この連れ込み宿は時間制で夜の10時から朝の8時で10ドルなので、荷物を纏めなければならない。昨夜チェックインするときには迷彩柄のテントのせいで軍人かと怪しまれて、持ち物を全て調べられたが、ただのツーリストだと分かるとスタッフは急にフレンドリーになり、日中も喜んで荷物を預かってくれた。因みにこの迷彩柄テントで怪しまれたのは初めてではなく、西アフリカの国境やポリスチェックポストでも何度かあった。西アフリカでは服もバックパックも迷彩柄はお勧めしない。
モンロビアの市民の足はシェアタクシーで、決まったルートを走っているタクシーを止めて乗れば良い。殆どボラれることもなくホテルから町の中心までは10kmもあるが70リベリアドル(70円)で行ける。
モンロビア中心部は碁盤の目のように道が通り、3階建てくらいの建物が並ぶ。結構起伏がありブロードストリートという一番の通りの終わりには小高い丘があり、その上にはかつては西アフリカで一番と言われたDucor Hotelの哀れな姿がある。この廃墟からは町と半島に延びるスラムが一望できて素晴らしい。殆ど見所のないモンロビアでここからの眺めが一番の見所と言っても過言ではない。
モンロビアは水道が整備されてなく、この廃墟の井戸に周辺の住民はポリタンクを持って水を汲みにやって来る。町には有料の給水車が周回しているし、電気は夜の6時以降にならないと利用できない。町中には内戦で廃墟と化した建物が未だに残っていて痛々しい。世界銀行が作った国を横断する道路を除けば、国のインフラは本当に酷い有様だ。
モンロビアは他のアフリカ諸国とは少しかわった建国の歴史がある。この国はアメリカへ連れていかれた黒人奴隷をアフリカへ帰そうというアメリカ植民協会によって作られた。と言っても実際には黒人を送り出し、モンロビアに移住区を建設し、その後、続けて作られた他のアメリカの植民地と統合してアメリカから独立させたのだ。当然そこには原住民が住んでいたのだが、アメリカからの黒人たちは先住民を差別し貴族社会のような世界を築いたという。そしてそれは血を血で洗う戦乱の始まりとなった。帰還した奴隷の子孫と先住民の戦争とはまさに暗黒の歴史だ。
そもそもアメリカから帰国した黒人の子孫もリベリア人口の2.5%に過ぎないし、カリブ海の島々からの帰還黒人を含めても5%程度だ。なのでアメリカからの帰還黒人の国と言うのはおかしな表現だろう。圧倒的多数は元々住んでいた人達なのだから。
一通り街を見て回ったあとDucor Hotelホテルから見えたスラムへ行ってみることにした。スラムは半島を埋め尽くすように伸びていて、その付け根の大きな通り沿いにスーパーや商店が密集してかなりの混雑を生み出している。そこから小道を入ればもうスラムだ。海岸沿いの道を歩いて進んだが、舗装された道が波で侵食され崩れかけている。通りには掘っ立て小屋の小さな店がびっしり入り、そこからさらに建物と建物の隙間へ入ると住居があり生活感が溢れていた。
Mapsmeにはこのスラムに観光名所の記号が一つポツンとあり、コットンツリーと書かれている。アメリカから大西洋を越え、ここにたどり着いた帰還黒人がコットンツリーの下で休息を得たという建国伝説があるが、それかどうかは定かではない。リベリア英語はアメリカ人の旅人をしてフランス語にしか聞こえなかったと言わしめるほど訛りが強く、これがその建国伝説に登場する木なのかは分からずじまいだった。
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