したが、まー被害額はキッチリ5人で割ると確認してあるので、行かせてやることにした。


ハザードを焚いて、時速50km以下で走って戻ってきたので、宿に戻ると夜11時を過ぎていた。車はヨータ君達のホテルに置けることになり、明朝ホテルで集合することにして別れた。静まり返ったホテルの庭に一人テントを張ってもぐりこんだ。ずいぶん長い1日になった。





















Recomend Posts

2017/APR/21 「最後の町」

日本へ帰る便は土曜日の昼にマドリッド発だったので、マドリッドには泊まらずトレドで 2 泊して、土曜の朝に直接空港へ向かうことにした。 マドリッド、トレド間は 30 分おきにバスがあり交通の便がよい。 トレドはスペインの有名観光地で、とても綺麗な町だ。スペインには何度も来てい...